18・西播怪談実記草稿八4-1
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天文二十三年三月十二日、未明。
美作後藤氏の本拠地、三星城。
毛利氏当主が遺書同然の書状を持たせた使者を送り出したのと同時刻、城内には同じように苦悩する二人の男の姿があった。
二人の名は、後藤勝国と、その子・勝基。彼らもまた、家運を賭けた岐路に立たされていた。
「父上、いかがされますか」
「…………」
父にそう問う勝基は、現時点で齢十七。かなり意識して語気を強めている。
戦国期の美作国は、守護職の播磨赤松氏が衰退して以降、北は尼子、南は浦上に蚕食され、近隣諸国の思惑が入り乱れる緩衝地域となっていた。
明確な主を失って久しい美作国の中で、後藤一族の居城三星城は、この物語の中心、播磨国上月城より西におよそ六里(24㎞)。一応、後藤一族は在地領主のひとつとして扱われるが、その血は非常に古く、系図をたどれば中臣鎌足を祖として始まり、分家からは西行法師、後の世には後藤又兵衛の名で知られる後藤基次も輩出している。
「我ら後藤を、先の三浦にしてはならぬのです。今この時、父上の判断を賜りたい」
後藤家に関しては、かなり早い段階で勝基に家督が譲られていたことが分かっているが、この時期はまだ移行期。勝基が主となって東美作一帯の感状や所領問題に携わっていくのは、二年後の弘治二年ごろからとなる。
「……先の戦では、我らは尼子に敵対致し申しました。今朝方より河副様が見えられたのは、ただ播磨国境の様子を聞きたいがためでなく、此度、我らに叛意があるかないかを確認するために違いがありますまい」
河副久盛は、尼子家当主四代に使える筆頭家老。美作方面軍を指揮する立場にあり、出雲を出立した尼子軍主力を先導すべく、現在は川向こうの林野城に入り、城主・江見久盛らと共に協議を行っている。
尼子軍の本隊は、美作国まで徒歩二日の距離。彼らが南下し、播磨南部の室津浦上氏との合流を目指している以上、備前浦上氏との交戦は避けられない。
今朝の河副久盛の話では、早ければ明日には先遣隊が高田表に陣を張り始める。河副氏の本拠地が近いことと、多くの尼子の将兵が前年に訪れた経験を持つことから、主戦場には土地勘のあるほうが選ばれた。
「……尼子の上層部は、数に勝る主力を用いて高田勝山の地で備前独立派を撃滅し、落ち延びた者を逃さぬよう、我ら東美作の国人衆で備前、播磨国境に蓋をする心づもりなのだと聞いております。確かに、出来ぬ話ではないでしょう」
前年、尼子軍主力は干戈を交わす前に備前独立派を見事に取り逃している。今回の出兵は前回よりも多い三万を超す大軍勢。河副氏や宇山氏などの重臣だけでなく、新宮党も参戦し、尼子に歯向かう者をこの機会に一挙に殲滅せんという意気込みも、前回よりも強い意志を感じる布陣となっている。
「三浦殿も、このようなお気持ちだったのであろうか」
父のつぶやきは、今は亡き三浦貞久を思い起こしていた。彼は今際の際まで反尼子を主張し、彼が亡くなる天文十七年まで高田勝山の地が三浦一族の手を離れうことは無かった。
「勝基。貴様はどう思う」
父の問いに、勝基は大きく頭を振る。
「正直な所、尼子は気に入りません」
河副久盛が後藤の家に意見を求めたのは、この三星城より東の情勢。具体的には、播磨・美作国境の情勢と、備前浦上氏の新たに築城中の本拠地・天神山の進行度合い。どちらも後藤家が情報を集めたが、それは常に尼子の監視下の中で行われた。
勝基自身、陶の軍勢によって国境の上月城が接収されたと聞いた際には、情報収集に自分自身が出向こうと河副久盛に許可を求めた。しかし、久盛は親尼子派の江見久盛の手の者の同行無しに後藤家のみの勝手な行動は許さぬという返事で応じている。
しぶしぶながら了解し、江見氏同行のもとで偵察を終えた勝基だが、結果を知らせる際に後藤からの報告に差異がないかいちいち江見氏側に意見を求める河副久盛の行いは、勝基のプライドを大きく傷つけた。
名目上、今の美作国は尼子氏が守護職についてはいたが、実際にはこの国は大名になり損ねた小領主達によって成立している。かつて赤松、山名の大勢力が覇を唱え、その下で生き延びる道を模索し続けてきた彼らは、守護職の銘を重んじてはいるが頓着はない。
今の守護もそのうち廃れ、新たに誰かが就任するのであればそれはそれ。流れに応じて動けばよい。大事なのは、長くこの国で生き延びてきた自分自身と、その血統。頑固一徹、極めて身内意識の強い東美作の統治を、後藤の協力なしでできようものか。




