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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第十六章・西播怪談実記草稿八【天文二十三年一月一日(1554年2月2日)~】
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18・西播怪談実記草稿八3-1


 ―2―



 天文二十三年三月。郡山興禅寺。


 毛利氏当主・毛利隆元が虚ろな目で庭の松の枝先を眺めている。


 郡山城下、後に桜の名所となるこの場所で、石見国から矢継ぎ早に送られてくる伝令から逃れるように彼は屋敷を出奔し、亡者もかくやと言わんほどに暗鬱とした面持ちで寺領内の庭園を彷徨い歩いていた。


 三月に入り、ついに陶軍は毛利氏との合流を待たず、津和野攻めを本格化させた。


 朔日(ついたち)に長門国山口を出立した陶軍は、国境沿いの諸城を屈服させながら北上し、翌二日には津和野吉見氏の居城・三本松城の西約二里にまで迫り、西の支城、波多野滋信・秀信親子らが籠る賀年(かね)城の攻囲に取り掛かった。


 ただ吉見側とて、手をこまねいて待っていたわけではない。


 賀年城の守備隊、約三百。


 守備隊の指揮官に、昨年二度に亘って陶軍先遣隊を破った名将・下瀬頼定や吉見氏当主・吉見正頼の実弟・吉見範弘らを送り込むだけでなく、吉賀頼貞率いる別動隊百名を後詰めとして城外に伏せさせた。


 その甲斐もあってか、初日最初の総攻撃の際には、勝山の入り組んだ地形を利用しつつ、四千五百もの陶軍の猛攻を凌ぎ切り、十倍以上の兵力差に晒されながらも城兵らは皆よく耐え、よく忍んだ。


 しかし、あくる三日の攻勢から陶軍は攻め方を変えた。


 城内の内通者に呼びかけ、搦め手から侵入。突如湧き出た背後からの敵勢にさしもの賀年勢も前後不覚の混乱に陥り、陶方の勇将弘中隆兼の軍勢に退路を断たれる中、激しい抵抗の末、城主波多野親子と援軍の将吉見範弘が自害を遂げた。


 賀年勝山の落城は隆元の予想よりずっと早い。


 落城間際、かろうじて陶の包囲を突破し、主君の籠る三本松まで落ち延びた生存者の中に下瀬頼定の名があった事が隆元の心を完全に折れきるのを押し止めた。


 下瀬殿が居れば、まだ吉見も闘える。


 毛利氏といえば有名な三矢の訓が知られる。「一本では簡単に折れる矢も、三本束ねれば容易には折れぬ」という例の訓自体は後世の創作と言われるが、石見国津和野攻めに当たっては、毛利の命脈を絶つべく陶氏の方が三本の矢を放っていた。


 第一の矢は、元就考案の六ヵ国同盟の乗っ取り。


 播磨国上月に使者を送り込み、同盟の(かなめ)となる者の上に陶の関係者が立つことで、同盟の動きを監視しつつ、実質的に自分達の支配下に置くことができる。上月の地では既に山三つに渡って陶の旗が翻り、城は陶の手に落ち、要に選ばれた七条政範という若者も陶の使者に顎で使われていると聞く。


 同盟の発起人である毛利氏としては由々しき事態である。家は滅びる。


 第二の矢は、出雲尼子氏との講和話。


 陶が出雲尼子氏と和睦交渉に入っている。これは複数の情報筋から得られた信頼性の高い話で、実際に何処まで協議が進んでいるかは不明。津和野攻めが終われば北と西から毛利を締め上げようと提案する陶氏に対し、尼子側が返答を渋っているらしい。


 しかし何度逆立ちしても中国地方を代表する二大巨頭を敵に回す力はない。家は滅びる。


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