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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第0章・摂州大物崩れ【享禄四年(1531年)】
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01・摂州大物崩れ3-1


《 3 》



 同年六月七日。

 主戦場は西へと移動していた。

 

 細川浦上連合の敗戦は、即座に早馬で播磨国に伝えられた。今まで浦上氏による独裁政治に不満を持っていた播磨国人衆は、大半が赤松家に再度恭順の意を示したがそれも総てではない。新たに赤松総主導に政治体系に戻ることを拒否した者の中には、赤松の血統も少なからず存在している。


 長期に渡って浦上一族に頼りきりだった統治体制の弊害が出ていた。

 

 この結果は、晴政を少なからず落胆させた。


 播磨守護を司る赤松家を分類すれば、御一家衆と御一族衆に分けられる。

 

 赤松家の由来は、村上源氏の一派を祖とし、播磨国佐用庄を経て、縁あって赤松村における地頭職に就いたことで赤松の姓を称するようになった。その後に、足利幕府の建立に大功を挙げた赤松円心の時代を分岐点として、円心以前に分かれた血族を御一族衆、円心以降に分かれた血族を御一家衆に大別する。


 円心以降、しばらくは幕府の四職として重宝されたが、次第に強まる地方大名の台頭を危惧した幕府と対立し、嘉吉元年に六代将軍・足利義教を誅したことで一度幕府軍によって滅亡の憂き目にあっている。赤松家が再興したのは長禄二年、禁中の変で奪われた神爾を奪還することを由縁とした繋がりで、加賀半国、伊勢、備前、出雲の一部を領するようになり、旧領に復帰したのは応仁の乱の最中だった。

 

 逆転に次ぐ逆転、成果だけを見れば輝かしい。


 だが、その裏、赤松家の内部構造は歪も歪。嘉吉年間に赤松が一度滅びた後、一旦播磨国は因幡山名氏の領国支配を経ている。その過渡期において、浪人の道を選んだ赤松由来の血族があり、赤松家を見限った血族があった。帰農した血族もある。赤松総領家が復権をすると聞いて喜んだ一族があり、どこか後ろめたく思う一族があった。

 

 山名から赤松へ。赤松家による新体制は、かつての重臣の協力なしには成り立たない。そんな情勢下にも拘わらず、最も信頼すべき重臣の浦上氏が、赤松家内部の政争に乗じて主君を弑逆して乗っ取りを行っていた。


 だからこそ、国内の温度差は凄まじい。


 二度に渡る過去の政権変更の影響は両細川の乱の時代においても少なからず尾を引き、置塩の赤松総領家、小寺氏、別所氏などは東軍側へと、龍野赤松氏、宇野氏、浦上氏などは西軍へと、播磨国内が二分する水面下での動きに繋がるのである。


 そして今回、浦上から赤松へ。


 政変も三度目ともなれば一族分裂もやむ終えない。晴政も言葉では多く語らず、自らの行動で国内外に示す道を選んでいる。


 さて、摂津大物での戦いの後、播磨国内の各地では、赤松兵による追討戦が繰り広げられていた。土地によっては、人狩りと表記した方が正しいかも知れない。

 

 敗残兵らは一路、陸路を通って本国備前国境を目指し敗走を続けていた。武器や食料を戦場に投げ捨ててきた者も少なくなく、街道筋に関を敷いた赤松軍を避けるべく山道や間道を選ぶ。安易に近隣の村に避難しようものならば、恩賞目当ての村人達の格好の餌食となった。

 

 総ての戦場の中で、最も陰惨なものとされるのが撤退戦だとされる。

 

 だが、誰も彼らに同情する者はいない。誰もが生き残りをかけて戦っていた。

 

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