15・西播怪談実記草稿五1-1(明星石の話)
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同、十月二十三日(1553年11月28日)、昼。
――嫋、と政範に宛がわれた部屋に少女の奏でる琵琶の音が響き渡る。
その日、播磨と備前における非常に重大な約定が結ばれたのを、政範はただ見守ることしか出来なかった。
政範より遅れること数日、祖父・佐用則答が直接天神山の浦上宗景の屋敷を訪れ、正式に備前独立派に降ることを告げた。
表向きは尼子氏の脅威に協力し合うためと意思表明していたが、宗景の前で平伏して謙る祖父の姿はどちらの立場が上かを如実に物語っていた。その時、背中越しに見た祖父がどんな表情を浮かべていたか窺い知る事は出来なかった。
政範の心中も複雑である。
祖父の顔を見て、一瞬茶番に命を懸けさせられたと怒りを覚えたが、直ぐに時勢を考えれば内外共に面目を立てねばならない祖父の苦肉の策だと理解し、理性で感情を押し留めた。
名目だけの当主代理には、今後を占う会議に呼ばれる声は掛からなかった。
完全に蚊帳の外。祖父が領内をどうしようと話し合っているのか知る術もなく、ただ途方に暮れて庭先の南天の枝に止まる鵯が飛び去るのを見ていた。
「難しい顔をしないで。ちょっと怖い」
「……見えるのか」
部屋の隅、黒服面の少女が小さく笑う。
「ううん、見えない。見えないけど、貴方がなんとなく不機嫌だと感じることは出来る」
自分より小さな少女に己が未熟さを指摘され、政範はわざとらしく咳払いをして姿勢を整えた。
少女は宗景からの預けられたもの。彼女もまた大人の会議には呼ばれていない。
彼女はこの部屋に来るまで政範の後ろをついて歩き、廊下の角もちゃんと立ち止まってから曲がっていたので当然見えているのかと思っていた。冷静になって確認すれば、彼女の傍らには白木の杖が置かれていた。
「否、しかし、先ほど……」
「それは気のせい。この布は少しの光を通すけれど、私は貴方の顔も、部屋までの道中もほとんど何も見てない」
きっと自分は勘が鋭いのだと、黒服面をいじりながら事も無げに少女は言う。
そんなわけあるまい。以前、先天的に盲目の仕事仲間が、気配のみで行く先の障害物を感じ取り、事前に衝突を回避している話を、合戦で光を失い按摩となった者から聞いたことがある。その者は、後天的に盲いた自分は微妙な感覚が分からず、皆との行脚についていくのに骨が折れるとも愚痴っていた。
「光は分かるのか」
「そう、もう少し薄暗ければ良いんだけれど……」
雨雲は既に去っていた。政範は知らないが、初冬の弱くなった日差しが差し込む中、少女はいつも通り日の当たらぬ部屋の隅を好んでいた。
なんとなく、政範が彼女のそばに火鉢を置いてやると、少女は感謝の短く言葉を述べた。
「見えるのであれば、その覆面の下は、怪我かなにかか」
「ううん。違う。どうしたの、気になるの」
気にならないと言えば嘘になる。
そうして、あからさまに隠されているのであれば覗いてみたくもなる。しかし、してはならないと言われた事をしてしまう程、政範も子供ではない。
彼女の顔を覗く事を、政範は宗景から止められていた。
当時、日常的に自分の顔を隠したがる人間は一般的に存在していた。
それは、自らの罪で刺青を入れられた犯罪者だけではない。兎唇(口唇口蓋裂)や顎変形症などの先天奇形、血管腫、瘡、前世の罪によって生じると信じられていた業病の代名詞といえるハンセン病患者など、後天的に顔貌が大きく崩れる病人たちも人目を避けるための手段として覆面を使用する者が確かに居た。
彼らの一部には、通常の街道筋を通ることすら憚り、誰も通らないような山野の細道を生活道としていた者達が記録も残されており、余談ではあるが、民俗学者・宮本常一の著書の中には、昭和十六(1941)年、四国の西之川山あたりの原生林の細道でカッタイ(ハンセン病の蔑称、現在は放送禁止用語)の老婆に出会ったという話が記載がある。
宮本は旅の中で、四国山中にはカッタイ道というのがあり、カッタイの人が行き来していたという話を聞き、また他の民家では「昔はカッタイ道だけを歩いても四国八十八カ所をまわることができた」という話も載せている。
科学が発展していなかった時代、現在は廃道となった山道の中には、そうした人目に付かないよう生きる者達独自の道があり、「尾根沿いを歩くと化け物に行き会うから尾根を通るな」という言葉からも当時の彼らの足跡を辿ることができる。




