01・摂州大物崩れ2-2
相手は無言だが、少なくとも店内に踏み込んで狼藉を働こうという意思はないらしい。
「少々お待ちを」
用心には用心を重ねた方が良い。ハシは、床下から一振りの刀を取り出すとガラリと扉を開けた。
「…………」
「久しいな。すまぬが、水を一杯所望したい」
かつての天下人がそこにいた。
高國の姿は、二日前とはまるで別人だった。
陣羽織は所々で裂け、胴丸の紐も切られ肩からダラリと無造作にぶら下がり、戦の凄まじさを言外に伝えていた。
高國自身も細かな切傷を幾つも負い、周りに配下の姿もない。
傲岸不遜だった瞳から覇気が消えていた。
「そのお姿は」
「見れば分かろう。これは惨めな敗者の姿というものよ」
壮絶な戦いの中で重鎮達を次々と失い、残る兵士は壊走。高國はただ一人戦場に取り残された。
彼が逃げ込むべき大物城への退路は塞がれ、夜の闇に紛れて尼崎の町へ潜り込むしかなかった。
誰にも見つからず、ここまで来られただけでも僥幸といえる。
そんな憔悴した状態でも、細川高國という男は阿呆の様に自らを律していたのだ。
「とりあえず、中へ」
「其方の好意に感謝する」
妻と子供が心配そうにしていたのに気付いたのだろう。高國は刀を鞘へと戻し、両手を上げた。
ハシは彼を中へ迎え入れると、つっかえ棒を木戸に倒した。
「何がありました」
「知らぬか、赤松勢の裏切りを。彼奴らは復讐の機会を窺っておったのよ。我らは見事騙された」
「赤松さまが……」
考えられぬ話ではなかった。
十数年前、高國の盟友浦上村宗は、赤松家から下剋上で成り上がった。今回の播州兵による援軍には、単純に増援としての意味合いとは別に、浦上氏にとっては政治的な意味合いも強く含まれていた。
制圧したばかり浦上氏は播磨国を勢力圏に置いたものの、播磨国人衆の心中では未だ村宗に靡く事を良しとせず、対外的には日和見を決め込んでいる人間も少なからず存在していた。反浦上勢力は、赤松家再興という微かな希望を持ち、裏切り者による専横政治には従えぬという武士の意地があった。
だからこそ、浦上氏は考えた。
かつての主家たる赤松家の嫡男を、率先して浦上氏のために働かせればどうだろうか。この十数年、浦上氏は赤松家当主後見人として意見力を強め、赤松家当主に積極的に浦上の旗に忠誠を誓わせ、配下の播磨国人衆が浦上に従わざるを得ない状況を作り出していた。
そして、この上洛戦をもって赤松総領家を見事に使役してみせ、領内の反対勢力に誰が播磨備前の主人かを知らしめる決めの一手としていた。
「だが、浦上殿はそこを読み違えられた」
椀に入れられた水を飲み干すと、高國の身体は一気に床に崩れた。
「仕方ないことかも知れん。我らは三年、赤松の小童は十年待ったのだ。怨みの度合い、雌伏の時がまるで違う。次郎殿(赤松晴政の通称)の裏切りが昨日今日で決まったはずがない」
赤松家側の計画は徹底していた。背後を突いた仇敵浦上を討ち漏さぬ様、街道沿いに何ヵ所も兵を配置させ、退却する連合軍を待ち伏せていた。そんな相手に自分達の背後を預け命運を賭けていた時点で、連合軍に勝利など最初から存在していなかった。
「はは、さすがに疲れたわ」
ハシの子供が、高國の額に水で浸した布巾を乗せると、彼は笑って子供の頭を撫でた。
「其方の子か」
「ええ今年で五つに」
「……良い目をしている。将来は父親に似た良い商人となろうな」
ハシの長男は、始めはビクビクしていたが、侍姿の男に心許せるところを見つけたらしい。ちょこんと高國の脇に座り、大人しく頭を撫でられるに身を任せていた。ハシは、冷徹に見えたこの人物にもやはり人の心があったのだと、目を細めて彼らを見守っていた。




