12・西播怪談実記草稿二3-1
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同、十月十一日(1553年11月16日)、備前国和気郡天神山。
浦上宗景の館の一室、宗景の前に一人の少女の姿があった。
「……気分はどうだ」
「妹は、どうしたの」
夏の終わり、彼女がこの部屋に連れ込まれてから早二か月。窓には格子が嵌められ、木戸の開閉は一日に数度の換気、いずれも侍女の手で行われている。
しかし、少女への待遇は悪いものではない。一日二度の食事、部屋の中に居ることを条件にある程度の自由が約束されている。侍女の監視つきならば、早朝や夕暮れ以降ならば城内のあちこちを散歩することも許されていた。
「またその質問か。何度も言っておるだろう。妹御は別の場所で安全に暮らしておる」
「それはどこ」
宗景が首を横に振る。少女の問いに答える気はない。
「質問はそれだけか。いい加減こちら側の問いに答えてもらおう」
「…………」
この部屋に宗景が訪れたのは、半月ほど前。宗景は宗景で備前国内の有力国人衆への対応に追われている。
この年、備前国西部には何者かが侵入し、天神山の六里(約24km)南の沼城が攻撃を受けている。守将・中山勝政らの活躍で急場は凌いだが、新たな侵略者の登場が家臣団へ与えた影響は大。
急襲を仕掛けた者の中には備中国人衆の姿も含まれ、兄・政宗に付き従う備前砥石城主・浮田大和守国定の手引きもあったのではないかと疑われているが、未だ確たる証拠は見つかっていない。
「何故、お前がこの刀を持っていた」
宗景の手元に置かれた二振りの刀。備前長船長光と銘打たれた小太刀と護り刀は、共に少女の家から発見されたもの。
「……また黙りか」
少女は宗景に対しても侍女に対しても名前すら明かしていない。侍女に至っては、少女の存在を恐怖の対象として露骨に距離を置いていた。
「良いだろう。こちらも時間が無い。互いに聞きたい事はあるが言いたくない事もまた同じくらいある。ならば、お前が一つ情報を出せば、こちらもその情報に見合った情報ひとつを嘘偽り無く返そう。互いに情報を引き出し合うのはどうだ」
破格の譲歩。少女の驚いた様子が宗景からも見て取れる。
「沈黙は同意と受け取るぞ。名は何だ」
「……雪」
「ああ、なるほど。雪か。確かにお前に似合いの名だ」
少女が宗景に先を促す。
「良いだろう、儂は浦上宗景。生まれは大永の終わり、歳は二十七だったか。お前の歳は」
「……大きな飢饉の二年あと」
大きな飢饉と聞いて、まず思い当たるのは天文八(1539)年か翌九(1540)年。水害と蝗害と疫病の三重苦を起因とした飢饉は七百年来の大災害となり、全国で数万人規模の死者が出たともされる。
当時、今の少女と同じ年頃だった宗景には、迫りくる凶事を知らせるため都では東寺の弘法大師像が発汗した噂話を家臣達が口にしていたことや、兄弟仲がそれほど不仲でなかった時分、兄と共に領内を立て直そうと奔走していたことなど、青く苦い記憶が思い起こされる。
その後の各地の悲惨な現実を前にして、兄・政宗は絶望というものを知り、弟・宗景は世の無常さと人の儚さを知った。




