01・摂州大物崩れ2-1
《 2 》
同年六月四日、正午過ぎ。
その日、尼崎の町は早朝から静まり返っていた。
大通りに人通りは疎らで、普段ならば喧しく走り回る子供達の姿も見当たらない。炊飯の煙は夜明けに一度昇ったきり。昼飯時にも拘わらず、どの家からも火の気がない。町の入り口では、刀や槍で武装した物々しい男逹が臨時の詰所を造り、火事見櫓の上には遠目の利く者が登って町の外の監視を絶えず行なっている。定期的に詰所からは物見が放たれ、半里先で繰り広げられる戦場の動向を伝えていた。
彼らは、有志の町人や、彼らに雇われた傭兵で構成された自警団。
この時代、町が独自の自警団を雇い入れることは珍しいことではない。
いつの時代においても、戦場近くの人々の恐怖の対象は戦後の乱取りだった。戦場の血に酔った軍勢は、目の前にあるモノを何でも破壊の対象として捉え、暴虐の限りを尽くす。まして、その対象が人間ともなれば、男を殺し女は辱しめる。この二日三日、尼崎の町からは戦禍を恐れる町人達が家財道具一式を抱え、近くの森に避難したり、遠くの親類を頼り市街地を離れる動きが随所で見られた。
例え死を免れたとしても、手枷と縄で拘束された後、人買いに売られ、聞いたこともない町で牛馬の如き扱いを受ける。若い女性ならば、その場で足の腱を切られ、逃げられぬようにしてから女郎屋に売り飛ばされることも珍しくない。哀れな者達の末路を、尼崎の町は過去に何度となく見送ってきた。
だがその一方で、どうしても町を離れられない者達もいる。
離脱を拒否した主な者としては、土地に愛着のある人間や土地で財を成した富裕層だけではない。例えば、身重の妊婦、身寄りのない老人、身体的に障碍のある者や彼らの介助者など。町全体で相当な数に昇る。ゆえに、そんな彼らの防波堤となるべく自警団が組まれるのは自然なことと言えた。
さて、例の染め物屋の手代、ハシの家族もそんな守られる側の人間に含まれていた。
彼の妻は二人目の子供を身籠り、すでに六ヶ月目を迎えていた。
一応の安定期に当たるとはいえ、母体のことを考えれば遠くへ逃げることは難しく、流れ者の一家が頼れる親類もいなかった。長男を連れて逃げるよう頼む妻の願いを、彼は決して聞き入れようとはしなかった。
その代わりとして、夫婦は慣れ親しんだ勤務先の京屋を避難先に選んだ。
ハシが妻を抱えて勤め先へ向かうと、京屋の主人が自分の店の様子を心配したのか、偶然帰っているところに出くわす。店主は、ハシ夫婦の事情を聞くと店を使うことを快く了承し、店主自身は縁者の居る隣町へ去っていった。
旧暦の六月上旬は、西暦の7月中旬に当たる。
そろそろ夏の盛りを向かえる。雨戸まで完全に締め切ると店内は蒸し風呂と化した。
これではいけないと、少しだけ木戸を開けると近くを流れる野里川からの涼風がしずやかに店内に流れ込んだ。
入り組んだ店内の中で比較的風通しの良い場所に妻の布団を運び込み、幼い長男を呼ぶと、そこでやっとハシは気を抜くことが出来た。遠くからの川風は、戦場での閧の声や大勢の兵士がどよめき声を運んでいたが、朝からのゴタゴタに疲れていたハシは、気疲れからか少しだけ寝入ってしまった。
そして、次に彼が目を覚ました時には、町は日没を迎えていた。
「……おや、どうした」
「………………」
寝ぼけ眼で顔をあげると、長男がかれの袖をクイクイと引きながら、黙って戸口の方を指差す。
ハシが見ると、木戸は半分開けられた状態で、外は黄昏時を過ぎて闇色に染まっていた。
「扉がどうした」
「………………」
再び長男に聞き返しても、やはり長男は黙ったまま、戸口を指差し続けていた。訳が分からず妻の方を見ると、彼女は顔を蒼白くし、妻の視線もまた戸口を向いていた。
そこで初めて、ハシは事態の異常性に気がついた。
戸口から入る風には、人間の怒号と断末魔の悲鳴が混じっている。
それも一人二人の叫び声ではない。下手をすれば、数百人規模の人間が死んでいる。
――…トントン、トントン。
そして時折、何者かが眼前の半開きの木戸の外で扉を叩き続けていた。
「どなた、ですか」
音が止んだ。