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僕は君のことが嫌いだ  作者: 相馬惣一郎
7/20

第7話

 外へ出た私は恥ずかしさで身が縮んでいた。

「変な奴がいるぞ!」

 と指を指されて、笑われるのではないかと不安でならなかった。通行人があらわれるたびに、私は体をこわばらせ、うつむきがちにチラチラと様子をうかがう、ということを繰り返した。

 すれ違う人たちは私に一瞥をあたえるが、これといって私を気にする様子もなかった。指を指されることも、笑われることもなかった。ただ、ほうけたようなというか、鼻の下がのびたような顔で二度見してくる者がなんだか目についた。これがすべて男である。なかには連れの女に肘鉄をくらう奴もいた。

 どうも周囲の者は私が男だということにまったく気づかないようである。

 このことがわかって私は気が楽になった。

 そんな私に声をかける男があった。

「お姉さん、可愛いね」

 ナンパである。

 へらへらと笑う軟弱そうな男だった。普段であれば、

「貴様のような奴は鬼教官のもとでみっちりとしごかれればいいのだ、なんなら私がその役目を担ってやろうか!」

 という態度で臨むのだが、今の私にその覇気はなかった。

 さすがにこの至近距離で直視されれば、私の偽りが見破られるのではないかと焦りが出た。それが私の体をこわばらせ、足を止めさせることになったのだが、このナンパ男は脈があると判断したらしく、

「暇だったら、そのへんの店で、話でもしない?」

 と言ってきた。

 私はこわくなって、

「ご、ごめんなさい」

 と逃げた。

 走り去りながら振り返ると、残念そうに笑って、すぐにほかを物色する様子で歩き出していた。私が男であるとまったく気づいていない様子だった。

 先を行く二人に冷やかされて私はむすっとした態度をとったが、内心では激しく興奮していた。

 こんなにも気づかないものなのか。

 世間を欺くのはこれほどまでに簡単なものなのか!

 笑いがこみ上げてきた。なんだかしらないが愉快でならなかった。

 開放的な気分になった私は思わず、

「俺は男だァー、オオカミ男だぞォー ウォォー!」

 叫びだしてしまいそうだった。

 自分のあらたな一面を見出した私は激しく高揚した。相手選手に猛然とタックルをしかけるラガーマンのような勇ましさが、いま私のなかで芽生えつつあった。

 やがて山田との待ち合わせ場所であるという喫茶店が近づいてきた。

 喫茶店としてはやや広めである。

 私は道場破りを行うような不敵さで、その店のドアをくぐった。

「いらっしゃいませ!」

 元気な女性店員の声が響く。

 テーブル席は空いてないらしく、申し訳なさそうにカウンター席しかない旨を述べた。

 いやいやお構いなく、ボクらは待ち合わせ相手がいるので勝手に探させてもらいます、なあ、キミたち、というような気持ちで振り返ったら、二人の姿がなかった。

 私はぼうぜんと立ちつくした。

 ちょっと怪訝な様子をみせていた店員が急に、ああ、と顔をほころばせて、どうぞというふうに手で示した。

 その先へ目をやると、山田が手を振っていた。それも思わず殺意を抱かせるほど、この場に似つかわしくない、はしゃいだ振り方だった。

 私はまたぼうぜんとした。

 黙って立っていたので、店員の顔がまた不審なものに戻った。その疑うような目つきが、女装していることを思い出させた。化粧というものに精通している女性である。見破られるのではないかと私は不安になった。

(逃げようか……)

 そう思ったとき、後ろのドアが開き、客が入ってきた。店員は元気よく声をかけ、ぎろりと私を一瞥してから、入ってきた客へ愛想を振りまいた。その一瞬の目つきが不自然な行動をしてはいけないと不安になっていた私を、店の奥へと押し込むように進ませた。

 山田と目が合った。

 山田は少し落ち着きを取り戻し、やあ、というように軽く手を掲げて、この男の持ち味である不気味なくらいのさわやかな笑みをみせた。

 それにしても、どういうことだろうか。

 山田は私を認知しているようである。それも、女の格好をしたこの私を、だ。

 不審でならなかった。

 店内の奥にある四人掛けのテーブル。山田は一番端の窓際に座って、歩いてくる私を見守っていた。

 そのテーブルの対角線上、山田と一番距離のある場所へ私は遠慮がちに腰掛けた。

「ス、ステキだ……」

 ほうけたように山田はつぶやいた。

 この距離で、一度会ったことがある男が女装していることに、山田はまだ気づいていないようだった。

 私はこの男のバカさ加減にあきれた。

 水を持ってきた店員が、注文は決まったかどうか聞いてきたので、とりあえず同じものを頼んでおいた。

 さて、どういうふうに切り出せばよいのだろうか。おぼろげながら、あの女に謀られたということは察している。だが、どういう意図なのかがはっきりしない。

 とにかく、あの女とコンタクトをとる必要があった。

 思案しながら、私はなにげなく山田を見た。

 目が合った。

 山田はニコニコと笑って、上機嫌だった。

「メアリーというんだってね。お兄さんから聞いているよ」

 メアリー? お兄さんから聞いている?

 突然のこの発言に、私はあごが外れるほどに驚いた。

 メイクのせいだろうか。長年連れ添った夫婦は似てくるというが、ひとつ屋根の下で暮らしてきた我々も、気づかぬうちに近づいていたということだろうか。もしそうだとすれば、おぞましいかぎりである。

 私はがっくりと肩を落とした。

 にわかには信じがたいし、どういう経緯でそうなったのかは不明だが、山田が私とあの女を取り違えているのだ、ということは理解できた。

 けれども、メアリーというのはいったいなんのことだろうか。

 ふいにある記憶がよみがえった。

 手紙を渡しにこの男の教室へ行ったとき、自分のことをアルバートだとかなんだとか呼んでほしいといっていた。おそらく、あの女はそのことを知っていて、この男に合わせて自分のことはメアリーと呼んでほしいとでも手紙に書いたのだろう。吐き気のするような気持ち悪さではあるが、状況は把握できた。

 さて、どうしようか。ひとまずあの女の振りをして様子をみるか、早々に打ち明けてしまうか。

 どうしたものだろうか……。

 考えていると注文の品が運ばれてきた。パフェだった。女性によろこばれそうな、華やかで、キラキラしたものだった。

 この男はこんなものを注文していたのか。

 よく見るとテーブルの端にクリームで汚れた空の器が置かれていた。それを店員が運び去ってから、私はパフェに手をつけた。

 おもいのほか、うまかった。とまらないうまさである。

 私は夢中になって器の中身を口へ運んだ。

 作り手に感謝を述べたいくらいに私は満足した。おもいがけず、おいしいものが食べられて幸せな気分だった。私の顔もほころぶというものだ。

 ふと見ると山田が私を見つめていた。思わず嫌悪をもよおすような、ねばっこいギラついた視線だった。

「気持ち悪いな……」

 地声である。声をつくる余裕すらないくらいに、心の底からもれでた私のつぶやきは山田の耳にまでとどいたようで、山田は小刻みに体を震わせるほどの強い衝撃を受けたようだった。

 これだけの容姿だ。異性から罵声をあびせかけられることなど今までになかったのかもしれない。まあ、私は男であるし、山田に興味もないので、この男がショックを受けようがどうしようがまったく気にならなかった。むしろこれで気分を害して、立ち去ってくれれば、ありがたいと思っていた。

 わなわなとさせていた山田の体が突然にピクリととまった。

「……も、もう一度だ」

「は?」

 山田の目は血走ったものへと変わっていて、

「お願いだ! もう一度、言ってくれ!」

 テーブルの上においていた私の手をつかみ、身をのりだしてきたので、恐怖にかられた私は、

「なにすんじゃ、この変態!」

 思わず手が出ていた。

 ハッとなった。

 水を打ったようにしんと静まり返る店内の喧騒。その静寂のなかをゆったりとしたテンポのBGMが悠然と流れているのが小憎らしいくらいで、なんだか耳についた。

 好奇の視線を集めていることを意識しながらも、私は服装の乱れを整えるようにして、何事もなかったかのように座りなおした。

 心臓がバクバクしていた。

 ひっぱたかれたにもかかわらず、山田はへらへらと笑っていた。心ここにあらず、といった感じである。気持ち悪いにもほどがある。

 とにかくあの女と連絡をとらなければ……。

 それに私はこれ以上、この男のそばにいたくはなかった。

「ちょっと、お手洗いに……」

 私はそう言って、席を立った。そしてトイレに近づいてから気がついた。

(どちらに入ればいいのだ?)

 この店のトイレはきちんと男女に分かれていた。

 私は悩んだ。

 今の格好からすると女である。今までの経緯から女性用へ入ったとしてもばれることはないだろう。見た目からしても自然である。しかし、これは許されるべき行為とはいえない。精神的に女性であるというならば、難しいところだろうが、肉体的にも、精神的にも男である以上は、たとえどんな格好をしていようとも男性用へ入るべきである。というか、そもそも、このような変態的行為は私の倫理観から外れる卑しい行為である。

 私はこの結論に満足した。

 悩む必要などなかったのだ、と晴れやかな気持ちになった。そのままの勢いで私は男性用のドアを開いた。

 若い男が一人、小便器で用を足していた。驚く男にはかまわず、私はひとつしかない個室へと体をすべりこませた。

 便座カバーを下ろし、トイレットペーパーで入念にほこりをぬぐってからそこへ腰掛け、さあ、あの女と連絡をとろうか、という段になって、ふと私の脳裏にひらめくものがあった。

(あの変態男の気を引いてみてはどうだろうか)

 幸か不幸かはわからないが、山田の奴は私をあの女だと勘違いしているらしい。

 これを利用しない手はないだろう。私が山田の気を引く。そして、山田を夢中にさせておけば、あの女が山田と会ったときに、きっとあの女はあわてふためくに違いない。

 この悪魔的な考えに私は酔った。

 思わず口元もゆるむ。

 山田の変態的行為に驚くあの女の顔はきっと見ものだぞ!

 腹の底から笑いがこみ上げてきた。私は絶大な威厳を誇る大魔王のような不敵な笑い声をもらした。

 私は個室を出た。

 先ほどとは別の、貧相な中年の男が用を足していた。私に気づくと、男はあぜんとした様子で見つめてきた。私のあとを追いかけてくるその視線が心地よかった。手を洗いながら、私はふいに挑発的な視線を送り返してやった。男はハッとして自分と便器とのすき間をうめて、おどおどとした様子で目をそらした。恥ずかしがるその姿はかわいらしいくらいであった。

 私はこの結果に満足した。

 これならば、山田の気を引くことくらいは造作もないことだろう。

 私の顔にふたたび笑みが浮かんだ。

 気をよくした私は夜の街を支配する女王のような艶かしい優雅さで山田の残る席へと向かった。その途中、戻るテーブル席を目にして、ふと、なにもあの場にいたくなければ、トイレに逃げ込まなくてもそのまま店を出ればよかったのだ、と気づいた。今からでも遅くはない。けれども、あらたな目的を見いだして気分の高揚した私は、その考えを一蹴した。

 なるべくゆったりと歩く。

 山田が見つめていることに私は気づいていた。だが、私は容易に視線を合わせようとはしなかった。なにをいっても私が女王なのである。こちらのほうが立場が上だと知らしめる必要があった。

 席に戻ると、私はそこへ浅く腰掛け、耳の後ろへ軽く髪をかきあげてから、ようやく山田を見た。

 すましたような態度で、

「ごめんなさい」

 と中座したことを詫び、いったん下手にでた。が、すかさず、

「だって、あまりに突然だったんですもの」

 あなたが悪いのよ、という意味を含んだ、少し意地の悪い笑みをしてみせた。

 山田は、

「こっちこそ、驚かしてしまったみたいで……」

 少し照れた様子で謝罪した。

 それから私は山田と談笑した。はじめのうちは、なるべく山田を立てるようにした。けれども、しばらくしてからは聞き流した。そして、おもむろに視線をはずし、窓のほうをぼんやり見やって、退屈そうに指を髪の先にからめた。

「そ、その……」

 動揺した素振りをみせる山田に、突然、私はにっこりと笑いかけ、

「ねえ、出ましょうよ」

「出る?」

「ええ、そうよ。別のところへ行きましょ、ねえ、予定はあるんでしょ?」

 いたずらっぽく目を光らせて問いかけた。

「ああ、それは――」

「ねえ、映画に行きません? あたし見たい映画があるの」

 山田の話し出すタイミングをわざと狙って出鼻をくじき、一方的な要望をつきつけたのちに、

「ねえ、そうしましょうよ」

 とダメ押しに、山田の手をつかみ、小首を掲げてあどけなく笑ってみせた。

「あ、ああ……うん」

 山田の顔が朱に染まった。女子のように、はにかんでいる。先ほどの醜態からすると奇異にさえ映る山田のこの姿であるが、もはや山田は私の手のうちにあるといってもいいほどに翻弄されていると私はみた。

 山田と連れ立って店を出た。

 私としても、なにもこの男と映画を見たいというわけではない。ただ、これが適当だと思ったまでだ。

 すでに山田は私の手中にあるといってよい。目的は達した、といってもよいのだが、もう少し新密度を増しておくほうがよいところでもある。だが、山田と話したところで私はなんら楽しくない。この問題を解消するのが映画というわけである。ただ座って映画を見ていれば親密な時間を共有したという事実が得られる。それに、なにより山田の顔を見なくてすむというのがもっともよい。

 映画館にやってきた。

 休日のためか、なかなかの盛況ぶりである。チケットを買うために列に並んで、私は金の心配をした。学割はつかえない。たとえ学生証をもっていたとしてもみせる勇気は私にはない。となると大人料金である。持ち合わせがないというわけではないのだが、山田と二時間ほど過ごすのにこの金額は少し高すぎるように思えた。

 そう思っていると、惜しげもなく山田が払ってくれた。

 喫茶店でもそうだったが、気前のよい男である。

「ありがとう」

 山田はさわやかに笑っただけだった。恩に着せるようなところもない、このスマートさが憎らしいくらいだった。

 私は山田のことを少し見直した。

 映画がはじまる前にトイレに行っておこうと思いたち、私は席をはずした。

 喫茶店のときのように迷うことなどない私である。私は躊躇なく男性用へと足を踏み入れ、いつものように用を足した。両隣の男どもがちらちらと視線を投げてよこしてくるのへ、例のごとく挑発的な視線で打ち返してやると、二人とも喫茶店のときと同じく、おどおどとした様子で目をそらした。

 私は自分の魅力が絶大であることを確信した。

 山田などイチコロである。

 私は気分よく席に戻った。

 映画がはじまった。ヒーローもののアクション映画である。

 息を呑むような展開と流れるようなアクション。私はもう夢中でスクリーンに見入っていた。山田の存在など、とうに忘れ去っていた。

 だが、私はすぐにこの男の存在を思い出すことになった。

 きっかけはポップコーンだった。

 つかもうとするとどうもタイミングがかぶる。不思議に思って横を向くと、山田はスクリーンなどみていなかった。私のほうへ顔をむけているのだ。それも子どもを見守る親のような温かいまなざしをおくっているのだ。

 思わず叫びだしたくなるような恐怖をおぼえた。

 さりげなく小声で、

「ど、どうかなさいまして?」

 たずねてみたものの、その声は上ずっていた。

「いえ、別に……」

 山田はさわやかに笑ってみせた。生温かいまなざしはみじんも揺らぐことなく、私の顔のうえへはりついたままで、動く気配もなかった。そのおそろしさと気持ち悪さで吐き気がした。

 私は平静を取り戻すべくスクリーンへと向き直ったが、もはや内容など入ってはこない。

 ちらりとまた山田のほうへ目をやった。山田の熱い視線とぶつかると、この男は、それが私だけにおくる合図だとでもいうように口の端をかすかにまげて微笑した。

 寒気がした。

 映画は選択ミスだと悟った。

 すでに確信していたが、私は確認せずにはいられなかった。

 おそるおそるポップコーンへ手を近づけると、するすると山田の手も近づいてきた。その間、山田はずっと私を見つめているのである。

 私が手を引っ込めようとした、そのときだった。山田が手をつかんできたのは。

 振りほどこうとしたが、山田の力はおもいのほか強かった。喫茶店のときのように、事を荒立ててはとおもい、私はぎこちなくゆがんだ笑みを浮かべて、

「すこし、おいたがすぎるんじゃなくって?」

 山田の手の甲をギュッとつねった。

 私の精一杯の反発は山田にダメージを与えるどころか、むしろ逆だった。恍惚とした表情が私をとらえて放さない。

 恐怖でさらに強くつねると山田は、

「すみません。あなたがあんまりにも可愛いものだから」

 わけのわからないことを言って私を解放した。

 山田は依然として私を見つめている。

 私はその目をそらすことができなかった。そらせば山田がなにをしてくるかわからないような気がした。狭いイスの上でできるだけ山田との距離をとり、熱っぽいまなざしを受け流すようにして、私はぎこちない笑みを浮かべつづけた。

 長い時が流れた。

 場内が明るくなっても我々は見つめあったままだった。

 立ち去っていく観客が痛々しい目で見てくるのを感じながらも、なお、私は山田を見つめつづけ、ほとんどの観客がいなくなってから、ようやく、

「そろそろ行きましょうか」

「そうだね」

 席を立った。

 外に出た。まだ十分に明るかったが、空の色は少し薄まってきていた。

 なんだか体がだるかった。疲弊した体を引きずるようにして歩いた。

 気づくと公園の片隅にきていた。

「ああ、メアリー、今日はなんて最良の日なんだ。あなたのような人に出会えて私は本当に幸せだ。こんな気持ちになったのは生まれてはじめてだ。ああ、メアリー、私はあなたに夢中だ。あなたのことを心の底から愛している」

 山田のほっそりと長い指が私の髪を優しくかきあげ、そのままなでるようにゆっくりとあごの先まで流れて、ちょんとそれを軽く持ち上げて私を上向かせた。山田の真剣なまなざしが目に入る。

(ああ、この男、キスをするつもりだな)

 というのが理解できた。

 私は目を瞑るふりをして、薄目で山田の様子をうかがった。山田の顔が近づいてきたところで、すかさず当身をくらわして、ぐでんとなった山田をそのへんのベンチへ適当に転がし、さっさとその場から離れた。

 かなり疲れた。

 だが、まあ、目的は達したといえるだろう。

 私はあの女が驚くさまを想像して、ニヤニヤしながら帰宅した。

 玄関に入ると初音さんに出くわしたので、

「ただいま」

 と声をかけたが、初音さんの様子がどうもおかしかった。

「初音さん?」

「キョウ、ちゃん、よね?」

 おそるおそる確認するような様子に私はとまどった。

「ええ、そうですけど……どうかしました?」

「いえ、なんでもないの、ちょっとビックリしただけだから……うん」

 初音さんは左手を心臓の上に当て、しきりにうなずいては、

「なんでもない、なんでもないわ、そうよ、なんでもないのよ」

 つぶやき、そのままゆっくりと後退して私の視界から消えていった。

 不審に思いながらも私は靴を脱ぎ、それをしまおうとした。そこでスカートをはいていることに気がつき、私はすべてを理解した。

 私は部屋に戻って着替え、メイクを落としてから初音さんのもとをおとずれた。

「初音さん、実は……」

「いいのよ、キョウちゃん……たとえキョウちゃんがどんな趣味でもわたしはキョウちゃんを応援するわ。だって、わたしはキョウちゃんの母親ですもの」

「い、いや、そういうことでは……」

「もちろん陽一さんに言ったりなんかしないわよ。もしもよ……もしね、陽一さんに発覚されて、言い争うことになったとしても、わたしはキョウちゃんの味方よ。だから……だから安心して頂戴!」

 私の手を両手でしっかりと握りしめて熱く語りかけてくる初音さんに対して、私はなにも言い返すことができなかった。

 私はうなだれながら二階へと上がった。

 あの女とすれ違った。

 おそるおそる私の様子をうかがいながら、恥じ入るという感じで、

「ごめんなさい。突然、こわくなっちゃって」

 どうも喫茶店で別れたときのことを言っているようだ。

 これに対し、私はただ一言、

「そうか」

 さらりと言って、女の驚いた両眼が追いかけてくるのもかまわず、私はさっさと部屋のなかへ入った。もちろん内心で、ほくそ笑んでいたのは言うまでもない。

 だが、部屋に入ってしまうと、初音さんにばれたことが気になりだした。

(なんとかして誤解をとく方法はないだろうか……)

 考えてもいい案は浮かんでこなかった。

 そのうちに夕飯となった。

 なんだか変な時間だった。

 初音さんはことあるごとに、

「大丈夫よ、心配しないで」

 とでもいうような秘密めいた視線を送ってくるし、あの女はずっと押し黙っていて、ふいに私を見たかと思うと、なにか言いかけて、ためらい、視線をはずして、またむっつりと黙り込むというなんだか不気味な素振りをみせるし、父はというと、休日に、おそろしい春の陽気が重なったせいか、昼間からちびちびとやっていたようで、すでにできあがっていて、

「お前、なんかいいにおいがするぞ、さては女と会っていたな、彼女か」

 妙にからんでくるし、それをみた初音さんが、

「任せておいて」

 とでもいうように、頼もしげにうなづいたのはいいのだが、

「陽一さん、キョウちゃんは今日デートで、女の子と、いちゃついてたんだから、いいにおいがして当然だわ」

 とフォローのつもりだろうが、核心を突く鋭い一矢を放ってきたので私としても気が気ではなく、父も酒が入っているので、

「どんな子だ? 可愛いか?」

 しつこく聞いてくるし、初音さんは、自分の務めは果たしたといわんばかりに、ニコニコと満足げな顔をして、そこのフォローはしてくれず、あの女は知らんぷりで黙っている。この女のことだから内心でこの状況を楽しんでいるのかもしれない。

 食事を終え、洗い物を済ますと、私はさっさと部屋に戻った。

 どっと疲れた。

 しばらく休憩したのち、私は望月さんへの返事を書きはじめた。

 あの残念なふくらはぎには申し訳ないが、私にはすでに小野寺さんという尊い存在がいるのだ。あきらめてもらうしかない。

 私はできるだけ誠実さが伝わるよう文面に注意を払って、手紙を書き上げた。

 あの女は部屋にあらわれなかった。

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