第3話
学校がはじまって二日目のことだ。
突然この女は、手にしていた鞄を私の前につきだし、
「学校まで運んで頂戴!」
と、ほざいた。
無言で鞄を押し返す私に、この女はニヤニヤしながら手にしていたものを見せつけた。そこには消したはずの私の画像が表示されていた。
「ど、どういうことだ!」
憤った私に、この女は実にあっけらかんと答えた。
この女がいうには私が部屋に入る前にすでに別のメモリーにデータをコピーしていたというのだ。だから約束は破っていないという理屈だった。たしかに、この女のいうとおりである。
私はこの女の陰湿さにめまいがした。
私の少し前を悠々と歩いていく女を目に映しながら私は歩いた。その姿にイライラした。腹が煮えくり返って、どうしようもなかった。
学校の近くまで来たとき、この女が突然、
「舞ちゃーん!」
と、手を上げ、私から自分の鞄をひったくって駆けていった。
その先には温和そうな一人の少女がいて、呼び声に気づいてこちらに笑顔をみせた。
私はハッとなって、その少女を見つめた。
(舞ちゃんというのか……)
私はその少女の姿を記憶していたが、名前は知らなかった。
のちに小野寺舞という名であると私が知ることになるその少女を見知ったのは、入学式のときのことだった。
見栄えのためか、体育館の入り口から壇上付近まで赤いカーペットが引かれ、それを境に私たち新入生は左右にわかれるようになっていた。
左右の端のクラスから順に入場し、私のクラスは左側の最後でちょうどカーペットで区切られる境目のところに位置していた。なのでなんとなく右側に大きく開かれた空間に目をやり、我々のあとからやってきた最後の一組をぼんやりとむかえていた。
無意識に動くものを目が追いかける。
赤いカーペットに、スカートからのびる足の白さ。けばけばしいほどの赤を背景に、せかせかと動く白い足というのが、とりわけ私の目をひいた。なんともなしに眺めていると、突然、私の目を釘づけにする一対のふくらはぎがあらわれたのだ。
それは肉づきのよい、透きとおるような白いふくらはぎだった。むっちりとしてはいるが、決して太っているというわけではない。全体をとおしてみるとスリムとすらいえる。足首の細さのせいか、肉づきのせいなのか、どういう魔術でそう見えるのかは私にはわからなかった。だが、そのぷっくりとした膨らみとなめらかな白い肌に、たちまち私の心を奪われてしまった。
さっと視線を上のほうへ移すと、控えめな感じの可愛らしい顔が浮かんでいた。どこか初音さんを思わせるやわらかさをもった女の子だった。
私は一目で彼女のことを気に入った。
彼女はカーペットをはさんですぐの列、私の斜め前のところで止まっていた。私は視界の端に彼女のふくらはぎをとらえた。
私は彼女の足から目が離せなかった。
途中、ほかの生徒が邪魔でみえなくなることもあったが、それでもなお彼女の足に夢中だった。式の間、ずっと見ていた。だから誰が何を言い、どんなことがおこなわれたのかまったく記憶にない。私のなかにあるのはただ彼女の白いふくらはぎだけだった。
この時点で私は彼女の、小野寺舞の虜になっていた。
そんなわけで、小野寺舞という少女を私はそのふくらはぎとともに記憶していた。この記憶に引きつられて、あのとき彼女の後ろにあの女の姿が視界に紛れ込んだことを私は思い出した。どうも同じクラスだったようだ。
私はそのことに漠然とした不安をおぼえた。
あの女は小野寺舞と仲よさそうに談笑しながら生徒らでごった返す校門のなかへと吸い込まれていった。
(せめて兄として紹介くらいしろ)
恨めしく思いながら私は彼女らのあとにつづいた。
教室に入ると工藤という男が、
「あれ、お前の妹なんだってな」
と、声をかけてきた。
妙になれなれしい態度をみせる、あまり感じのいい男ではないが、しゃべりかけてくるので適当に相手をすることにしていた。
「そうだよ」
「双子?」
よくされるこの質問に私は型通りの返事をした。
工藤は意外そうな顔で私を見返した。
「まあ、でもいいよな。あんな美人とひとつ屋根の下で暮らせて」
「あまりいいものではないぞ」
工藤はなんだか嫌な笑みをみせた。
「そうでもないだろ、仲よさそうだったじゃないか」
「よくはないさ」
「またまた、シスコンなんだろ? 隠すなよ」
私は目を見張った。
「なんでそうなるのだ」
「彼女の鞄、持ってやってたじゃないか」
「あれは持たされてたんだ」
私の言葉を意外そうに受け止めたかと思うと、急に納得がいったようで工藤はニヤニヤ笑った。
「まあ、そう照れるなって、そりゃーあんだけ可愛い子が妹なら甘やかしたくもなるだろうからな」
(そんなことがあるか)
と、私はこの工藤という男の能天気さを半ばあきれるような半ば感心するような心地で見守っていたが、このあとこの男は奇妙なことを口にして、私を驚かせた。
「才色兼備で大和撫子、おまけに良妻賢母って言われてるくらいだから、そりゃーお前もそうなるだろう……ああ、あんまりよすぎるんでやきもきするのが辛くって、いいもんじゃないなんて言ったのか、ははは」
私は異星人でも見るようにこの男を見つめた。
才色兼備はいいとしても、あの女におしとやかなところなど皆無だ。それにまだ結婚などしてないだろう。もしそれが、あの女と結ばれたなら理想的な妻になりそうだ、というものであるなら、それはあの女に熱をあげる愚かな男どもの妄想と言わざるをえない。
もし仮に良妻というのが、自分は何もせず夫を馬車馬のようにこき使うということだったらなら、あの女は間違いなく良妻だろうが、私の常識からするとそうではないはずだ。賢母にしても同じことだ。
「図星かァー、おい!」
人差し指で私の頬をぐりぐりしてくるこの男を私は冷ややかに見た。
ひょっとするとこの男の脳はぐじゅぐじゅにとろけているのではないだろうか。もしくはその状態で何か別のものが混じり、かきまわされ、マイルドに固まってしまったんじゃないだろうか。
私はこの男にもてあそばれながらそんなことを考えた。
「まあ、お前も心配だろう、彼氏がいるって話だしな」
「そうなのか?」
初耳だった。
無関心を貫いていた私のことだから知らなくて当然といえるが、それでもなにかしら、例えば初音さんとの会話でそれらしいことを聞くだとか、そういうことがあってもよさそうだが、そんなことはなかった。
(さすがに無関心すぎただろうか)
その男が家にくれば、さすがに私も気づいただろうが、そんなこともなかった。
「なんだ、知らないのか? 俺の知り合いの話じゃ、中学のとき大勢から告白されたけど付き合ってる人がいるからって全部断ったらしいぜ、その羨ましい相手は他校の奴だったって噂でね。そいつと一緒に歩いてる姿をみたって奴がいてさ、それがなかなかお似合いだったって話だ。さぞいい男なんだろうな」
私がぼうぜんとしていると工藤は、
「お前、ほんとに知らないのか?」
と、不思議そうに見返してきた。
「ああ、知らないね。別にあいつの男関係をいちいちチェックしてるわけでもないし、そんなに仲がいいわけでもないのだよ」
工藤は、私は本当のことを言っているのか、それともやせ我慢をしているのか判じかねるといった様子で疑るような視線を私になげかけた。
「ふーん、そうか。じゃあ、あんまり長く付き合ってなかったのかな」
「さあね」
私は自分の机に鞄をのせ、必要なものを取り出しながら答えた。
「ひょっとしたらチャンスがあるかもな……」
工藤はそんなことをつぶやきながら自分の席へと向かっていった。
そして私はこの男の行動力に度肝を抜かれることになる。
工藤は次の休み時間になるやいなや、驚くほどのスピードで隣の教室へ向かい、帰り支度にとまどっていた教師がまだいるなかで、
「河合晴香さん! 僕は工藤進といいます。僕はあなたのことが好きです。もしよろしければ、僕とつきあって下さい!」
叫んだというのだ。
私の教室からもなんだか声がしたのは聞こえたが、まさか告白していたとは思わなかった。
彼のこの行動により教室内は一時騒然となったが、しだいにそれが告白されたあの女の返答を心待ちにする、緊迫した空気へと変わっていった。
工藤が言ったことなので私には今ひとつ信じがたかったのだが、あの女はもじもじと恥ずかしそうにしていたというのである。そして緊迫した空気が最高潮に達したかと思われたとき、あの女は意を決したというふうに前に進み出て、
「ごめんなさい。あたし、好きな人がいるので、あなたとはお付き合いできません」
と、頭を下げたらしい。
「では、友人としては?」
「それならよろこんで」
工藤の差し出した手を両手で包み込んでほほ笑んだというのだ。教室内は和やかなムードに包まれ、拍手まで巻き起こったらしい。
私はそのころトイレで用を足していて、なんだか騒がしいなあ、と思っていた。
ちなみにトイレはあの女の教室とは反対方向にある。
「いやー、いい子だよなあ、いじらしいっていうの? あははは」
デレデレになって私に語りかける工藤の姿をみて、私は、申し訳ないがキミは騙されていると彼のことをあわれんだ。と同時に、フラれたというのにあっけらかんとしている、この工藤という男に、私は清々しいものを感じていた。チャラい感じが好印象とはいえなかったのだが、なかなか骨のある奴だと認識をあらためざるをえなかった。
彼はこの件により、告白男として一躍、時の人となった。
それは、クラスはもちろんのこと、学年という壁も越え、生徒と教師という壁まで越えて、文字通り学校中が知るにいたった。告白されたあの女も有名になった。なぜか、あの女の兄であり、告白男の友人でもあるとして、私も名が知れてしまった。
工藤という男の評価が私のなかで上がるにつれ、あの女の醜悪さが私にはひどく目障りに感じられた。途中から撮られたらしい告白の様子を映した動画を私は見たのだが、あの女のあまりの猫のかぶりように私は驚くとともに、そのおぞましさに吐き気までもよおした。
その一方で、あの女に好きな奴があるのだというのが、私には意外だった。
(どんな奴だろうか……)
それをネタにして、逆にあの女を屈服させることはできないだろうか、と私はそんなことを考えていた。
けれども現時点ではどうすることもできない。
それがどうにももどかしくて、どこにもいくことのできない膨大なエネルギーは、やがて憎しみへと転じていった。