第2話
近ごろの私は、健全な快便ライフから遠ざかっている。
ずぼぼぼぉーんと軽快な音とともに元気よく私から飛びだしていく、あの排せつ。毎朝狂いなく私の元へおとずれていたあの排せつは、もはや過去のものになってしまったといわざるをえない。それもこれもすべてあの女のせいなのだ。ついにあの女は私の健康まで脅かしはじめたのである。
そもそものはじまりは、あの女が私と同じ高校を受験することにあったように思う。私はそれを受験当日の朝、初音さんが、
「今日の試験に受かったら、二人は一緒の高校に通うのね」
と、嬉しそうに語ったときにはじめて知った。
嫌な予感が私の身内を貫いていった。
まさか私がただ家から近いという理由だけで決めた高校へ、あの女が通おうとするとは思わなかった。制服がかわいいとか、あの女はもっとまともじゃない理由で高校を選ぶものだと思っていた。
「なんで、この高校を受験するんだ」
私は聞かずにはいられなかった。
それに対し、あの女はニヤニヤするばかりで答えようとはしなかった。嫌な奴だ。本当に嫌な女だ。私はこの女の態度に内心で舌打ちした。
結果として二人とも受かった。
合格間違いなしと言われていたし、自分でもそう思っていたので私はほかの高校を受けていなかった。しかたなく私はあの女と同じ高校へ通うことになった。
しかし、小、中と今まで別々の学校へ通っていたというのに、なぜ今になって同じ学校へ通わなければならないのか。
あの女のことだから私の受験する高校くらい知っていたはずだ。知っていれば避けるはずだ。そうすると、あの女の求めるものがこの高校にあったと考えざるをえない。それもよほどのものが。私にはその心当たりがない。
口惜しくて腹が煮えくりかえりそうだった。私は、まともに高校を選ばなかった罰として、このことを甘んじて受け入れることにした。
受け入れると決めてしまえばすっきりしたもので私はまたあの女のことを忘れた。今まで通り無関心を貫けばいいだけなのだ。楽なものだ。
中学を卒業して高校へ入るまでの休みの日、何事にも余念のない私は心機一転、部屋の掃除をすることにした。
その日は暖かく春らしい日で、私の排せつも健康そのものだった。
もう一度この朝を迎えたいと思えるほど、それは最良の朝だった。
私は掃除に精をだした。
古いものを取り出して新しく入るべきものへそのスペースを明け渡し、いらないものはゴミ袋に放り込み、いるものはきちんと区別してしまい込む。
私は充実した時間を過ごした。
途中、懐かしくて手をとめることもあったが、作業は順調に進んだ。だんだんと片付いていくその様子は実に爽快だった。
いったんお昼をはさんでまた作業を再開した。
しばらくして私はあるものを発見した。それをみたとき私は涙ぐみそうだった。
それは母の遺品だった。
木の箱に入っているのは母がよくきていた夏用のワンピースだった。むき出しになった肩からのびるすらりとした母の白い腕が私はとても好きだった。
母が亡くなった当時はそれをみてよく泣いていたのを思い出し、私は感極まってその服に顔をうずめた。当然ながら母の香りを感じることはなく、ただ防虫剤のにおいがするだけだった。
それが、なんだか私には不満だった。
私はそれを手に取り、立ち上がり、全体が見えるようにしてから抱きしめた。母を包み込むようにそっと抱きしめた。まだまだ不満ではあったが、私は少し母を感じることができた。一応の満足を得た私はもう一度服を上からつりさげた。その瞬間、私の脳裏にあることが閃いた。
――ひょっとして着られるんじゃないだろうか。
悪魔のようなこのささやきに、私は全身が粟立つのを感じた。
母は女性にしては背の高いほうで今の私とそれほど変わりがないはずだった。
――着てみたい。もっと母を身近に感じたい。
そう思うと、いてもたってもいられなかった。私は追い立てられるように服を脱ぎ、母の遺品にそでを通した。
言い知れぬ温もりで私は満たされた。
――母さん! 僕はこんなにも成長しました! 立派に大きくなりました!
私は身内で叫んでいた。
成長する姿をみせることができなかったという積年の想いが私のなかで爆発した。母が見たら嘆き悲しむかもしれない姿でいることなど、脳裏から吹き飛んでいた。私のなかにあったのは、ただただ成長した姿を見せたいという母への想いだけだった。私はうっとりとした気分のまま、しばらく母を感じるにまかせた。
ふと鏡をのぞき込むと、なんだか足りない感じだった。
これでは気分がのらない。
なにが足りないのかしばらく考えていると、どうも髪型のような気がした。カツラなどないのでしかたなく私は紺のタオルを引っ張りだして頭の上にかぶせ、麦わら帽子というおしゃれアイテムをその上からかぶった。
そうすると紺のタオルが長髪のようになり、ぐっと雰囲気がでた。
私はちょっとポーズをとったりして気分をあげてから再び母を感じることにつとめた。そうしていると本当に、目の前に母がいるような気がしてきた。
私はその母を優しく包むように抱きしめた。
静寂が私を包み込んだ。
その静寂のなか私の全身は母の愛で満たされたのだ。ゆったりと静かに流れる時のなかで私は母とひとつになったよろこびでいっぱいになった。
私は幸せの絶頂へと達した。
しかし、それはそう長くは続かなかった。
静寂は唐突に破られ、唐突に静寂へとかえっていった。
「こないだ借りてたレコード返し、に――」
下品に開かれたドアのさきにいたのは、まぎれもなくあの女だった。いつも部屋に入るときはノックをしろと言ってもきかないこの女のがさつさがやはり私は嫌いだ。それとも部屋にかぎをかけなかった私が悪いのだろうか。
あの女は驚いたように目を見開いたまま固まっていた。視線の先にいる私もまた固まっていた。女ものの服を着てカツラに見立てたタオルに麦わら帽子をかぶり、自らを抱きしめるという一風変わった恰好のまま、私はがっちりと固まっていた。
先ほどとは違った静寂が私たちを支配した。
先に動いたのは、あの女だった。
あの女は大きなハケで目の前の汚れをゆっくり取り除こうとでもするように、そっとドアを閉めた。そして、どういうわけか、コンコンとノックした。
どういうわけか私も、
「どうぞ」
などと答えていた。
ゆっくりとまたドアが開かれた。
もちろん何も変わってなどいない。
あの女は焦点の合わないのっぺりとした表情で数回まばたきをしたあと、昔のロボットのようなぎこちない足取りで私の部屋へ入ってきた。
私はそれを目だけで追った。
机の前までくると、あの女は、
「え、えーっと……これ、この間借りたレコード、その、ここに置いとくわね、そう……、えー、うん、そうよ、ここに……ここにね」
現実であることを確認するように置いたレコードを軽くポンポンとたたいてから、いまだに焦点の合わない目を私に向け、何度かうなずいた。
少し間があって、女の様子がおかしくなった。
沸騰しだした鍋のふたがカタカタと音を立てるような奇妙な笑い方をしたかと思うとすぐに止んだ。だんだん呼吸があらくなり、現実へと立ち返ってきたのか、目の焦点も戻りはじめた。それに合わせ、口元がひくひくしてきた。あらくなった呼吸を整えようとしてか、両手を広げ、何かのバランスをとるようにそれを上下させた。
私の黒目もそれにならって上下した。
呼吸に合わせて手が上下に揺れ、ときどき奇妙な笑いをはさんではまた上下した。そして私の黒目も揺れ動いた。
目の前の女はその状態のまま、ゆっくりと後ずさりしていった。ドアの手前まできてしばらくすると、一瞬呼吸が止まり、上下する手も止まった。
それからの行動は素早かった。
ダッ、ダッ、ダッ、と激しく廊下をたたく音がしたかと思うと、ガチャっと乱暴にドアが開き、すぐまたダッ、ダッ、ダッ、と廊下をかける音とともに血走った目をした女があらわれ、電子的な機械音が鳴った。
気がつくと私は写真をとられていた。
「はいはい、笑って、笑って……ハイ、チーズ!」
などと言われて、私はぎこちない笑顔までみせていた。
興奮しきった女は肩を上下させながら私を見つめた。その瞳は異様な輝きを放っていた。私はいまだに固まったままだった。
その硬直がとけたのは、興奮していた目の前の女が嘘みたいに、まるで電池でも切れたみたいに、ふっとまともになって私の部屋から出ていき、バタンとあの女の部屋のドアが閉まる音がした直後に、ぎゃはははは、と下品な笑い声が聞こえてきたときだった。
このぎゃははははという下品な笑い声が私を縛りつけていた呪術めいた時の流れを断ち切り、私を現実の世界へと導いたのである。
私は絶望でふるえた。
あの女があらわれる前まで感じていたあの幸せが幾本もの刃となり、濁流のごとき勢いで私に襲いかかった。
私は目前に迫っている高校生活を思った。
あの女がいる。私と同じ高校にいる。あの女が私の高校生活を脅かす最大の障害であることを私は悟った。いまどき女装などなんでもないといえばそうかもしれない。私としてもまわりとある程度の関係性が築き上げられていれば、それほど気にはしなかっただろう。だが、スタートからというのには問題がある。
私にもイメージというものがある。そこ意地の悪いあの女のことを知り尽くしている私は、あの女があることないことを吹聴してまわるのは確実だと断言できる。それも女装趣味というだけにとどまらないのは明白だった。とんでもない尾ひれがつくことになるに違いないのだ。
あの女ならやる。確実にやる。もしそうなれば、好きな人に告白してもそれが理由で振られかねないし、そもそも友人ができるかどうかも怪しい。
私は絶望的な高校生活を前にして、寒空で凍える人のように自らをかきいだいた。
しばらくそうしてから私は行動を起こした。
私は母の服を脱ぐと、それを丁寧に畳んでまた元の箱へと戻した。それから自分の服を着て、あの女の部屋へ向かった。
もちろんノックなどしない。
マナーを守らない人間に対して、そんなことをしてたまるか。
私は乱暴かつ堂々とドアをあけた。
「ちょっ、勝手に入ってくんじゃないわよ、バカ!」
予想通りうろたえた部屋の主が手元にあるものを投げつけてくる。私はそれを華麗に受け止めた。ぬいぐるみに、雑誌。だが、まさか目覚まし時計まで投げつけてくるとは思わなかった。私はそれをよけることも、受け止めることもできずに、脳天にくらった。
私は派手にぶっ倒れた。
「えーと……生きてる?」
さすがに心配とみえて、おそるおそる私の顔をのぞき込んできた。私は不機嫌な顔でそれに応じた。
「どっちがバカだよ、あんなのはルール違反だ」
「はあ? どっちがよ。女の子の部屋に入るのに、ノックもしないなんて、そっちのほうがルール違反じゃない」
女の子だあ? なにを言ってやがるのだ、この女は。
自分のことは棚に上げ、女の子だからノックをしろだと?
私はムッとしたが、つとめて冷静に振る舞った。
「まあ、それはいい」
「よかないわよ」
「さっきの写真のことだ」
私がそう言うと、この女はにやにやしながら気取った足取りで椅子を引っ張りだし、背もたれを抱くように座ってその上にあごをのせ、回転する椅子のなめらかさを楽しむように体を揺らしながら、意味ありげな視線を送ってきた。
私がその様子をみるともなしに見ていると、ふとこの女の部屋へ入るのは今日がはじめてだということに気がついた。無関心を貫いていた私は過去一度もこの部屋へ足を踏み入れていなかったようだ。
自分でもそれがちょっと意外だった。
「そういえば部屋に入るのははじめてだな」
意表をつかれたのか、この女はちょっとたじろいだ。
私は部屋のなかを見渡した。がさつなこの女にしては意外なほど綺麗に片付いていることに私はちょっと驚いた。モコモコしたものやピンク色のアイテムがちりばめられ、意外なほど女の子らしい部屋というのも驚きだった。
少女的すぎるというわけではないのだが。
初音さんのようなおっとりとした女性らしい女の人の部屋だとするならば納得できるのだが、こんながさつな女の部屋だといわれるとどうもうすら寒いような不気味さがあってなんだか変な気分だった。
だが、私はそんなことなどおくびにも出さない。
「なかなかいい部屋じゃないか」
「じろじろ見んな!」
椅子に座りながら繰り出されたけりを私はいとも簡単に受け止めた。この女の単純さに私はあきれた。私はその足をもてあそび、バランスをくずしてあたふたする様子を楽しんだあと、それを放り投げた。相手の意表をついて攻撃するのは兵法の基本。この女との立場がガラリと変わるのは明白だった。
内心でにやりと笑った直後に、私は盛大に倒れ伏した。
放り投げた足が意外なほどの遠心力を椅子に与え、回転する女の足を凶器へと変貌させた。凶器となった女の足が私のわき腹を殴打したのだ。
私はうめいた。
「……ねえ、いったいなにしにきたのよ?」
写真のことだとさっき言っただろうが。私はこの女の記憶力のなさに腹が立った。不思議そうな顔で見下ろすこの女の顔を、私は軽蔑した目で見返した。
私は体を起こし、頭の足りないこの女にまた説明するはめになった。
「ああー、そうそう、そうだったわ」
女の顔に優越感がよみがえった。
いまいましいかぎりだ。だが、私はさらに根気よく説明しなければならなかった。
なぜ、あのような格好をしていたのか、ということを……。
私はこれに絶対的な自信を持っていた。たとえどんなにこの女の頭が悪かろうが、あれが母への愛であるかぎり確実に理解されるものであるはずだ。
私は意気揚々と説明をはじめた。
まずは服のことだ。あれが母の遺品であり、私は懐かしさで胸がいっぱいになったということ。これが重要である。これにより私が変態的な行為で望んだわけではないことがわかるというものだ。次に服を着たのはより母を感じたいがためであったこと。事実、感じることができた。私は母と交信したのだ。そして母との交信に成功した私は、自らの成長を伝え、よろこびを分かち合ったのである。
完璧な説明だった。
だが、この女は、
「うぷっ、うそでしょ? なんで、そうなんのよ」
と言ってからもう一度、
「うそでしょ?」
とバネのように体を折り曲げてふるえだした。
そのまま宇宙まで飛んでいって永久に帰って来なければいいと思った。
あれは神聖な行為だったのだ。それを侮辱された私は憤った。なぜ伝わらないのか……。
もどかしさで私は苛立ったが、根気よく説明を続けた。
最終的にこの女は、
「わかった、わかったから……うぷっ」
と、なんとか理解するにいたった。とにかく骨が折れたが、私はこれでよしとすることにした。
「……で、えーと、消せばいいのよね?」
「そうだ」
「ここに入ってるのを全部消せばいいのよね? データ、消せば文句ないのよね。今後一切、文句言わないのよね」
なんだか引っかかる言い方だったが、私はそれで了承した。私はひとつひとつデータを確認し、そこに私を撮った画像がないことを確認した。その作業をおこなっている間、この女は妙に淡々とすましていた。それがかえって私に不可解な印象を残した。普段あまり見受けられないその様子に、私は釈然としないものを感じたまま部屋を後にした。
それが間違いだったのである。