第15話
「彼氏ができたんだってな」
工藤の奴がニヤニヤしながらこんなふざけたことを言ってきたのは、小野寺さんの通うジムに行ってから幾日かたったある日のことだった。
「もしそれが山田のことなら大きな間違いだぞ」
「山田先輩じゃないって」
「じゃ、誰だというのだ。ボクは誰かとつきあっている覚えはないのだがね」
「お前じゃないって、晴香さんのことだよ」
「晴香だと!」
あまりの驚きで心臓が飛び出そうだった。
(……初耳だ)
同じ家に暮らしながら、それもかなりの時間を共有していながら、まったく知らなかった。通学のときも、飯のときも、そんな話題は上がらなかった。
(そういえば、あの女は以前、好きな人がいると言っていたな……)
古い記憶を引っ張りだして私は内心で笑った。
これでようやく、私はあの女から解放されるのだ。
そう思ってみたけれども、それはあまりに漠然としすぎていて、とりとめもない夢のようであり、なんだかまったく実感がわかなかった。
本当にあの女から解放されることなどあるのだろうか。
長いことあの女の脅威にさらされてきた私にはイメージがわいてこなかった。
(よろこばしいことなのだが……)
なんとも釈然としないものが私のなかに残った。
「ずいぶん動揺してるじゃないか、ははは、やっぱり心配とみえるね、このシスコンさんは、あはは。どうなんだい? ん?」
工藤はいつもやるように人差し指で私のほっぺたをぐりぐりしてきた。
私もいつものように振り払ったつもりだったが、おもいのほか強い力がくわわったようで、振り払われた工藤が驚くのを見て、私のほうが驚いてしまった。
私はなんだかイライラしているようだった。
そのイライラを私はもてあました。
ますますニヤニヤしだした工藤は、
「しょうがない奴だな……」
と、顔を近づけて、小声であとをつづけた。
「どんな男か知りたいだろ? ん?」
私は知りたかった。
瞬間的に、どんな奴かぜひとも知っておかねばならぬと思った。
(だが、なぜだ?)
「やっぱり、お兄ちゃんとしては心配だよな。ふ、ふ、ふ」
(そうだ。そうだとも。もちろん兄として、だ)
兄として、変な男と一緒になってあの女が苦労するのではと心配なのだ。でも、それは心配することなのか? あの女が苦しむことなど別にどうだってよいのではないのか? むしろ、よろこぶべきことじゃないのか?
私は混乱した。
やはり家族なのだ……あの女が変な男に引っかかって面倒なことになれば、父も初音さんも悲しむのだ。だから、心配するのは当然なのだ、と私は無理やりほかの考えを退けた。
「そんなことはないが……まあ、聞こうじゃないか」
「ホント、可愛い奴だよな、お前って、ははは、キミのそういう態度が俺は好きだよ」
「ふざけてないで、さっさと言ったらどうだ?」
「そう焦るなよ、ははは」
工藤がいうには、ひとつ上の学年の斎藤祐司という奴らしい。
山田ほどではないが、なかなかの男前らしく女性にはもてるということだ。まあ、それはいいのだが、どうも女性関係はだらしがないらしい。女とつきあっては別れる、二股をかけるという節操のないところがまったく好感の持てないところだった。
写真をみせてもらったが、確かにちょっとチャラい感じで、もてそうな男だ。どう頑張っても、私とはわかりあえそうにないタイプにみえた。
(こういう奴がタイプなのか……)
(まあ、あの女に合わないことはないように思うが……)
どうもしっくりこない感じがした。
胸のうちにモヤモヤとしたものを抱えているうちにホームルームがはじまり、工藤が壇上へと上がった。
この男は学園祭の実行委員になっていて、今日はクラスでの出し物を決めるということだ。
「では、予定していましたとおり、本日は学園祭におけるクラスの出し物をどうするか、皆さんのご意見をお聞きして決定したいと思います。ご意見のある方は挙手してから発言願います。ちなみに私は演劇がよいと思います」
よどみのない声で工藤がそう言うと、演劇の文字が記された。
工藤に続けと、私は元気よく手をあげた。
「はい、河合くん」
「私は『我々の未来都市計画』を提案します!」
「は? そりゃ、どういうことだ、ムシュー?」
工藤が驚くのも無理はない。
なぜならこれは実に雄大なものだからだ。
我々の未来がどうあるべきかを皆で話し合い、理想の都市というものを自らの手でつくりあげるというものだ。現状を踏まえ、どういうシステムであれば、より良い社会となるのかを示す。
できれば、社会の仕組みだけにとどまらず、簡単な都市の模型までつくりたいと思っている。だが、ここまでするのは少々手がかかりすぎるかもしれないので外観を図で示すくらいでもよいだろう。
と、まあ、ざっとこんな感じである。
我々未来ある若者が未来を語るのだ。
それも学園祭という華々しい場で皆と共有することができるのである。出し物としてこれほど相応しいものも他にはないだろう。
それになにより、これには心を揺さぶるようなロマンがある!
私は雄弁に語った。
ちなみに、私のあだ名は結局のところ、ムシューで落ち着いている。
面倒なのか、それとも飽きたのか、さっき工藤が言ったように、ムシューと言うだけである。その言い方も中学のころとなんら変わることもなく、バカにする様子もみられなかった。しばらく様子を見て、変化がみられないことを確認してから私はようやく、あれは杞憂だったのだなと、中学時代の名誉を回復するにいたっていた。
けれども、私は決して中学時代のように、メルシーなどと言って彼らをよろこばせるなんてことは、してやらない。
私が語り終えると皆も納得したようであり、演劇の文字の横に、我々の未来都市計画と記された。
このクラスが消極的なのか、私のあとに続くものはなかった。
もうあと二、三の案が追加され、その中から選択されたほうがよいのだが、残念ながら私と工藤の二つの案で競い合うことになった。
「……では、河合くんの提案した、我々の未来都市計画がよいという人は手をあげて下さい」
私は元気よく手をあげた。
ドキドキしながら周囲を見回してみたが、陰気そうな女子がひとり手をあげているだけだった。
私はがっかりした。
結局、圧倒的多数で工藤の提案した演劇に決まってしまった。
まさか、これほどの大差で負けようとは思わなかった。残念な気持ちが高まると、それを埋めるように私の案に賛同してくれた女子に対して気持ちが傾いた。
戦友のようにすら思えたのだが、私はその女にまったく心当たりがなかった。名前はもちろんのこと、顔すら覚えがなかった。
(こんな女子がクラスにいたのか?)
そう思うほど影の薄い女だった。
現にこの時点でおぼろげにしか顔を思い出せなかった。
私はもう一度、陰気な女子の顔を見ようとしたのだが、工藤の奴が、
「どんな劇にするか具体的なことはまだ決まっていませんが、主役が河合くんであることは決定しています」
「なぬッ!」
ふざけたことをぬかしたので、その女のことなどすっかり脳裏から消え去ってしまった。
「どういうことだ!」
「どうもこうもあるか! これは決定事項だ!」
工藤がそう叫ぶと周囲は割れんばかりの拍手で包まれた。
「当然、男女逆転劇で、主役はキミだ! そしてヒロインは、つまりはキミの相手は男装の麗人で、最後にはキスシーンがおこなわれることは、すでに決まっているッ!」
一瞬、男女がキスをするイメージが浮かび、いまだ経験のない女性とのキスに、不覚にも私はときめいたのだが、すぐに男装の麗人という言葉を思い起こした。
「結局、男同士ではないかッ!」
「当り前だ! それ以上に、キミにふさわしいものなどあるかッ! それに相手役はすでに決まっている!」
「誰だ、そいつは!」
「山田先輩に決まってるだろ!」
「なに? 山田だと! クラスの出し物に、なぜ他の学年のものが出演するのだ! しかもヒロイン役で! おかしいだろ!」
「ヒロインが悪けりゃ、チョイ役にでもするさ、だが、お前が先輩とキスをするのに、なんら変更などないッ!」
昂然と言いきって、バンッと机をたたくと、また拍手が起こった。
「貴様、ふざけてるのか!」
「そんなわけあるかッ! なんのために、この俺が実行委員などになったと思ってるんだ!」
「知るか、そんなこと!」
議会は紛糾した。
しかし結局、数の力に押し切られるかたちで決まってしまった。
クラスの奴らはおそろしいほどの団結力をみせて、工藤に従ったのだ。
だが、本当におそろしいのは別のところにある。
山田がヒロイン役に決まってしまった。
後日、生徒会により開かれた臨時委員会で提出された嘆願書が生徒の圧倒的支持を理由に認められたのだ。しかも会を主催した生徒会会長が、あの畑中とかいう山田と同じクラスのメガネの女であることが判明して、私は二重の恐怖を味わった。
このメガネの女により、私は特別に女子トイレの使用許可を学校側から認められていたのである。もちろん精神的に男である私は一度も使用してなどいない。
あの事件後、生徒会による署名運動がおこなわれ、私以外の全生徒が認めるべきだというほうへサインしたことが決定打となり、認められてしまった。私が否定したのは、照れて謙遜しているのだと受け取られてしまったのである。
それを聞いたとき、あんなにこっぴどく私をふった望月さんも認めたのかと不意に思って、私はなぜだかドキドキした。
帰宅して、水を一杯飲んでから部屋へ行こうとしたらちょうどあの女と出くわした。私は身構えたが、あの女はちょっと私に目をやっただけで、すぐにリビングのほうへ行ってしまった。
(普段ならなにかしらのちょっかいを出してくるはずなのだが……)
私はあっけにとられてしまった。
あの女の態度がなんだか気になった私は、ちょっとリビングをのぞいてみることにした。
あの女はソファにくつろいでテレビを見ていた。
そして、ふっと画面から部屋に入ってきた私のほうへ視線を移した。微笑していた。不思議な微笑だった。無邪気にもみえるが、あざけっているようにもみえ、そしてどういうわけだか優雅さがあの女のまわりを包んでいた。
あの女が私を見ていたのはほんの一瞬で、すぐに関心をテレビへ移した。
私はぼうぜんとして、しばらくあの女を見ていたが、あの女が私へ視線を戻すことはなかった。
なんだかモヤモヤとした苛立ちを抱えて、私は部屋へむかった。
この日、あの女は部屋に入ってこなかった。
これに私は有頂天となって勉学に励んだのだが、しだいに不安がにじり寄ってきた。
(本当にこのままの状態がつづくのか? 私はとんでもない失態を犯しているのではないのか? 本当は、これはドッキリで動画に撮られていて、あとでみんなから笑われるのでは? もしくは、なんらかの精神攻撃の可能性も……)
寝るころになると、完全に不安のほうが勝っていた。
私はその晩、まんじりともできずに朝を迎えた。