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僕は君のことが嫌いだ  作者: 相馬惣一郎
14/20

第14話

 あの女と出かけた翌日。

 私は小野寺さんのことをどうとらえていいのかわからず、一日中ぼんやりとしてすごした。学校も終わるころ、ふと消臭剤を買い忘れていたことに気づいたので、私はそれを買って帰った。

 いつものように、ボス猿といった様子で私のベッドを占領するあの女が部屋からいなくなると、私は買ってきた消臭剤であの女の痕跡を消し、いつものようにトラップを仕掛けてから寝た。

 気分よく眠れた。

 朝起きて、震え上がった。

 仕掛けたトラップが解除されていたのだ。

 以前のことを思い出し、私は全身をくまなく調べた。なにも異常がないことを確認したとき、ひょっとすると顔かもしれないと思い、机の上に置いてある鏡を見ようとして、それに気がついた。

 そこには一枚の写真が置かれていた。

 無様に眠りこんでいる私が写されていて、胸から飛び出したようにハートマークが血をおもわすような真っ赤な色で描かれていた。

 私は戦慄した。

(……あの女からの宣戦布告に違いない)

 このハートマークは取り出した私の心臓を意味し、いつでも好きなときにお前をクラッシュできるぞ、という脅しなのだ。

 おそろしい奴だ。

 私はそれを握りつぶし、ゴミ箱へ捨てた。

 相変わらず上機嫌が続いている。私へのプレッシャーは日に日に増していて、今日などはチラチラと不敵な笑いをなげかけてくるほどである。おそらくあの写真のことで得意になっているのだろう。

 さらには水族館で買ったイルカのキーホルダーまで私の鞄につけさせたのだ。あの女のほうには買ったものとは別にもうひとつイルカのキーホルダーがついていた。いつの間に買ったのかと思ったのだが、よく見ると新品という感じではなかったので以前から持っていたものなのだろう。

 あの女がこんなにイルカ好きだったとは知らなかった。

 それはそうと、私の脳裏に浮かんでくるのはやはり、

「トラップを強化しなければ……」

 このことである。

 女の鞄を持ちながら私は考えをめぐらした。

 その夜……。

 いつものようにこの女を部屋から追い出すと、さっそく準備に取り掛かった。

 新たなトラップを設置し終わると私はちょっとだけほっとした。

 ベッドに戻り、消臭剤を吹きかけると、なぜだかあの女の香りがそこに満ちた。

 一瞬、呆けたように立ち尽くしていたが、すぐさま中身を確認してみると、あの女がいつも使っている香水と入れ替えられていることがわかった。

(いつの間に……)

 うんざりしながら眠りについた。

 午前一時になろうかというころのことである。

 あの女の香水のせいで寝がえりを繰り返し、なかなか寝つけないでいた私が、ちょうどうとうとと眠りだしたところだった。

 トラップが作動した。

 すぐさま覚醒した私は、獣のごとき勢いで跳ね起きるや枕元においていた木刀を引っつかんで廊下へ躍り出た。

 だが、わずかの差で取り逃がした。

 軽くノックをしてみたが返事はなかった。ドアに手をかけると鍵がかけられていた。

 しかたなく部屋へ引き返し、再びトラップを仕掛けてベッドへもぐりこんだ。

 捕えるのには失敗したが気分はよかった。

 翌朝、仕掛けたトラップたちは誇らしげに私を迎えた。私はその労に報いるべく丁重に彼らを片づけた。

 あの女は何事もなかったかのようにすましていた。

 私もあえてなにも言わなかった。

 今日もチラチラと私のほうへ目をむけてきたが、昨日のような得意げなところはなく、慎重に動向を見極めるといった様子だった。

 何事もなく数日がすぎたある日。

 私は小野寺さんから招待状をもらった。

 翌日……。

 学校が終わるといったん家へ帰り、私はあの女と連れたって出かけた。

 駅から歩いて五分ほどのところにある、とあるビルの前まで来た。三階。なかに入ると数人が練習に励んでいた。

 そのなかに小野寺さんもいた。

 彼女もまだ着いたばかりのようで軽く体をほぐしている最中だった。

 すぐに我々に気づいて近寄ってきてくれた。

「こういう場所で会うと、なんか照れくさいわね」

 彼女は顔を上気させて笑った。

 その笑顔はとても愛らしく、以前のままの彼女だった。

 後ろで束ねた髪がこちらから見えなくていつもより頭髪の量を少なく感じるせいか、肌のみずみずしさのせいなのか、それとも、ついついこちらまでひきこまれそうになる純真に輝く瞳のせいなのか、はにかむ様子も含めてどこか少年を思わした。

 けれども、肉体のほうはそうもいかなかった。

 均整のとれた迫力のある肉体だった。まだまだ完成というには程遠いだろうけれども、努力の跡がみてとれた。とりわけ私が目をみはったのは、割れかかっている腹筋だった。

(短期間でこれほどまで……)

 それは驚愕に値するものだった。

 以前からひそかに鍛えていたのかもしれない。

 私を驚かしたのはそれだけではなかった。引き締まった肉体からは若々しい乙女の色気がほとばしるように発散されていて、それも露出の高いウェア身にまとっているため、目がくらむほどであった。

 そこへ意識がいってしまうと、とたんに私は目のやり場に困った。

 何気ないふうを装って視線を顔へ戻すと、先日みせたような不敵な笑みが返ってきた。

 内心のドキドキを悟られまいとして話しかけた。

「腹筋が割れている。かなりトレーニングを積んだようだね」

「ええ、とっても」

 彼女は満足げにうなずいた。

 一呼吸おいてから、

「触ってみます?」

 無邪気に問いかけた。

 私はよろこびで叫びだしそうだったが、すぐにその無邪気さのなかに挑発が隠されていることを感じとった。

(判断を誤れば、侮られるかも……)

 私は慎重に触ることにした。

「では……」

 医者が触診をするような何気なさで彼女の腹に手を当てると、表面のやわらかな脂肪の奥に硬い弾力があった。

「ふうむ……まあ、なかなかじゃないかな、これは。だが……まだまだ改善の余地はあるといえるね」

「そうなの」

 彼女が屈託なく笑ったので、私もほっとして笑った。

「一緒にやってみませんか?」

 途中であったウォーミングアップをやろうというのだ。私は緊張したが、断る理由もなく、また、その用意もしてきているのである。

 私とあの女は持ってきたウェアに着替えてから戻ってきた。

「ちょっと恥ずかしいんだけど、一度やってみるから、そのとおりにやってね」

 小野寺さんはウォーミングアップをはじめた。

 そのハードさに私は驚いた。

 それはストレッチのような体をほぐすものではなく、腹筋や腕立てといった基本的な動作をいくつも組み合わせたものだった。

 流れるようにそれらをこなし、小野寺さんは瞬く間に一セットを終えてしまった。

「これを五セットつづけるのよ」

 まだまだ余裕があるというように笑いながら胸を上下させた。

 小野寺さんの指導のもとで今度は我々が挑むことになった。

 突如として我々の教官となった彼女は、

「もっと腰を落として!」

「それじゃダメよ! もっと角度をつける! そう、その感じ!」

「あと三回、はい! ほら、またあ、それじゃ一回にカウントできないわよ! そう、それよ、それ!」

 などと我々を叱咤激励した。

 彼女はいつもよりハツラツとしていた。

 その楽しげな顔が私にはなんだか鬼のようにみえた。けれども、それはあの女のように私を恐怖のどん底へ突き落とすようなものではなかった。指摘は的確で、公正なものであるため、納得することができるのだ。

 不思議なことではあるが、私は心地よささえ感じていた。

 目標にむかって体を動かしているためか、負けてなるものかという醜い男の意地によるものか、彼女に叱咤されればされるほど、私は興奮した。

 しだいに私は彼女の期待にこたえたくて仕方がなくなっていた。激励され、そしてその期待にこたえたとき発せられる彼女の弾んだ声を聞くと、私はますます興奮した。その声をかけてもらいたくて、さらに激しく体を動かした。

 いつの間にか、私と彼女の間には奇妙な一体感が生まれていて、それが狂おしいほどに私を陶酔させた。

(……友情が芽生えている)

 彼女のほうへ目をむけると、私と同じ気持ちであることがみてとれた。

 これが愛情であれば、と思うところもあるが、これはこれで悪くはなかった。

 一セットを終えて隣でくたばっている、あの女の無様な姿を見ながらそう思った。その姿は実に愉快だった。

 小野寺さんは残りの四セットをさっとこなしてしまうと、それで勢いがついたのか我々をほったらかして自分のメニューへ入ってしまった。

 ウォーミングアップは終わったのだ。

「彼女、筋がいいんだよ」

 いつの間にか隣に立っていたジムのスタッフが私に声をかけた。

「将来有望な選手さ」

 この男の言うように小野寺さんの動きは素人目にもいいように思われた。彼女は今、サンドバッグに向かってパンチやキックを繰り出している。シュッと空をきるスピード感あふれるキックが決まると、ダァンと鈍い音が響く。しっかりと腰の入った、見ていて清々しくなるほどの綺麗なキックだった。休むことなくワン、ツーとパンチが続く。こちらも力のあるいいパンチだった。

 軽快にステップを踏みながらリズムよく手足が動く。荒い息づかいに、もれだす気合の入った鋭い声。美しいふくらはぎが舞う。シュッ、ダァンと響く。白い腕がのびる。また、シュッ、ダァンだ。リズムよく響くシュッ、ダァンに、軽快にステップを踏む足音。彼女のあらい息づかいが、奇妙な感覚のなかへと私を導いていった。

 彼女がたたけばたたくほど、蹴れば蹴るほど、不浄なものがその場から取り除かれていくようだった。

 ピンと張りつめたような緊迫した空気がその場に満ちはじめた。

 私は恐怖ですくんだ。

(到底受け入れられるはずはない)

 なぜだか私は自分の身を恥じた。私はその場にとどまっていたかったが、それは許されることではないと感じた。残念なことだが、私は穢れているのだ。ここにいる資格などない。

 私は絶望した。

 そのまますがりつくような目で見ていると不思議なことが起こりだした。

 シュッ、ダァンという音が響くたびに私の身内が火を噴くように熱くなっていった。シュッ、ダァンと彼女が右足でサンドバッグの下段を蹴りつければ、私の左太ももは熱くなり、彼女が左足でシュッ、ダァンと上段をたたきつければ私の右肩が熱くなった。彼女がサンドバッグに強い衝撃を与えるたびに、私の体は熱を持ち、そこから一切の穢れが払われていくようだった。

(……私は浄化されている)

 彼女がそれをしてくれている。

 私は受け入れられた、祝福されているのだ!

 泣きだしそうなほどのよろこびが身内を駆けめぐった。シュッ、ダァンと衝撃が加わるたびに私は熱くなり、もだえるほどの幸福が私のなかで満ちていった。

 これはとてもステキなことだった。

 私はだんだん興奮していった。

 未知の扉が今、開こうとしているのだ!

 シュッ、ダァンと響くたびに、私のすべてがかき消えていくようだった。

 しだいに私の呼吸はあらくなり、やがて私の呼吸は彼女のあらい息づかいと完全に同化した。

 その瞬間、私はサンドバッグであり、サンドバッグは私であった。そして、私は小野寺さんでもあった。

 信じられないほどの澄んだ統一感に私は激しくもだえた。

 ――こ、これがキックボクシングか!

 私はあまりの興奮で気が狂いそうだった。

 私は今、世界とひとつになっていた。ありとあらゆるものが私であり、また、私はありとあらゆるものでもあった。肉体は消失し、解き放たれた精神は飛散して空へと舞い上がった。粒子となった私は宙を駆けめぐった。私はどこまでも行くことができた。宇宙すら可能だった。私はこのジムのなかにいながら、宇宙から地球を見下ろした。

 表現しようのないほどの幸福で満ちあふれていた。

 あまりの幸福で私は、

「私は宇宙だ! どこまでも私だ! そして私は神だ! 神は私なのだ!」

 そう叫びだしそうだった。

(……ああ、なんという素晴らしさだ)

 私は、この競技の本質は神との交信にあるとみた。

 まさか、キックボクシングというものがこれほどまでに素晴らしいものだとは思わなかった。

 私は拳を握りしめ、その感動にひたった。

 しばらくすると緩やかに、それは私から遠ざかっていった。

 私がその余韻にひたっていると、

「なんか興奮してるみたいだな、ちょっとやってみるか?」

 殴りたくてウズウズしているとでも思ったのか、隣に立っていたジムの男が私をスパーリングに誘った。

「うむ」

「そうか、やるか、ははは、気合十分みたいだね。お手柔らかに頼むよ」

 この男の言うように、私はやる気であふれていた。

 もう一度あの感動を味わいたかった。

(もしかすると、この競技との出会いが私の人生を大きく変えるかもしれない……)

 私は期待に胸を膨らませながらヘッドギアとグローブを身につけた。

「君、センスあるね。前になんかやってた? 君なら絶対プロになれるよ。ねえ、うちに入門する気ない? 一緒に世界を目指そう!」

 スパーリングが終わると相手の男は肩を上下させながら、息継ぎも邪魔くさいというほどの興奮で私をほめたたえた。

 小学生時代に古いカンフー映画にはまって完コピするほどの修練を積み、悪漢に対して正義の鉄槌を下す、カンフー・リーさんとしてみんなから慕われていた私のことである。それにくわえて暗殺術に関しても多少の心得もあるのだ。

 この男が私をほめるのも無理はないだろう。

 本来ならば、よろこぶべきところだろうが、私の心はまったく動かなかった。

 私は失望していた。

 あの感動が再び私のもとへおとずれることはなかった。腕や足を相手のミットに何度打ちつけてもむなしくなるばかりだった。

(……あの感動は、この競技とは無関係である)

 スパーリングを終えた私はそう結論づけた。

 きっとあれは小野寺さんのふくらはぎがみせた幻なのだ。彼女のふくらはぎにはいまだ見ぬ宇宙がつまっているのだ。

 私はそう思った。

 ふと肌がざわつくようなものを感じて振り向くと、小野寺さんの視線とぶつかった。

 彼女は若干蒼ざめたような硬い表情で私を見ていた。だが、私と目が合うと、ものすごい勢いで私から目をはずして練習に没頭した。

 期待をこめて私はその様子を見守っていたが、ふたたび幻を見ることはなかった。

 帰り際、私はジムの男の熱心な勧誘に閉口した。

 小野寺さんは異常ともいえるほどの笑顔で我々を見送った。その顔にはなぜだか殺気がただよっていた。

(なにか怒らすようなことをしただろうか……)

 考えてみたがなにも思い当たることがないので、おそらく練習で気が立っているせいだろうと思った。

 彼女はまだ練習をつづけるということだ。

 私はその熱意に敬意を表した。

 帰宅する道すがら、もう一度、あの感覚を味わいたい、などと私はぼんやりと小野寺さんのことを考えていた。

 そうしているうちに、ふと脳裏にひらめくものがあった。

(……あれを直にくらったら、いったりどんなことになるのだろうか)

 悪魔のような問いかけだった。

 あのふくらはぎを有する蹴りが私の体へ直接たたき込まれるのを想像すると私は胸が膨らむような思いだった。しかし、それは同時に破滅でもあると私の内部が叫んでいた。

 この狭間で私は悩ましくもだえた。

 いつか本当に彼女と雌雄を決するときがくるのだろうか。

(待ち遠しいような、そうでないような……)

 帰路の私は悩める青年であった。

 夕飯を食べて部屋に戻ると、調子にのったあの女がキックボクシングのまねごとを仕掛けてきた。

 私はそれを軽くあしらっていたのだが、ふと疑問に思ったことがあったのでこの女の足をつかみ、

「ちょっ、なにすんのよ! 放せって――ぎゃっ!」

 すかさずスコーピオン・デスロックを決めながらこの女のふくらはぎを子細に見た。

(……ふうむ、やはり不思議だ)

 非常に均整のとれたふくらはぎをしている。

 これならば世の女性が求めてやまないだろうし、もし仮にこれを手に入れられるのなら悪事をしてでも手に入れてやろうという女性が後を絶たない、といわれても、まったく不思議ではないほどの魔力めいた美しさがある。

 だが、このふくらはぎに私はまったく反応しない。

 不思議なことに、一ミリたりとも心が動かされないのだ。

 誠に奇妙なことである。

 ふうむ……。

「痛った! ちょっと、痛いんですけど、マジで! やめろって、バカ!」

 妙だな……。

 これは実に妙だぞ。

 知的な好奇心から私はちょっと興奮してきた。

 なぜ今までこのことに気がつかなかったのだろうか。近すぎて見えなかったのか。私の目が曇っていたというのか。

「ちょ、ちょっとギブ、ギブだって! マジで……」

 この女のふくらはぎはまったくの無感動だ。

 望月さんのあの華奢なふくらはぎでさえ、私は揺り動かされる。

 あの残念なふくらはぎに救いはないだろうか。

 傲慢な考えかもしれないが、あのふくらはぎに私は価値をみいだしたい。なにかしら彼女だけが持ちえるものがあるのではないだろうかと、こっぴどく振られた今でさえもそう思うのだ。

 小野寺さんについてはいうまでもないだろう。彼女のふくらはぎには宇宙がつまっているのだ。

 その他にも私は様々なふくらはぎを見てきたが、どれひとつとして無感動なものなどなかった。なにかしら私に訴えかけてくるものがあった。

(……だが、どうだ?)

 目の前のこの女のふくらはぎは私になにも語りかけてこない。この不思議さはいったいなんだ。これほどまでに美しいにもかかわらず、なぜ、私は無感動なのだ。なんだ、この不思議は。

 もしかすると圧倒的にまで高まった美というのは無感動なのかもしれない。空気と同じなのかもしれない。だが、私は自然の景色を見てその美しさに感動する。これこそ完璧な美だと思える。この矛盾はどうだろうか。

「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 ふうむ……そうなると、自然というものは完全にみえて、どこか不完全であるという考え方が成立することになる。その不完全さが感動を呼び起こすのかもしれない。

(……なかなか興味深い問題だな)

 単純に主観的な問題で、自然そのものはすでに完全であるのかもしれないが、一考の余地はあるように思えた。

 私はこの女を投げやると、さっそくこれをメモに残してから、最近気になって読みはじめている人体解剖に関する書籍を手に取ってそれを開いた。

 しばらく読み進めていると、死んだように床に突っ伏していたあの女がプルプルと体をふるわせながら起き上って、

「バカ!」

 と、泣きだしそうな声で叫んだかと思うと、ドアを壊すのではないかというほどの勢いで出ていった。

 私は気にせずページをめくった。

 その後、あの女が戻ってくることはなかったので、今日はかなり有意義な時間を過ごせた。

 とても嬉しい。

 ベッドに入り、体を休めたが、眠りはなかなかやってこなかった。

 あれ以来、あの女の夜襲は途絶えている。そのため神経が著しく張りつめるということはなかったのだが、どうも今日一日の出来事が私の神経を鋭敏にしてしまったようだった。

 しかたがないので私は目をあけてぼんやりと天井を眺めた。

 そうしていると、これまでの出来事が思い出された。

 容姿だけみれば超がつくほど美形の男に熱烈なアプローチを受けたかと思うと、私の好きな女性からはライバル宣言され、彼女のふくらはぎに夢中になったあげくに彼女の蹴りを受けてみたいという願望までわき上がる始末だし、私の嫌いな女からは身の危険を感じるほど虐げられるし、告白された女性からは返事をする前にフラれるし、おまけに友人と呼べる奴は私がこんな状況におちいっているのを楽しんでさらに悪化させようと暗躍するような人間だし、お世辞にもまともだとはいえない。

(……ひどい高校生活だな)

 私の思い描いていた生活とは大きな隔たりがある。

 私はもっと穏やかな、春の暖かな陽射しを受け、椅子に腰かけて本を読みながらそのままウトウトと舟をこぐような、そんなほのぼのとした高校生活を送るつもりでいたのに、いつの間にかこんなことになっている。

 それもすべては、あの女のせいだと思うと、なんだか笑いだしたくなった。一人の女にこうまで狂わされたとなると、なんだかひどくばかばかしかった。

 いまの私には安息というものがない。

 初音さんといるときくらいだろうか、心が安らぐのは……。

(……もう一度、服をつくってみるのもいいかな)

 今度はちゃんと最初から初音さんのためにつくるのも悪くないかもしれない。

 私はそんなことを思いながら眠りに落ちた。

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