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僕は君のことが嫌いだ  作者: 相馬惣一郎
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第1話

 私は河合晴香という女が嫌いだ。

 クシャクシャに丸めて袋のなかに放り込み、さんざん蹴り倒したあげく、二度と出てこられないよう地中奥深くに埋めてやりたいと思うほど、私はこの女のことが嫌いだ。顔も見たくないし、声も聞きたくない。できれば、半径五メートル以内に近づいてほしくもない。だが、学生である私にとって、あと数年はそれも叶わない。

 なぜなら、この女は私の妹だからだ。

 この女に出会ってすでに八年ほどになる。初音さんに連れられて我が家へやってきたのが最初だった。初音さんとは私の義母で当然ながら父の再婚相手である。

 父と初音さんを結びつけたのは夕立であるという。

 夏の終わりの蒸し暑い日だったらしい。突然降り出した雷雨に、雨宿りと父があわてて飛び込んだのと同時に、初音さんも飛び込んできた。横に並んで立った見知らぬ男女。自然と目の前で音を立てて降り注ぐ雨を会話に選んだ。

「いやー、すごい雨ですねえ」

「ほんと、これが全部そうめんだったら大変よね」

 初音さんのこの返答に、父は面食らった。思わず凝視してしまったが、初音さんは父のほうを見ておらず、さも大変だろうなと案じるような顔つきで流れ落ちる雨を見ていた。その様子についつい引き込まれてしまった父は、初音さんと同じように雨を見つめながらこんなふうに続けたというのだ。

「たしかに、それは大変でしょうねえ」

「そうよねえ」

 どこか牧歌的なこのエピソードを私は気に入っている。初音さんという人を象徴しているといってもいい。私もいつかこんなふうに運命の人と出会いたいものだ。

 父はこのときのエピソードを家で晩酌をして良い気分になったときなどに、ときどき語って初音さんをからかう。初音さんは、

「そんなこと言ったかしら?」

 と、あっけらかんと笑うのが常である。ただ照れているだけなのか、本当に忘れてしまっているのか、実際のところはわからない。私としては後者のほうではないかと思っている。おそらく、そのときたまたま大量に残ったそうめんを、

「どうにかして食べなきゃ……」

 とでも思っていて、それが目の前の雨と結びつき、口から飛び出ただけなのだろう。家に帰りつくころにはそんなことを口にしたことなどすでに忘れていて、そうめん食べなきゃということしか覚えてなかったに違いない。

 おおかたそんなところだろうと私はみている。

 初音さんとはそういう人なのだ。

 同じ家で暮らすようになってはじめて、私も父と同じように驚かされることが何度かあった。悪い人ではないが、少し変わっているのはたしかだ。

 余談だが、私がこの義母のことを初音さんと呼ぶのにも理由がある。彼女がそう呼んでほしいと言ったからだ。私としては、たとえ義理でも自分の母親となるからには、おかあさんと呼ぶ必要があるだろうと思っていたのだが、再婚前に彼女から、

「キョウちゃんのおかあさんは一人しかいないから、わたしのことは初音さんって呼んでね」

 と言われて以来、初音さんである。

 中学時代に一度だけ、このままではいけないのではないかと疑問をもち、

「……お、おかあさん」

 と、呼んでみたことがある。彼女は嬉しそうにしたが、無理はしなくてもいいと元の呼び名へ戻すように言い、無理をしていなかった私は少し抵抗してみたのだけれど、彼女はまったく引こうとしないので、すぐまた初音さんに戻った。私としても無理におかあさんと呼ぶ必要もなかった。

 だが、この件があって以来、母は一人だからという言葉に疑問が生じた。もちろん、その言葉に嘘はないだろうし、堅苦しいのを嫌ったというのもあるのだろうが、それよりもなによりも初音さんと名前で呼ばれたほうが若々しくいられるからなのではないかと思いはじめている。私のなかでは、もちろん母親としてきちんと存在してはいるのだが、どうしても年の離れた姉のような印象が強い。実際、彼女は若く見えるのだ。


 少々脱線してしまったので話を戻す。

 夏の夕立は、たしかに父と初音さんを結びつけるきっかけとなったが、このときはまだ通りすがりにすれ違ったというに過ぎない。彼らは連絡先すら交換しなかったのだ。雨は三十分もしないうちにあがり、その間、二人はなかなかいい感じの雰囲気になったらしい。初音さんのことを、いいな、と思いはしたが、何事にも義理堅い父は亡くなった母の手前、再婚するつもりはなかったというのだ。

 だからそのときは再び会うこともないだろうとそのまま別れた。

 もういっそ、そのまま出会わなければ私もあの女に苦しめられることはなかったのだが、人生はそううまくはいかないものだ。

 二人はまた出会うことになる。

 それは、また別の夕立が関係している。

 夏の夕立から幾日かたったある休日のことである。急に涼しくなって、あの暑さはいったいなんだったのだと夏という季節がバカらしく思うくらいの天気であり、その暑さを恋しがってなのか、なんだか妙に温かいものを口にしたくなるような変な日だった。

 私と父は近所のショッピングモールにいた。

 そこでなにをしていたのかは覚えていないが、とにかくぶらぶらしていて、帰りにそこからすぐ近くにある中華料理店で夕食を済ませて帰る予定だった。けれどもいざ帰ろうとしたときに雨に降られ、しかもそれがしばらくやみそうもなかった。傘を持っていなかった私たちは、しかたなくモール内で済まそうということなり、引き返してまたぶらぶらした。

 そこで初音さんと出くわしたのだ。

 (ふかふかのバスタオルみたいだな)

 初音さんを見たとき、ふとそんなことを思ったのを覚えている。ふかふかのバスタオルみたいに優しく包み込んでくれそうだなと、夜眠るときに包まれたならきっとぐっすり眠れるだろうなと、そんなふうに初音さんという人は妙に安心感というものを感じさせる人だった。おそらくこういうものを母性と呼ぶのだろうと、今はそう理解している。

「あれ? こないだの……」

 父がそう声をかけると初音さんは軽く驚いて目をパチパチさせてから、ああ、と言ってにっこりとほほ笑んだ。そのやわらかさはとても魅力的だった。私は一目見て初音さんのことを気に入った。母とは対照的な感じだったが、父が初音さんを気に入ったのもわかるような気がした。

 父が食事に誘うと初音さんはちょっと考えてから同意した。初音さんの提案で私がまだ食べたことのない東南アジアのどことかの料理を食べることになった。料理もおいしく初音さんのもつ魔力のせいもあってか、私たち三人は家族のように和気あいあいと過ごすことができた。

 もし仮に、この場に初音さんがあの女を連れていたとしたら、あの女との関係も今とは違ったものになっていたのかもしれない。私はこの食事のときに、はじめてあの女の存在を知った。私と同い年で、しかも誕生日が一ヶ月ほどしか離れていないというのだ。

「じゃあ、キョウちゃんのほうがお兄ちゃんね!」

 初音さんのこの言葉が私に兄という存在を自覚させた第一歩だった。なにげなく発せられたこの言葉が私のなかで大きく膨らんでいったのは間違いないといっていい。

 初音さんと別れ、ショッピングモールを出るときにはすでに雨はやんでいた。

「なあ、あの人どうだった?」

 父と手をつないで水たまりのできたアスファルトの道路を歩いていたとき、父が独り言のようにぼそっとつぶやいた。実際、見上げると、父は私のほうを見ていなかった。

「どうって?」

 私がそう問い返すと父はちょっと困ったような顔になって、

「つまり、その……あの人のことをどう思った? 好きか? 嫌だったか?」

 私は父の言わんとしていることをおぼろげながら理解したので私が初音さんにたいして感じたことをそのまま答えた。

「そうか」

 父はそう言ってまた黙り込んだ。私もそのまま黙って歩いた。急激に熱をもった父の手から流れ込んでくるぬくもりが私を満たし、秋の夜風がそのほてった肌を冷やしていく心地よさを感じながら、少し大きくなった父の歩幅にあわせて、私は懸命に足を動かした。家に着き、手が離れるまで父の手はずっと温かかった。

「墓参りに行こう」

 父がそう言い出したのは、それから二週間後のことだった。

 私としてはついこの間行ったばかりのような気がしていたので、

「また?」

 という気分だったが、とくに反対する理由もなかったため父の提案に従った。おそらくこのときには再婚する意志を固めていたのだろう。初音さんの意向はともかく、自分が再婚に向けて動き出すことへの許可というか、謝罪というのか、とにかくそんなようなものを墓の下で眠る母にたいしてしていたんじゃないかと思う。


 さらに数ヶ月たったあと、初音さんとあの女が我が家へやってくることになった。

「父さんなあ、あの人と結婚するかもしれないんだ」

 私は事前にそう聞かされていた。そう言ったときの父は真剣な様子ではあったが、どこか照れるというか、嬉しさというのがにじみでていた。そして私のことをしきりと気にしていた。私としては父の再婚にまったく異論はなかった。むしろ洗濯や掃除といった家における雑務の負担が減るとよろこんだくらいだ。

 こういうと薄情な人間と思われるかもしれないが、私は決してそうではないつもりだ。母のことを愛しているし、忘れてもいない。それは高校生になった今でも変わらない。ただ、失ったものはもう戻らないのだという現実を受け入れていたにすぎない。ひょっとすると受け入れざるを得なかったというべきなのかもしれない。はっきりとしたことは言えないが、母が亡くなっておよそ三年という月日は当時の私にとってあまりに長く、もはや過去のものとなっていたのはたしかだ。

 それよりも父のこの言葉を聞いたとき、私はショッピングモールでの初音さんの言葉を思い出していた。

 ――じゃあ、キョウちゃんのほうがお兄ちゃんね

 その言葉は私を高揚させた。同時に不安にもさせた。

 私が兄になるのだ。

 そう思うとやはり私の心は躍った。不安よりも強く私の心を揺さぶった。

 兄としてどう振る舞ったらいいだろうか……。

 無数のシチュエーションが私の脳裏をかけめぐった。まだ見ぬ妹に対して私の期待はどんどん膨らんでいった。

 ほどなくして父はある画像をみせてくれた。

 初音さんとあの女が一緒に写っている画像だった。初音さんはあの女を後ろから包み込むようにして抱きしめ、とても幸せそうに笑っている。見ているこちらもつり込まれるくらいとても素敵な笑顔だった。

 それとは対照的にあの女の顔はどこかぎこちなかった。

 不機嫌なようにもみえるし、恥ずかしがっているようにもみえるし、初音さんのあり余る愛情をどう受け止めていいかわからず困惑しているというふうにもみえる。それでいてがんばって笑おうとする様子もうかがえる。

 それは明らかに失敗していた。

 けれどもその様子はどこか見る人の笑いを誘うものがあり、なかなか好感のもてるものだった。

 これが私の妹か。

 不覚にも私はときめいてしまった。

 今となっては不本意なことだが、あの女は容姿だけみればかなり高い水準を満たしているといえる。それにそのときの画像は撮られてから一、二年はたっているようで同学年と聞いていたよりはだいぶ幼いものだったのだ。それが私のイメージする妹像にぴたりと当てはまってしまったというわけだ。

 私はますます兄としての振る舞いを模索した。

 私の期待は膨らむばかりだった。

 だが、我が家へ招待する日が近づくにつれ、私の高揚感は急速にしぼんでいった。それと入れ替わるように緊張が私を支配していった。


 そしてついにその日がやってきた。

 季節はすでに冬となっていて、その日は例年を下回る寒波がやってくるという予報どおりのとても寒い日だった。

 どうやって、もてなすか。

 計画はいたってシンプルだ。

 少し早くから夕飯をはじめ、食べながらゆっくりと時間をかけ親密度を高める。一服して余裕があれば、ゲームなどでさらに親密度を高める。どこかのタイミングで家のなかを紹介する。あまり広い家ではないが、結婚が決まればこの家で暮らす予定にしていたらしく見ておいてもらいたかったというのも今回の目的のひとつだったようだ。

 その日の私たちは多忙だった。

 前日に入念な掃除をしたにもかかわらず、父は朝から掃除をはじめ、昼飯を食べてからまた掃除をはじめるといった熱の入れようだった。それが終わると夕飯の準備に取りかかった。夕飯は鍋だった。焼肉やすき焼き、いろいろ候補はあったが、父が選んだのはやはり鍋だった。父にとって鍋というのはだんらんと同じ意味をもっている。

 何か大切な日は決まって鍋だった。季節を問わず夏でも鍋だ。

 別に大切な日でなくても父が、

「今日は鍋にしよう」

 といえばその日は鍋になる。

 こういう日は父が家族というものを恋しがっているというのを私はうすうす察しているので嫌な顔をせずにつきあうようにしている。

 忙しく働いているうちはよかったが、何もすることがなくなってしまうとまた私は緊張しだした。ただ待つ時間は、時計が止まっているんじゃないかと思うくらい長く感じた。私はイライラし、無意味に叫びだしたい気分だったが、私は兄なのだからこんなことでうろたえてはいけないとなんとか踏ん張った。

 こんなことは普段あまりないことだったので私はかなり戸惑った。

「なんだ、お前、緊張してるのか?」

 そう言って父にからかわれたが、父の声もどこか普段と違うようだった。飯を食うだけだから心配するなとなぐさめられたが、うまく対応できたかは定かでない。

 玄関のベルが鳴り、父とともに出迎えたとき、私の緊張はピークに達した。

「こんばんは、ちょっと遅れちゃったかしら?」

 声をかけた初音さんの後ろから様子をうかがうようにしてあの女が顔をのぞかせた。あの女は淡いブルーのダウンジャケットにピンク色のスカートをはいていた。画像で見たよりも成長した姿はどこか違和感があり、私をたじろがせるものがあった。

「いやー、そんなことありませんよ」

 父がそうこたえた。若干、鼻の下がのびたような感じだった。

 父のほうへ向けられていたあの女の視線が、ふいに私のほうへと移った。目が合うと、はっとしたような顔をしてからじろりとにらまれ、あの女はぷいっと横をむいた。すぐまた私のほうへむけられたが、ふんっと鼻を鳴らすようにまた顔をそむけてしまった。

 兄としての資質を疑われたようで私はなんだか気持ちが沈んでしまった。

「こんばんは、晴香ちゃんもよく来てくれたね」

 あの女は初音さんの後ろに隠れてしまった。

「ごめんなさい。この子、恥ずかしがり屋で。それに、ちょっと緊張してるみたいなの」

「いやいや、気にしないで、うちのもですから」

 初音さんにうながされて自己紹介し、私もそれにならった。

 父がお得意のアニメキャラクターのモノマネで話しかけると、あの女はくすくす笑って少し打ち解けた雰囲気になった。

「適当にくつろいでて、晴香ちゃんはお腹すいてるかい?」

「もー、ぺこぺこ」

「じゃあ、超特急で準備しなきゃ、今日は鍋だけど、晴香ちゃんは鍋は好きかい?」

「あたし、トマト鍋が好き!」

「残念! 今日はトマト鍋じゃないんだ」

「えー」

「じゃあ、次はトマト鍋ってことで、それで勘弁してくれるかい?」

 父はときどきモノマネをはさんでみんなを笑わせた。特にあの女を笑わせ、だいぶ距離を縮めた。父はいつもより多弁だった。こういう父を見るのは久しぶりだったので、私はなんだか懐かしくなって母のことを思い出したりした。

 このとき初音さんが線香をあげさせてほしいと言った。

 父は自分で案内しようとしたが、病的なほどに火の取り扱いに気をつかう性質のせいで、その役目を私に譲った。

 私は二人を仏間へと案内した。

 初音さんは母の遺影をしばらく見つめたあと、軽く会釈した。私たちは線香をあげ、静かに拝んだ。それからまた戻った。

 この女と父は相性がいいのか、食べはじめるころにはすっかり打ち解けたムードになっていた。

「この女は本当に恥ずかしがり屋なのか?」

 と、疑ってしまうくらいよくしゃべっていた。父と話す様子は自分よりも親子らしく感じたくらいだ。気遣って話しかけてくれていた初音さんには申し訳ないが、あの女に兄として存在感をしめしえないこの状況に、私はじりじりとじれはじめていた。

 もともと無口な性質であることにくわえ、話をするのは主に父であったため私はあの女と直接話す機会をみいだせなかった。

 食事がはじまってほどなくすると、この女がシイタケを嫌っているということがわかった。

 私は機会を得たと思った。

 妹の嫌いなものを兄が肩代わりする。私のイメージする頼れる兄のイメージに当てはまるものだった。そして私はシイタケとは有効的な関係を築いている。

 私は得意になってシイタケにくらいついた。

「キョウちゃんはシイタケ食べれるの? すごいのねえ」

 初音さんのこの言葉に私はますます得意になってシイタケをくらった。

 私は誇らしい気持ちであの女のほうへ目をやった。

 さぞ羨望的なまなざしで迎えられることだろうと思ったが、どういうわけか私と目が合うとこの女はムッとしたようなふくれっ面で私を見返したあと、顔をそむけてしまった。

 私は困惑した。

 兄として申し分ないはずのこの行為のどこにこの女をムッとさせるところがあったというのだ。私はこの疑問に答えを得られないまま、タイムリミットを迎えた。

 食事が終わり一息ついたところで父の、

「じゃあ、そろそろ家のなかを探検だ」

 という一言で二人に家のなかを案内することになった。仏間はすでに来ていたので軽く流され、大人二人はさっさと行ってしまった。けれども、どういうわけか、この女は仏間を見つめたまま動こうとしなかった。

 ちょっと憂いのある、遠くを見るような、その横顔はとても綺麗でずっと見ていたいと思った。けれども、私は兄として妹を引っ張っていかなければいけないと思い、

「遅れちゃうよ」

 そう声をかけて、この女の手をつかんだ。

 その瞬間、

「――触らないで!」

 私は鈍器で殴られたようなショックを受けた。

 女もハッとした顔をして、私から視線をそらした。

「……シイタケ臭いのがうつっちゃうじゃない」

 バツの悪そうな様子でそう吐き出した。

 そして、ふてくされたような顔で私をにらみつけたあと、

「パパー、パパ、抱っこして!」

 と、豹変したように、父にまとわりついた。

「まだパパってわけじゃないんだけどなあ」

 と、困惑気味ではあったが、内心よろこびを隠しえない父に抱きあげられる際、私はこの女のそこ意地の悪さをみた。

 この女は勝ち誇ったように私を見下ろしたのだ。

 私は兄という存在にひどく失望した。

 こんなものが兄なのか……。

 もしそうならそんなものになどなりたくと思った。

 それでも私はまだかろうじて踏みとどまっていた。

 まだ少し時間があったので今度はゲームをすることになった。

 古典的なカードゲームをすることに決まった。だいぶご無沙汰になっていた河合家伝統のおやつバトルがはじまった。子どものころ兄弟の多かった父の家庭は全員分のおやつをそろえられなかったため、ゲームで取り合うのが日常だったらしい。

 はじめのうち、私は調子がよかった。だが、しだいに調子を崩し、気づくとビリになっていた。いまいましいことにあの女がトップだった。初音さんと父はほぼプラマイゼロといったところに落ち着いていたので、私の失った分がそっくりそのままあの女にわたっていたことになる。私はかなりイライラした。

 そんな私にチャンスが訪れた。

 いいカードがずらりと私のもとにそろった。勝利を確信した私は、レートをあげることを提案した。もし勝てば私は一躍トップに躍り出るが、負けた場合、私の手元には一個のおやつが残るだけとなる。私は常に万が一の備えをする人間なのだ。

 この提案をあの女は渋った。

 もはや兄としての尊厳などないに等しかった私はこの女を挑発した。提案をのますことに成功したことはしたのだが、その代償としてすべてのおやつが対象となった。もし負ければ、なにも残らない。どうせ勝つのだ、とそのときの私はまったく気にしなかった。

 だが、それが間違いだった。

 私は気分よくゲームをはじめた。

 しかし、この女は途中で革命を起こしやがった。私のカードはゴミ屑同然となり、呆気なく敗れ去った。この女ははじめからすべてお見通しだったのだ。私の挑発にのったふりをして、すべてを巻き上げる、この女のがめつさ。

 本当に嫌になる。

 あの女はまぶしいほどの笑顔を浮かべていた。

 それはそうだろう。会心のゲームだ。普通だったら私が勝っていたのだ。

 男らしくないというか、人としてどうかとも思うが、私はこの瞬間、金輪際この女を妹なんかと思うものかと誓った。

 ゲームが終わり、送っていくという父を含めた三人を私は玄関で見送った。別れ際、あの女は私をみてにやりとした。初音さんと父の手前、嫌な顔をするわけにもいかず、これでもかというくらい私もにっこりしたが、内心は冷ややかだった。


 それからまた、しばらくたってから再婚に賛成かどうかを聞かれた。

 初音さんのことは好きだったが、私はあの女が駄々をこねてこれが破談になればいいなとちらりと思っていた。シイタケ臭いと私を罵っていたので、ひょっとするとそうなるんじゃないかという気がしていた。そうならなかったのが私には少し不思議だった。

 まあ、あの女としても初音さんをがっかりさせたくはなかったのだろう。

 私以外の三人が賛成しているのに私だけがそれを突っぱねるというのは到底私にできるものではなかった。私が泣き叫んで嫌だといえば、泣く泣く父はこの結婚をあきらめるだろうが、私は父を悲しませたくはなかった。

 初音さんと父の結婚が決まった。

 父は初音さんの誕生日をその記念日に当てたがったが彼女は、

「男の人ってこういうの忘れちゃうから」

 と主張して父の誕生日に決まった。冬の寒さがまだ残るころ、こぢんまりとした式をあげ、私たちは家族になった。

 それ以来、私はあの女に対し、一貫して無関心という方針をとっている。

 あの女が用を足しにトイレへ入ろうとして、そこから出た私をみて、舌打ちして踵を返したときも、テレビを見ていたら急にチャンネルを変えられたときも、リコーダーの袋を開けてみたらなぜかゴボウが入っていて、しかたなくそれで間に合わそうとしたら、隣のやつが「先生、河合くんがゴボウ食ってます」と言われたときも、私が先に風呂へ入ったら「今日はシャワーで済ますわ」と私に向かって厭味ったらしく言ったときも、登校していたら肩や背中をやたらたたかれるので不思議がっていると思い切りビンタをくらい、ぼうぜんとしている私にその男が左腕を示したのでよく見ると裏に「私をたたいて」という可愛らしい文字を発見したときも、家に帰ったらあの女が「今日はみんなから歓迎されたんじゃない?」とにやにやしていたときも、おやつのケーキが私のほうが少ないから取り替えろとあの女が言ってきたときもだ、私は無関心を貫いてきた。そのあと、わき腹にけりが飛んできたが、私は相手にしなかった。

 必要以上のことはしゃべらず、あの女を妹とは思わず、無関心を貫くというその方針に変わりはなかったのだ。

 しかし、高校へ進学するにあたって、その方針を曲げざるをえない事態が起こってしまったのである。

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