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歴史とDNA

Y染色体ハプロの限界

作者: とびうお君

 おさらいって事になってしまうけど、ネットに流れる情報は偏ってる。Y染色体ハプログループに偏った話が多い。これの最大の問題は、O2になる。O2の中の漢民族にとってとても重要なM134の系統についてM134=中国人って発想当たり前になってる。これ違う。


 まず中国の基礎を作ったのは間違いなくN系統になる。黄河文明と遼河文明の祖は同じグループである。だが何故この2つが違う文明になったのか?それこそがHLAハプロで分かる華人のハプログループになる。華人は伝説を元にしてるので、取りあえず分かりやすいようにつけただけで、ヤンシャオから流れる河南地方に集結した古代中華文明人の総称になる。


 遼河は狩猟採取が基本の文明で間違いないけど、一部には早くから農業を取り入れた地域があること。これはNと言う集団が黄河文明、遼河文明と関わってるため、両者が全く違う集団と言うわけじゃない。農業に偏ったのが黄河文明のNグループで、狩猟採取のままあまり農業化しなかったのが遼河文明だと見れば良いとおもう。根本的には同じ集団。


 これらが遺伝的に全く別グループになるのが、HLAハプロで示される西方O2系M134の集団との混血になる。これはM134とのこんけつではない。M134の系統でかつHLAハプロの西方起源のハプログループで無ければならない。民族名で言うなら多分キョウ族で良い。


 Y染色体ハプログループM134とその子孫である始皇帝に繋がるM133系はHLAハプロで示される西方集団が生まれる前にすでに東方の遼河地方に移住していることが予想される。これを混同してる人がものすごく多い。古代における中国東北地方のM133系は華族に多い西方集団のHLAハプロをあまりもってなかったと予想される。


 これはどういう事か?と言うと、このハプロが誕生する前に東方に移住したためだと思われる。その時期はいつか?は分からない。


 中国人の北方形質の大半はNが基底となって創られたもので、これに後の時代のC2グループの南下によってより強くなったものと予想される。歴史時代を始めた中国人は満州、日本、朝鮮に較べて、あまり北方形質が強くない。


 古代の人骨を調べた調査ではO2は東北でほとんど出ない。これはとても狭い時期にこれらのグループが移住したと思われる。おそらく神話時代の出来事はいくつか真実だと思われる。黄帝が居たのか?は分からないが、黄帝が居なくても、その出自と同じくする集団が中国を創ったといって言いと思う。このグループこそHLAハプロの西方集団のキョウ族だと思われる。


 これらの前に東方に移住したO2のM134系統のグループが居たと思われる。黄帝の神話が何時の時代か?分かれば良いのだが、その前であり、かつ新石器時代の中ごろぐらいかと予想される。おそらく農業を始めてNと混血したO2M134集団が、神話時代の中心となる中国人の集団とは別に東方に移住したと見られる。


 この末裔が遼河文明におけるO2系の集団だと思われる。これらの集団は古代において中国人とは呼べない。殷はおそらくこれらの集団と合体したNの後にシベリアから西に向かってその後南下したC2Cの遊牧民だと思われる。C2系も農耕の初期の人骨からは発見されない。その分布は東や北に偏っている。そこから時代を経るごとに南下して増えていくのが人骨から見て取れる。


 Y染色体ハプロで語る人は何でもかんでも中国人がって話しにして中国の侵略の歴史などにしてしまうけど、おそらく初期の焼畑集団の末裔じゃないか?と見ている。時期的にちょうど森がモンゴルにあった時期と重なる。そもそも焼畑による農業が森なくしては難しい。それゆえ時期がある程度特定できるのじゃないか?とは見ている。


 黄帝前と黄帝後では何が違うのか?と言うと、中心となる指導者による侵略的な集団のスタートじゃないか?と見ている。過去の東北地方への移住は焼畑による農耕民の移住でここが明確に違うと見ている。擬似的な夏に近い二里頭遺跡の前の城壁国家による集団化。この辺りの時期じゃないか?と見ている。


 中国人に多いO2のM134が西方集団なのは間違いないと思う。起源は東南アジアだと思うが、チベットを横切ってきたか?それとも、東南アジアから北上してそこからチベットに入ったか?だと分からないが。私は後者だと思ってる。その根拠はP系=RとQの先祖系統。これが東南アジアから再び西方に帰っていった集団で、この系統にNO系は近いからになる。


 当初インドで別れたと思われていたが、実際は東南アジアまで一端きてからわざわざ戻ったのが確度の高い話として出されている。そのためNOが分かれたのもそこだと思われる。チベット人はDよりもO2のM134の系統がベースだと思われる。


 日本人をどう捉えるか?にとても似ている。私は日本人は弥生人がベースで、そこに縄文人が先住民として混血したと見ている。アメリカ人をインデアンだという人は居ないだろう。言語と遺伝子を占める割合から新規の方が逆にベースになったもので、それに付加したのが縄文人や高地D系民族だと見ている。


 一貫してチベット人は中国人ととても近い民族だと思って私は見ている。チベット人は東から西に入っていた分析が出ているが、これとは別に旧石器時代からすでに人が住んでいる証拠もある。これを矛盾せずに説明すると上記になる。


 中国人がチベット人になったわけじゃない。中国人とチベット人の源流の民族がいてDとの混血率が低い集団も多分どうようにキョウ族として中国側に存在したと思われる。この集団が黄帝の率いた集団であろうと見ている。炎帝も同様の集団になる。Nはチベットにも高い割合を残すため、これはチベットに入る前にNとO2のM134の集団は混血していたと見て良い。


 中国全土に農耕民Nが広がって、その一部が狩猟採取のままの残って遼河文明を築いて、東南アジアから北上したO2は中国北西方に集まっていたが、それらと合流して混血してチベットに入っていったグループとそのまま東方に向かった集団に分かれたと思われる。その証拠にNが広がる前の中国東北部では古い時代にはO2はさっぱり出ない。じわじわとO2が東方に広がるように人骨から見つかるようになる。


 このグループの中で、一部先に中国東北部に向かった集団が多分いる。それこそが中途区東北部のM134で、これは黄帝が率いた集団とはおそらく関係が無い。ただ神話は黄帝の子孫が遼河地方の人に農業を教えたとなってる。多分あれたいした量の集団じゃなかったと思われる。日本人に全くその痕跡が無いのがおかしいからになる。


 日本人は数多くの中国帰化人を受け入れてる。そのわりにとてもHLA西方はプロの割合が低い。それはそもそも遼河地方に来たと言う黄帝の子孫はたいした数じゃなかったと予想されるから。実際は、その前に来た黄帝とはなんの関係も無いグループの西方集団が居たと思われる。


 これが日本の秦氏の大半の正体になる。日本の秦氏はベタベタの中原に古くから居る中国人じゃない。おそらく燕国にいた遼河人の末裔が大半だと思われる。日本の秦氏が始皇帝の子孫か?で全く同じハプロなので否定はしないし、歴史的にもそういう人が居たとなっていて、ありうると見ている。


 だが、そうじゃないただの中国を話す遼河地方に昔から住む燕人の流民だと思われる。西と東で明確に古代は系統の違いを分けられる。そして大半の中原で中国文明を作った民族はHLAの西方ハプロを濃厚に継承する。それらが無い集団は歴史的な意味で中国人と呼べない部分がある。その後混血によって中華民族として似たような系統になったと思うが、弥生時代の移住の時期にはまだそれらの混血が進んでなかった。


 遺伝的な民族アイデンティティの様なものが、Y染色体ハプロだけでは分からないと書いてしめたい。今の中国の領土から中国人を想定するのは間違っていると私は見ている。満蒙朝日は、皆遼河人の子孫だと見て良い。それらに関わるY染色体であって、中国人のY染色体ハプロではない。古代遼河人にわずか長江文明の稲作、海人が加わった形が弥生時代の遼河人だと見て良い。


 これらは中国人を中国人たらしめるHLA西方ハプロ集団の遺伝子が入ってない別集団の東方ハプロと読んで良い。


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