08話。ウルトの町。超奴隷と身支度(後編)
一度宿に戻り、着替えるようにと言いつける。
着替え終わるまで部屋の外で待つため、出て行こうとした所、ルーナが声をかけてきた。
「今夜、わたしの首を絞めながら、息が詰まる醜い断末魔を聴きながら楽しまれるのでは? 豪華な食事は最後の晩餐だったのでは……」
「するか! アホか!」
思わず肩越しに振り返る。
ブラウスの留め具に手をかけたまま進んでいない。
脱ぎたくないとその瞳は雄弁に語っていて、理解不能過ぎる。
屍衣を着て平然としていられる神経がまったくわからない。
「はじめての責苦で命まで散らすのを好む方もいると聞いてました。使い捨てる、と言う贅沢な作法だそうです。ご主人様が望むのでしたら、わたしは逆らいません。その後は、息の根が止まり冷たくなって行くわたしを物言わぬ玩具として扱って頂ければ――」
「――やーめーろ! やめろやめろ! マジでどんな教育されてんだ!」
巡礼士になってからは滅多に使うこともなくなった乱雑な言葉使いを乱発してしまう。
なんで少しわくわくしながら言ってんだ。そこが本気で理解に苦しむ。
奴隷を辞める機会を与えてやれたなんて、矮小な驕りでしかなかったことに羞恥と自責と虚無感と脱力感と色々な感情が胸の内で渦巻いていてムカムカする。
自棄気味に食べ過ぎたせいかも知れないが。
「食べないんですか?」
「は?」
「一通りわたしの躯で遊んだ後は、腐敗する前に肉を食み、腸に詰まっている――」
「やめろ! 猟奇的過ぎる!」
「薬は使っていないので安全ですよ?」
「……」
食肉用の家畜の話しか。
食べ過ぎた食後にする話ではない過ぎる。軽くえづきそうになる。
「ご主人様に食して頂き、血肉となって一生お仕え出来るのは素晴らしいことだと思います。死後もお仕え出来るよう、剥製にされるのもいいですよね」
「あ、頭が悪いって」
唐突に理解した。
完全に振り返って、ルーナを正面から見下ろす。見下ろして、その無垢な瞳にぞっとする。
頭が悪いとは知恵や知識の話しではなく――頭が狂ってる的な意味なのか。
冴えない奴隷商の皮肉げな表情を思い出す。見ていれば気づくと言っていた。
(あいつが言っていたのは、こういうことか)
頭の悪さとは、常識がおかしいなんて段階ではなく、常軌を逸しているのだ。
憧れるように、剥製にされたいと狂気と猟奇の極みのようなことを言っている。
陰鬱とした奴隷教育の果てにこんなになってしまったのか、それとも元々こうなのか。
「ちょっとそこ座れ。違う正座しろ。ベッドの上でいいから」
「はい」
ベッドを示せば素直に正座して上に乗る。俺も正面に正座して向かい合う。
珍妙な絵面になったことに遅れて気づいたが、どうでもいい。考えるべきはそんなことじゃない。
ちゃんと奴隷がしたいとのたまう、常軌を逸した理想を持つ少女に対し、言うべき言葉を探すが上手くまとまらない。腕を組んで唸る。
部屋の中、天井に下げたランタンが静かな灯りで少女を照らす。
綺麗な瞳が真っ直ぐに俺を見返している。
結局、力無くぼやくように言葉が漏れた。
「いや、本当に……どう言う教育を受けて来たんだ? 元々そうなのか?」
「……質問の意味がよくわかりませんが、わたしは剣奴としての技術と、奴隷として生きるための心構えをしっかりと教えて頂きました。これ以上教えるとどうなるかわからないので、あまり教えない方がいいだろうともと言われましたが……」
「あー……」
元々か。
そうでなければ、ここまでおかしなことにはならないか。
薄々わかっていた。
真っ直ぐな瞳でちゃんとした奴隷になりがたる手合いなんて、奴隷商もさぞ教育し辛かったことだろうし、それならばと張り切って男に触れさせないなんて尖った飼育方もやるわけだ。
「確かに、わたしは少々不器用な所があるのは自覚しています。それに頭も悪いので、ご主人様に不快な思いをさせてしまっているのですよね……申し訳ございません」
膝の上で手を握り締め、俯き、僅かに下唇を噛んで悔しそうにしている。
「いや……」
元々の性格がこうらしい。
きっと、元々は素直で義理堅く、一度決めたことは絶対に譲ろうとしない、真面目な性格なのだろう。
それがおかしな方向にぶっ飛んでいるのが問題なのだ。
元から色々と仕上がっていて、これ以上手を加えてどうなるか、確かに予想不能過ぎる。
器用に趣向を凝らして、猟奇的に迫って来られても恐怖でしかないぞ。
「おまえは……なに考えてんだよ?」
確かに、奴隷として育った境遇に同情も湧くが。
「奴隷が物事を考える必要なんてありません。ご主人様の命令を遂行するだけです。ご主人様の便利に使って頂くため、物に徹し切るのみです。その為ならこの命惜しくはありません。どうぞ道具としてご自由にわたしをお使いください」
それ以上に、そんな環境で育ったことを良しとして受け入れている理屈が理解不能で、憐れみを通り越して徒労を覚える。
「人の命令通りに動くのなんて嫌だろ。いいことばかりじゃない、辛い命令だってされるぞ?」
「どんな命令でも逆らいません。どんな用途でしょうとご主人様に使って頂けるのは嫌ではありません。むしろ奴隷として誇らしいです。奴隷に気遣いなんて必要ありません」
「……」
見詰め合う。
俺が甘い命令しかしないと高を括っているわけではないのは、疑う気にもならない。
死ねと言えば喜んで死ぬのだろう。
こんな狂っているのに、真っ直ぐ透き通った瞳の美しさを見ていられず目を逸らしてしまった。
俯いて言う。
「その主が、ちゃんと物事考えてくれ、自由に生きてくれと頼んでるんだけど……」
「そんな、ご主人様が奴隷に頼み事だなんて……どうぞ、ご命令を」
「いや……まぁ命令でいいから、俺を猟奇犯みたいに言うな」
そこではない気もするが、確実に譲れない所だった。
「……むずかしいです」
「なんでだよ!」
命令なら逆らわないと言った端からか。
と言うか、なにか、猟奇的な趣味があるように見えるつってんのかこいつ。
「ご主人様の為になら、どんなことでもわたしは受け入れますので。たとえご主人様がわたしの身体を切り裂いて血肉を貪り、胃腸に詰まった内容物を啜り、皮を被って楽しむのを望まれるとしても、ご主人様を悪く思うようなことは決してありません。むしろ奴隷の身として、他の物では変わりの出来ないことでご主人様のお役に立てるなんて、光栄の極みです」
「あー……そう」
悪意ある言葉ではないのだと言いたいらしい。
素直で真面目な性格に、奴隷として妙な知識を身につけてしまったせいで常識が根底から狂っていて常軌も逸しまくっているらしい。
ただただひたすらに疲れる。
「……とにかく服は返品するから、着替えてくれ。命令だ」
「……はい」
言いつけてベッドから重い腰を上げ、部屋から出て行く。
少しして、貫頭衣に腰帯代わりの剣帯をつけた、奴隷の姿に戻って瞳だけを残念そうにしょぼくれさせているルーナが部屋から出て来た。
髪を短くしたせいで奴隷の首輪が本当に目立つ。
暗鬱な気分のまま宿を出てから、殆ど走るようにして無言で夕暮れの町を歩き続けた。
雑貨店の前までたどり着き、明かりが灯っているのは窓から見えた。
閉店の札はかかっていない。扉を蹴り破らんばかりの勢いで押す。
鍵でもかかっていれば騒音を立ってくれるだろうと期待を込めたのだが、そのまま勢いよく開き、台帳場に座って繕い物をしていた婦人は顔を上げた。
前置きも無く店内に踏み込んで、台帳場の上に服を置く。
「返品する」
「あらあら、怖い顔。遅かったわね」
繕い物に区切りをつけてから、婦人は楽しそうに微笑んだ。
「返品は受け付けないわよ? 奴隷が一度袖を通した服なんて汚くて売り物にならないんだから。もう一着、なにか買って行く?」
「……」
ふざけた商売をする婦人を黙らせようと睨みを利かせて脅しつけるのだが。
「……」
剣呑な眼差しで微笑みを返され、深味の濃い眼差しに呑まれそうになる。
俺とて巡礼騎士として危険な魔物と対峙して来た経験はあるのだが、それとはまったく異なる圧に底知れない不気味さを感じていると、ルーナが俺と婦人の間に立ちはだかった。
「ご主人様、ご命令を」
「……なんて?」
「この女、消すんですよね?」
「……消すって、殺すって意味?」
「はい」
「俺の記憶が確かなら、おまえ、昼間、この人の世話になったよな?」
身体を洗って貰って、着替えに髪まで整えて貰った筈だが。
「ご主人様の敵はわたしが排除します」
また頭のおかしなことを言い出した。
呆れ果てて婦人へと問いかける。
「奴隷の罪って所有者の罪にもなるんですよね?」
「そうね、管理不行き届きね」
「大丈夫です、この女を消して、わたしも死ねばいいだけです。どうぞご命令を」
「そんなの通らないだろ」
それが通るなら奴隷に開放を約束して暗殺させ放題とかそう言うあれで良くないだろ。
なんかもう疲れる。
「通らないわね。飼い犬が噛みつくのと同じ、普通に主が罪に問われるだけよ?」
「……隠せばいけませんか?」
「自分の奴隷が人を殺したなんて、普通に自首するかな」
「……」
滑ったことを言って恥ずかしかったのか、ルーナばつが悪そうに拗ねたような目で俺を見上げる。
なんでだよ。
「いったい俺はどうすればいいんでしょう?」
「これどう? お奨めなんだけど。その服にこれと、あとはその剣帯で組み合わせればよっぽど目聡い人でも気づかないでしょ。裏に当て布もあるから下着代わりもなるわよ?」
「あー、はいはい、なるほど」
もっと大局的な教えを乞いたい心境だったわけだが、婦人は手元にある、女性剣闘士が着る革装束を見せてくれる。
黒革で出来た下着のような衣装を――下は普通に履かせるとして――上は剣帯と組み合わせて鎧のように見せれば、外見の印象は乙女に着飾った女剣士に見えることだろう。
色味が地味なのはこの際目を瞑るとして、これも使っている革が上等のようで、地味に安い物ではないことにも目を瞑ろう。
そのまま色んな物、全てに目を瞑りたくなるのをなんとか堪えて頷く。
ここまで計画立てていたのか。
婦人の商魂に戦慄しつつ諦観することにした。
未だに難しそうな顔をしているルーナの背中を押す。
「いいようにしてやってください、金は払いますんで」
「ごめんなさいね、最近は聖教会の目が厳しくて、売上が苦しいのよー」
そんな常套句は聞きたくない。
ルーナはなにか言いたげだったが、さっさと着替えさせてくれと意思を示すように背を向ける。
着替えの布音に気まずい思いをしながら、待つことしばし。
「はい、もういいわよ」
振り返れば、予想と違い、予想以上に愛らしくも清楚な少女剣士の姿がそこにあった。
腰に剣帯を履いてブラウスの上から胸当てのように革鎧を纏えば、古風で清楚な服からは浮いていた悪趣味な首輪と、革の編み靴も奇妙に調和していた。
「ああ、いいな、可愛い」
「え?」
もう脳を使いたくないので率直な感想が漏れてしまった。
目が綺麗だからだろう、お人形さんのようだとはこのことだ。
「可愛い……好ましいと言うことですよね?」
「ああ、そうだよ」
ルーナは主に不利益を与える敵と認識した相手に着替えさせられ、若干むすっと目が座っていたが、褒められ顔から表情を無くし俺を見上げる。
一体どういう反応だ。
俺も普段は旅の法服に黒革の胸甲を合わせているので、傍から見れば歳の離れた兄妹が武者修行の旅をしているくらいには見えてくれるんじゃないだろうか。
「黒の髪色が重いのよね……髪飾りにこんなのどうかしら?」
「ああ、はい、じゃあそれも」
白い翼のようにも見えるが、花のつぼみを意匠とした飾りがついた髪留めを雑貨の中から選んで持って来てくれた。
もう投げやりな気持ち満載で頷くが、ふと思いとどまる。
「待った」
身に着けたら買い取り必須なのだ。
頭に乗せようとしている所へ鋭く声を挟んだ。
奴隷に髪飾り?
「それは何用だ? どんな意味がある? 葬式用か?」
「ん、これは奴隷用って訳じゃないけど、私は貞操を守っていますって印よ。お兄さんの奴隷になら似合うんじゃないかしら?」
満面の微笑で解説してくれる。
なにか含みがあるような気がするが、無視した。
禁欲的な旅路を歩んで来たことくらい見透かされてるのだろう。
「貞淑の飾り、か……」
思ったよりは物騒な物ではなかったが、もう少し密やかにつけるべきでは、と思っている所に婦人の言葉は続く。
「本来は家畜用の、今期はまだ種付けしてないことを示す印だから奴隷につけても大丈夫なのよ。奴隷につけてると、これから私の処女を主に捧げます、って周囲に主張してる感じが素敵でしょ?」
「いらん」
「欲しいです」
「……」
「欲しいです」
思いっきりアホを見る目で見下ろすが、ルーナは瞳を輝かせて繰り返す。
「ほらほら、短い髪の飾りとして合うし、服装とも良く似合ってるから、そうそう気づく人もいないんじゃないかしら?」
「……」
思いっきりアホを見る目をそのまま婦人へと向ける。
「それとも、命令があれば誰にでも抱かれます、って印の方がいい?」
「それもいいですね」
反対の手にある、汚い赤と紫色をした蝶の飾りをひらひらとさせている婦人。
ルーナは真顔で呟く。具体的な知識はない癖になにがいいですねだ。
余計な物に興味を持たれてこれ以上ややこしくなっても面倒過ぎる。
さっさと話を切り上げよう。
「ああ、じゃあはい、その白い方で」
「両方はどう?」
「白い方でつってんだろ」
疲れた目で言う。
こう、奴隷の少女がはじめて主に欲しい物をねだると言う状況に、心温まる情景を無意識にでも期待をしていたらしい、俺が一番アホなのだろうか。
遠い目をしながら髪飾りをルーナの髪につけようとしていた婦人を見ていると、思いついたように手を止めて髪飾りを俺へと向けて来る。
主に手ずからやらせるのは奴隷に関わる生業の風習なのだろうか。
もう口を挟む気も起らず、純潔の意味が込められているらしい家畜の印をつけて――髪に触れた瞬間、ぴくっと身を竦めるルーナ。手が止まる。婦人がにやけて見ている。
深呼吸を挟み、慎重な手つきで髪を留めてやった。
さらりと細い黒髪が揺れる。
貞操を守っていると主張しているなら、べつに悪い物ではないだろう。
と言うことでいいだろう、もう。
「可愛いですか?」
「………………ああ……うん、可愛い」
……。
頭の奥に酷い鈍痛を覚え、目を逸らしながら指で額を抱える。
白い髪飾りをつけたルーナは、少しだけ、ほんの少しだけはにかむように微笑み、頬をほんのりと赤くして嬉しそうにしていた。いや、家畜の印だぞ……?
なんでそうなるのか、やっぱりさっぱり理解不能で、ただただ疲労感が増すばかりだ。
なにもかもが疲れる。
そのうち見れたらいいなと思っていた奴隷少女の微笑みに、まったく心は温まらないことだけは確かだった。
婦人はこの光景を満面の笑顔で見ながら言葉を添えて来た。
「下、下着代わりに履かせるなら替えも必要よね?」
「……ああ、そですね、それも用意してください」
疲れる。
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宿へと戻り。
部屋の外から扉に額を押しつけながら溜め息を吐いている。
中ではルーナが着替中だ。
ともかく、色々あり過ぎた一日もようやく終ってくれる。
「着替え終わりました」
呼びかけられ、扉を開けて――足を止める。
「なんだか窮屈な感じがしますが、これでいいんですよね?」
「……ほら、それ下ろして。着替えたらさっさと寝てくれ」
言葉にも詰まったが、言いながら部屋へと入る。
「はい」
ルーナは寝間着として使うことにした奴隷服に戻っている。
一日で何回着替えてるんだと迷走したが、人目のある場所では乙女な女剣士の格好で、それ以外は奴隷服でと落ち着いたので良しとしよう。
下は奴隷服のときでもつけたままでいるようにと言ったので、確認の為にだろう、奴隷服の裾を捲り上げ、こちらに見せていたのも、とりあえず、今はいいとしよう。
そんな思考は次の瞬間霧散した。
「……」
「それでは休ませて頂きま――え?」
頭ん中で、なにか、ぶち切れた音がする。
疲れていて、心身共に余裕がなかったのだろう。
奴隷服の裾を戻し、身体を横たえようとしていたルーナの腕を乱暴に掴んで引き起こす。
軽い身体は驚く程容易に持ち上がった。
兎のぬいぐるみ――リフィトがその腕から零れ落ちて、床に音も無く転がる。
「っ、夜伽ですか?」
驚きに瞳だけが見開かれて、輝き、弾んだ声で顔を上げたルーナ。
俺はそれを荒い呼吸と苛立った目で見下ろす。
「ハァ……ハァー……」
身形の問題は解決を見た。
だが、ルーナの中身はなにも変わらない。
「謹んでお受けします。どうぞご主人様の心ゆくまで存分に、わたしの身体を自由に使ってください」
美しい瞳を閉じて顎を軽く上げた、その狂った程愛らしい仕草は、凶悪過ぎて神聖ささえ感じさせる。
俺は更に精神的に追い詰められ、声までも荒げてしまう。
「――なんでっ、女の子がっ! ベッドをっ! 使わないとか、おかしいだろが!」
当たり前のように部屋の隅で丸くなろうとしていたルーナを怒鳴り上げれば、怪訝な目つきで薄目を開けた。
「ベッドで致す、と言うことですか? どこでもわたしは拒みませんが、汚してしまうのでは――」
「ちっがぁあうわぁあ!」
俺の奇声に、ルーナは益々首を傾げる。
その愛らしくも狂った仕草に湧き上がる感情は、明確に怒りだった。
激昂。目の前が熱くなる。
(この感情は――良くないっ)
咄嗟に、慌てて切れた糸を繋ぎ止めるような心地で荒れる精神を自制する。
まさか、こんなことで狂化魔法を発動させてしまうわけにはいかない。
怒りの感情は十分だ。扉に手はかかっている。あとは魔力を意識すれば発動してしまうだろう。
他者との関わりに危惧はしていたが、まさかこんな形で――……こんな形かぁ……なんだか意気込みが削がれてしまって、少々持ち直す。
深呼吸を繰り返す。
震える声で、微笑みを浮かべながら言う。
「普通に、おまえが、ルーナが、ベッドで、寝よう」
「ご主人様、奴隷のわたしに、それは――」
「――だぁああああ!」
「きゃっ!」
有無を言わさず、ルーナを引っ張り上げてベッドに叩き込み、流れるように首元まで布団を被せてやれば、木枠のベッドは小さな音を立てて軋む。
「おまえが! ベッドで! 寝る!」
「で、ですが――んくぅ!」
慌てて起き上がろうとしているルーナを抑えつけるように、兎のぬいぐるみを顔面に押し付けてから、隣に押し込んで並べて寝かせてやる。
「うるせぇ黙れ命令だ寝ろ! 寝れ!」
「は、はい!」
指を眉間に突き付けてやればルーナは起き上がれない、枕に頭を沈める。
それを確認してからゆっくりと身体を離し、呼吸を整えるため大きく深呼吸を繰り返す。
怒鳴るだなんて不慣れなことをして息が苦しい。
激昂の峠はなんとか越えた。
俺の荒々しい呼吸が響く中、愛らしい声がする。
「……ご主人様」
「頼むからそのまま寝てくれ」
掌を向けるが、ルーナは黙らなかった。
「ご主人様はどこで眠るんですか?」
「床で寝る」
当たり前だろうが。一々言わなくても分かるだろ。
言い捨て、鞄から毛布を取り出すべく身を屈める。
普段の旅路に比べれば壁はしっかりあるだけ御の字だ。硬い床なんてべつに苦にもならない。
背後で慌てて身体を起こす音がした。
「そんなっ、駄目です!」
「……奴隷が主に意見するのか? 命令にも反したことをしているぞ。俺はなんと言った?」
肩越しに見遣れば、急いでベッドから抜け出ようとしていたルーナの身体がびくりと止まった。
涙目だ。
「っ、ちがい……っ」
「おまえは奴隷なんだろう。意見なんて言える立場じゃない。黙って主の命令に従っててください、ほんとお願いだから」
気遣いを命令と言い換える茶番を、いくらか楽しんでいた節もあったが、今はもうとにかく本心から疲れた声しか出ない。
「っ、ですがっ、頭の悪いわたしでもわかります、これは駄目です! この命令だけはご容赦ください! どんなお仕置きでも受けますので、どうか! どうか!」
涙を散らして悲願してくる。
ベッドの上に正座をして、手をつき頭を深々と下げている。
そんな姿勢をしているせい、奴隷服の裾から小さい尻が見えている。
下履かせておいてよかったな。
悲痛な涙声と丸い尻の温度差に間抜けさが際立っていて、頭まで痛くなりそうだ。
ルーナの足を洗ったとき、夕食を共にしたときも、悲痛な表情で固辞しようとしていた。
本気で嫌だったのだ。わかっていた。
それでも、無理やり人並みの扱いを覚えさせてしまえばいいだろうと、どこか楽観視していた。
だが、今も変わらず、いや、今の方が激しく本気でベッドを使うのは嫌だと、そう言っている。
女の子が泣きながら土下座までして。
家畜の飾りを貰ってはにかんで微笑み、暖かい寝床を勧められて苦しそうに泣くのか。
怒りよりも大きな徒労感で、激昂の気配も完全に霧散してしまう。
俺は大きく、深く長く溜め息を吐く。びくりとするルーナ。
「……知らん、もう勝手にしてくれ。元々、最初から自由にしていいと言っている」
俺は灯りを消してから毛布を身体に巻き付け、鞄を枕にして横になる。
小さな身体がベッドから降りたのは、音だけではっきりとわかった。
ルーナも床で横になったようだ。床も狭い。すぐ後ろで横になっている。
気配だけなら仔猫かなにか、小動物が寄り添ったのかと錯覚してしまう。
「……」
「……おやすみなさいませ、ご主人様」
か細く囁かれた。
声からして、こちらに背を向けて横になっているらしい。
背中を合わせ、息遣いを感じながら真逆を向いて眠る形はなんだか暗示めいていて、お互い相手を想い遣っているのは確かなのに、お互いに困らせ合っているだけの現状を的確に表しているようだ。
(……まったく)
前向きに解釈するなら、命令を破ってでも自分の意思を優先させるのは、自由に振る舞っていると言え……無いな。
こんなことは、自由だなんて呼ばない。
奴隷だから自分も床で寝るって、やはりなにかが、いや、なにもかもが大きく間違っている。
心底狂った奴隷根性が染みついているのだろう。
いや、そうじゃないだろ、どっちかがベッド使えよとまどろみながら思う。
融通が利かず、頑として主張を譲ろうとしないのは変わっていない。
その主張がろくでもないことばかりなのが、非常に疲れる。疲れた。
ゆっくりとまどろみ。
そして。
(あ)
封魔の赤石とやらの情報を仕入れる件を、完全に忘れていたのを思い出した。
(……もういいや、東南都アペリスで聞こう)
東南都アペリスにも奴隷商はあるだろう。
そこで封魔の赤石の情報を仕入れる。それでいいだろう。
どうせあまり期待していない。
この先、いくつかの中継点を越えたら辺りからゴブリン討伐に向かうのに、街道を外れて山間の村に向かうことになる。
休める時に身体をしっかり休める必要があるのは確かなのだと言い訳をして、もう一度あの雑貨屋に顔を出したくないのが本音だった。
俺のことは後でもどうとでもなる。
つまり、目下の問題は真後ろで小さな寝息を立てている少女だろう。
(これ、下手したら孤児院でも引き取ってくれないんじゃないか……)
そんな懸念すら湧いて来る。
著しく集団を乱す素行の悪い悪童や、あまりに常識の欠如している問題児は、罪人同様に巡礼刑か、酷ければ剣闘刑送りにされることだってあると聞く。
(とにかく衣服と旅支度の問題は片付いたんだ……となれば)
次は東南都アペリスまでの道中、ルーナに一般常識を身に着けて貰おう。
常備すべき知識と書いて常識と読む。
難しいことじゃない、歪んだ奴隷の矜持とやらに縛られ、誰かの命令に従うのではなく、自らの意思で生きる。その為の基本を教えよう。
つまり聖教会の教えを、人の世で人が人らしく生きる決まりをきちんと理解して貰うわけだ。
宣教師ではないが、巡礼の旅をしている身の上としては一応こちらが本業だとも言えるだろう。
(よし……)
町に着く前に考えていた奴隷少女と打ち解けることが、予想以上に根の深い話だったと言うだけのことだ。
小さく息を吐き、決意を固めるが……気は重い。
(……こんな俺にやれるんだろうか)
背中に小さな息遣いを感じながら眠りに落ちて行くのはとてもこそばゆい。
腹の底に溜まる重圧がむずむずして、なかなか寝つけなかった。