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18話。ニルスの町。そんな夢。




 真っ白な小麦のパンはあらかじめ切り分けられて木皿に並べられていた。

 表面を炭火で軽くあぶったチーズが五種類、つけ合わせにふかした芋と人参が添えられている。

 高級茸の香草包み焼きに、茹色の鮮やかな季節の温野菜サラダ。

 汁物は玉葱と鶏肉をじっくりと煮込んだスープで、鳥の肉が骨からほろりと外れるほど柔らかい。


 そして、皿からはみ出る大きさの蟹が正面にどんと置かれている。

 炭火で焼かれた甲羅の匂いが香ばしくて、胃の動きが活発になる。


 飲み物は透明な葡萄酒とは行かないので、林檎の果汁を発酵乳の上澄みで割った、爽やな甘味と穏やかな酸味が喉に香る物を用意してもらった。


 そんな豪華な食事をルーナと取りつつ、気づいたことがある。

 空虚に回っている理性の歯車、その動力がわかった。

 結論から言えば、俺の独り善がりで回っていたわけだが、問題があり、結果があり、決まりになった。

 その類のことだ。


(なるほど)


 どんな決まり事にも、必ずそう取り決められるだけの理由がある、原因がある。

 一見無意味で理不尽だと思えることでも、詳しく知って行けば試行錯誤の末、研鑽の末にそうなった流れや、そうせざる得なかった事情や理由、背景があることが分かる。


(だから奴隷は奴隷として扱うようになっているのか)


 そんな時、人は目が開かれる思いをする。

 もやもやと燻っていた身体の熱が一気に晴れ気分だ。


「ルーナ、こう。ここの胴と、脚にも身がある」


 蟹を目の前にして、不思議そうに首を傾げているルーナへ、剥き方の手本を示してやれば、すぐにコツを掴んで俺よりも綺麗に解体して行く。


「器用だな」

「奴隷の手で触れた物ですが、ご主人様さえよろしければ、どうぞ」


 綺麗に剥けた蟹の脚を取り皿に乗せて差し出してくれる。


「ん。うん。ありがとう」

「奴隷に礼は不要です」


 言って、ルーナは自分の分にかぶりつき、目を見開いてそのまま止まる。

 しばらく止まる。

 再び動き出せば、小動物を思わせる動きでもくもくと口に運び始めた。


「美味しい?」

「……」


 もっくもっくと咀嚼して、目を見開いたまま次に手を伸ばす。

 俺の声は耳に届いてなかったようだ。

 余程口に合ったのか、無心で蟹を頬張る少女が微笑ましい。

 流れるように脚を全て平らげてしまい、胴の方も手早く割って頬張って行く。


「鋏の部分も美味いぞ。硬いから剥くとき破片に気をつけてな」

「はい」


 小さな手で軽々と割っているが、なるほど割る瞬間だけ纏鎧魔法を指先に展開させているようだ。

 こう言う分野では器用なのに、やること成すこと色々不器用なまでに愚直なのも、今となってはこの子の奇妙な性格なんだろうと溜め息交じりの苦笑が浮かぶ。

 最後に残った鋏の部分は、薄く目を閉じてゆっくりと味わっている。

 ルーナは嚥下し、ハッと思い出したようにもう片方の鋏を綺麗に剥いて取り皿に乗せた。


「こちらもどうぞ」

「さっき脚一本貰ったよ。残りはルーナの分だ」

「この部位はまた違った味で、とても美味しかったです。ですので、ご主人様に食べて頂きたいです」

「俺の分はこっちにあるから。それはルーナが食べてくれ」

「……」

「いいから、食べれ、命令だ」

「……はい」


 笑いながら命令すれば、小さく口を開き、迷いを見せる。

 頷いて見せれば、渋々と大きな鋏を小さな口に咥えてからも、上目でじっと俺を見る。

 掌でさっさと食えと示せば、諦めたようにもっくもっくと食べてくれた。

 美味かったならルーナに食べて欲しいと思う俺と、美味い物であれば主が食べるべきだと言うルーナの主張は、ずっと平行線だ。


「ほっぺた、ソースついてるぞ」


 いつも行儀が良い、と言うよりも、定まった作業のような動きで食事の気配を感じさせないルーナにしては珍しい。


「申し訳ございません、見苦しい所をお見せしてしまいました」


 澄まして口元を拭うのだが、もう少し頬の方についている。


「ここ」


 俺が自分の頬を指させば、ルーナは同じ方向を拭う。

 違う、逆だ。

 笑い、手を伸ばして俺の手拭きで頬を拭ってやる。


「申し訳ございませ――んっ」


 他人に優しく触れられることに慣れていないルーナは、せつなそうに身を竦ませた。

 そんな声や仕草も。


(とてつもなく可愛い、と思ってしまうわけだ)


 別れに寂しさを覚えながら、食事を共にしていて気づいた。

 気づいてしまった。

 容姿だけでも幼さを残した愛らしい顔立ちに、目が覚めるほど綺麗な瞳、身体はやせ細っているのに、どこか芯を感じさせる居住まいであり、可愛くて美しい。


 そんな子が一生懸命、全身全霊、命を賭け、俺が死んだら後を追うとまで言ってくれていて、どれだけ虐げられても構わないから自分のことを便利に使って欲しいと、なんの見返りも求めずに尽くしてくれているのだ。


(こんなもん、愛しく想うなって言う方が無理だろ……)


 だから奴隷を扱うのに、奴隷を頑なに人間扱いしないことで情を寄せないようにする取り決めや風習が根づいているのかとしみじみ理解した。

 もちろん歪んだ我欲を満たすための取り決めも多分にあるのだろうが、節度を持って生きようとしている人間に取って、こんな献身は毒でしかない。

 こんな献身を常日頃から受け続けていれば、どうしたって人の態度は尊大になり、堕落してしまう。


「ご主人様?」

「……なんでもない」


 俺の視線に顔を上げたルーナと目が合った。俺は憮然と顔を背ける。

 もしくは、そんな献身的な奴隷が愛しくてたまらなくなり、なにもかもを投げ打って奴隷の少女さえいれば良い、なんてことになってしまいそうで怖い。


 俺的には後者の方か。

 そうなりかけていると自覚した。


(聖職者を堕落に誘う淫魔のようだとは、そう言うことか……)


 大袈裟でもなんでもなく、そのままの意味だな。

 実際に何度も誘惑されたし。

 歪んだ我欲を満たすための奴隷と過ごして行くうちに、きっと誰しもが歪められてしまうのだろう。

 欲望と堕落の歪みは連鎖しながら大きくなり、今のような行き過ぎた扱いになってしまったのか。


(だから熱心に奴隷解放なんて言い出す聖職者もいるわけだなぁ)


 失笑か自嘲か、鼻からため息が漏れる。

 顔を戻して、食事を再開しろと手で促せば、大人しく食べ始める。


(……いつからだろう)


 気づいたのは今さっきだが、ウルトの町でルーナを着飾った辺りから、もう可愛らしく思っていたような気もする。

 もっと冷静に客観視出来ていれば丸解りだったのかも。

 その感情が、いつの間にかどんどん大きくなって行った。


(だって可愛いんだもんなぁ)


 改めて容姿を盗み見ながら食事を進めて行った。

 ルーナは蟹を綺麗に食べ終え、果汁の乳酸飲料割りが注がれたグラスを両手で掴みながら飲んで、また目が丸くなっているのがまた可愛い。

 しかし、感情の正体に気づいてしまえばいくらか冷静になれる。


 当然俺とルーナの場合は男女のそれではなく、妹……いや、この常識外れ加減や無知っぷりは娘に近いのかも知れないが、愛しくて大切にしたいと言う思いが一番強い。

 父性愛や庇護欲的な物がしみじみと湧き上がって来て、胸の内に今まで感じたこともない温もりがほっこりとあるのを自覚する。


 よく分からない熱の原因はこれだったらしい。

 いつしか親身になるのを通り越し、親愛の情をルーナへ向けていた。


(これからは、奴隷解放派をもう少し真面目に支持しようかな……)


 パンを小さな口で頬張っているルーナの顔をじっと見る。

 と、ルーナは手を止め、首を傾げる。

 俺の視線を気にして自分の頬を触って見たりしている。可愛い。


 笑ってなんでもないと告げる。

 俺のような禁呪持ちがそんな活動に関わってもろくなことにはなるまいが。


(……いや、違うか。違うな)


 それだけが理由じゃない。

 赤の他人はどうでもいいとは言わないが、積極的に関わろうとは思わない。


(他の奴隷は別に……あ、そうか)


 考えていると、もう一つ気づいた。

 やっぱり奴隷制度は良くない。

 誰かの言葉じゃない、俺独自の視点でも思い至った。


 他の奴隷に同情するし哀れにも思うが、なにかしてやろうなんて気持ちは、気持ちだけは浮かぶが実際には動かない。

 例え俺が禁呪持ちじゃなくたって、日々の生活に手一杯で生きて行くんだ、余計な問題にまで手出ししたってろくなことになるまい。それが普通だ。

 なにか問題があるのなら、その問題に関わる人達でなんとかして行く方がややこしくならない。


(俺だってそうするんだ)


 目の前にいるのが、ルーナだからなんとかしてやりたいと思う。

 成り行きで関わってしまった奴隷が、ルーナだからなんとかしてやりたくなってしまった。

 ……そもそも他の奴隷だったら素直に奴隷を辞めるか、適当な場所で逃げるかなんなりとしてくれるのだろうが。

 ルーナだからこそ、俺はここまで幸せになって欲しいと願っているんだ。


(……だと言うのに、ルーナはべつに俺じゃなくても良いんだろうな)


 たまたま俺だっただけだ。俺以外だったら喜んで奴隷らしい奴隷をやっていただけだろう。

 だから奴隷は良くない。まったく良くない。最悪だ。憮然と思う。

 テーブルに頬杖をつき、本気でイラついていること自覚し、笑えてしまう。


 奴隷だから俺に尽くしているだけで、俺がどんな性格でどんな考えを持とうと関係ない、ただ尽くすだけ。

 俺が俺じゃなくたって、別の主にも同じように尽くすのだろう。

 よくわからない嫉妬のような感情すら湧く。


 奴隷だからこんなにも従順で献身的なだけで、そこにルーナの意思なんてない。

 貴族へ売られるのも、主の役に立てるのならそれで構わないわけだ。


(本物の奴隷なんだな……)


 今はっきりと認識した。

 狂った奴隷の少女――いや、奴隷制度自体が狂気の沙汰なのだ、真面目にその狂気を実践しようとしているのだから、こう言うべきだ。

 ルーナこそ本物の奴隷だ。


 奴隷として主に尽そうと一生懸命なだけで、俺がどれだけ心を寄せてもルーナには届かず、そしてルーナの意思で俺を大事にしてくれているわけではない。

 全てはルーナが奴隷だから。


 無意識にそれを理解していたから、ルーナにどれだけ誘惑されても拒否出来ていたのかも知れない。

 そんなもん虚しいだけだ。


(そんな歪んだ忠義に、感じ入っている俺はとんだ間抜けか?)


 わかっていても、人の温もりに慣れていない俺は嬉しくなってしまう。

 それがまた虚しい。

 滑稽過ぎて、侮辱された気さえして来て笑える。


(つまり、俺は主としてではなくて、俺自身に好意を寄せて欲しいと思ってるのか)


 俺がどれだけ親身になったところで、ルーナは奴隷としてあろうとするだけ。

 芯があり、ひたすら真面目で、少しばかり要領は悪いが、いつだって一生懸命な女の子が、こんな風に歪められていることが腹立たしくもあり、虚しくもあり、悲しくもあり、なんだか口惜しさすら感じてしまう。

 奴隷なんて最悪だ。


(……考えても詮無いことか)


 どうせルーナには奴隷を辞めるなんて発想がないんだ、俺だって巡礼の旅を辞めるわけにはいかない。

 愛さえあれば身分や立場なんて関係ないと詩人は歌うが、どう考えても関係あるだろ。

 なんでそんな無責任なことが言える。

 むしろ愛しているからこそ、相手を思えばこそ、相手の未来を考えるべきだとしか思えない。


(どうしたって俺とルーナの生き方は交わらない)


 どれだけ別れを寂しく思っていても、ルーナを愛しく思えばこそ、ルーナ自身の未来のために、巡礼の旅なんてついて来なくていいから、孤児院で人の世の暮らしを一から学んでくれと願う気持ちは強くなる。

 独り善がりの俺と、狂った忠義のルーナ。噛み合わないはずだ。

 力無く自嘲して溜め息を吐くしかなかった。





 ひたすら胸が苦しくなる食事も終えて。

宿屋の使用人が食後に運んできてくれた熱いお茶を飲んでひと段落。

椅子に置いていた贈り物を取り出してルーナへと向ける。

「はい、これ。今までのお礼兼褒美だ」

「……謹んでお受け致します」

 お礼と言う言葉に引っ掛かりを覚えたようだが、受け取ってくれた。

大きな包みを両手で抱えて首を傾げる。

「こちらは?」

「……」

 首を傾げているルーナは可愛い。目が綺麗だからだろう、きょとんとしていると本当に好奇心旺盛な仔猫のようだ。

「ご主人様?」

「あ。いや、それ? それは今日からの寝間着と、なんか勢いで買った座布団。どっちも孤児院の暮らしで使ってくれ」

「はい。ご主人様のお心遣いに感謝します」

 自覚とは目が覚める思いで、改めて見ると本当に可愛らしい顔立ちをしているなとしみじみ魅入ってしまっていた。

「それで……明日は、朝一の馬車で東南都アペリスまで行くからな」

 全ては俺の独り善がりの徒労に終わる。ただの空回りと言うやつだ。

別れの計画を語るのに、きつく胸が締めつけられる。

こんな気持ちになるくらいなら、見た目を整えた時点でとっとと馬車を使えば良かったんだ。

「昼過ぎには到着して、そのまま孤児院に引き取って貰う。準備というか心構えというか……そのつもりでいてくれ」

「はい」

 ルーナの表情は相変わらず、平然と返事をする。

「……今までありがとうな。なんだかんだで助かった面も無きにしも非ずだったんじゃないかな、たぶん」

 言葉を濁したのは照れ隠しではなく、なんだかんだ助かったが、なんだかんだで苦労したことの多さも思い返せば、素直にお礼を言うべきかどうか迷ってしまったのだろう。たぶん。

「ありがとう」

「奴隷には過分なお言葉です」

 ルーナは当然のように首を振る。

控えめな謙遜ではなく、奴隷としての扱いを求めての言葉だ。

「……」

「……」

 お互いに続く言葉もなく。ルーナは無言の俺をじっと見返し、首を傾げる。

こんなもんだ。

ルーナは徹底的に奴隷だ。主がこうしろと言えばそうするだけ。

旅の途中で懐いてくれた野良犬だって、羊飼いの少年に引き取って貰ったときには悲しそうに鳴いてくれたぞ。

 もう少しなにかあってもいいだろうに。なんて、不服に思っている時点で自覚以上に重症なことにも今更気づいて、苦笑の色は濃くなって行くばかりだった。



====================



 寝支度を整え、部屋はもうすぐ消えるランタンの細い灯りに照らされている。

 早速可愛らしい寝間着に着替えて――案の定、奴隷の首輪が異様に浮いている――兎のぬいぐるみを胸に抱き、床で寝ようとしているアホに声をかける。


「おいルーナ、その服着て床で寝るな。汚れるだろ」

「では、どこで休めばいいのでしょうか?」

「素直にそっちのベッド使っておくれよ。二人分料金払ってるんだし」


 最後の晩なのだ、ゆっくり休んで欲しい。


「この服を着ずに、裸になって床で寝るのは駄目でしょうか?」


 なんでそんな質問が浮かぶのか、理解不能――いや、もう流石に理解は出来る。


「いいわけないだろ」

「奴隷は床で寝る物なのですが……」


 ルーナが本物の奴隷だからだ。

 そして俺は奴隷を良い物とは思わない。


「例外があるとすれば、ご主人様の閨で玩具として使って頂き、激しく気をやって意識を失うか、足腰が立たなくなってしまえば、むしろご主人様に悦んで頂けると聞いています。その場合でしたらベッドで眠ることも許されるのでしょうか?」


 相変わらず酷い言葉選びだ。

 奴隷らしく物としてありたいルーナと、ルーナ自身を大切にしたい俺の、どこまで行っても交わらない平行線。


(奴隷扱いをしないなら……)


 奴隷は家畜以下の道具だ。

 そんな建前でどれだけの貴族やお偉い方が、本気の過ちを犯しているか、俺が考えている以上に多いのではないだろうかとも思う。

 逆にそんな過ちを犯さないため、異常なまでに苛烈に当たる主も多かったりするのだろう。

 俺はどちらだろうと自問自答する。


「……こっち来るか?」

「夜伽ですか?」

「違う」

「では、なにを?」

「なに、と言われても……なんだろう」


 どうせ後は孤児院に引き取ってもらうだけなんだ、開き直りの心境もあるだろう。


「今まで散々言葉で説明して来たけど、まったくわかってくれない見たいだからさ、行動でルーナのことを大事に思ってると伝えたい……のかな?」


 俺はルーナを奴隷扱いしない。

 ルーナは自分を曲げないし、俺だって奴隷の誘惑なんぞに歪められてたまるものか。


 俺も変わらない。俺は自分の正しさは曲げない。断固ルーナに優しくする。

 旅を共にして、ちょっとばかり情が移り過ぎてしまった女の子として扱うだけだ。


「……?」

「なんにもしない。ただ一緒に、灯りが消えるまで、いつもみたいに話をしながら寝よう」


 よくわからないと言いたげに首を傾げるルーナ。

 ルーナの外見的にはそろそろ親しい者と一緒に寝るのも微妙な年齢かも知れないが、中身はその仕草にふさわしい、なにも知らない幼子のようなものだ。気にすることではないと開き直る。


(そうだよな……そんな年頃の子なんだ)


 人が最初に受けるべき人の愛を知らない奴隷の少女は、人を真っ当に愛すると言うことが理解出来ないのだろう。

 誰にも優しくされたことがないルーナは、相手を思い遣ることも知らず、ただひたすら間違った忠義で主に尽そうとする、道具に徹しようとする本物の奴隷だ。


(そして、そんなもん、俺は認めない)


 きっとウーヅンみたいなのに引き取られていれば、さぞかし奴隷として奴隷らしくろくでもない生き方が出来たのだろうが、そうはさせない。

 残念だったな。


(俺がルーナを大切に思っていることが、ほんの少しでいいから伝わって欲しい……)


 そうでなければ流石に俺が報われないだろう。

 そう腹立たしく思うことで若干の照れ臭さを誤魔化した。

 ルーナの表情は相変わらず変化に乏しいが、瞳が奇妙に泳ぐ。


「わたしはぬいぐるみではなく、奴隷です。確かにご主人様に使って頂けるのであれば、どんな用途でも構いませんが……ただ一緒に寝るだけで奴隷としての務めが果たせるのでしょうか? 奴隷としては欲望の赴くまま、乱暴に扱われる方が相応だと思うのですが。もしかして、玉に不具合のあるご主人様ならではの特殊な――」

「ああ、じゃあお仕置きってことにしよう」


 ちゃんと奴隷がしたいルーナにとって、ただ一緒に寝るだけなのは不服らしい。

 それだけでは奴隷らしくないと言うことか。


「最後のお仕置きだし、これまで溜まりに溜まった鬱憤を発散させてもらうために、思いっきりルーナちゃんが嫌がることをするとしよう」


 最初の頃はよくルーナへの気遣いをこんな風に言い換えていた。

 お仕置きと言う言葉にルーナは瞳を輝かせるが、すぐに俺の意図を察し、怯えながら顎を引いてしまった。


 最後に、荒療治を試させろ。

 最後に、思いっ切り優しくさせろ。


 優しくされると苦しくなる。奴隷扱いされないのが苦しい。

 それが本物の奴隷であるルーナなのだと理解していても、優しくしたいと思っている俺の意思は譲るつもりはない。


「ほら、こっちおいで」

「……はい」


 しずしずとベッドへ歩み寄り、止まる。

 ぬいぐるみを固く抱きしめて躊躇している。


「断わられると、それはそれで、こう、なんと言うか面目がないというか……いや、本当に嫌なら……いいよ、床で寝ても」

「っ……はい」


 譲るつもりはないが、優しくするのならそう言わざる得ないだろう。

 気の抜けた笑顔を向けてやれば、肯定か否定か、返事をしたまま動かない。

 しばらく固まっていたが、ルーナは意を決したよう、ぬいぐるみで口元を隠し、恐る恐るベッドに手を乗せて、俺の隣に身体を並べた。

 軽い体重に沈むベッド。


 爪先まで真っ直ぐになっていて、なにかに耐えるようにぬいぐるみを抱き締める。

 毛布を丁寧に肩までかけてやれば、微かに震えていることに気づく。

 奴隷の矜持うんぬんもあるのだろうが、結局尖った育ちの所為で他人から触れられるのが苦手なのか。

 難儀な話だ。


「少し狭いか」

「……はひ」


 ルーナの声が裏返える。

 身体が触れ合わないように距離を開けていれば、お互い隅に追いやられてしまう。


「もう少しこっち来ていいぞ」

「はひぅっ!」


 荒療治だ。

 ルーナの細い首の後ろから腕を通し、肩を抱いて引き寄せれば、返事か悲鳴か、あがりそうになった声を、ぬいぐるみに顔を埋めて抑えた。

 これが男のベッドへ潜り込むことへ緊張しているのなら可愛いのに。

 そうではなく、優しくされていることを苦しみ、身を竦めているだけなのだから、まったくどう反応すればいいのやら。


(意外と……こっちまで緊張して来るな)


 誰かがこんな近くにいるなんて、俺だって子供の頃以来か。

 もう少し余裕を持って接することを想定していたが、いざこうなってみると、ルーナの身体の小ささがよく分かってなんとも言えない緊張感がある。


 良い匂いなのかどうか知らないが、新品の布の匂いがするのは寝間着が新しいからだ。

 軽く頭を、髪の表面を撫でてみる。


「っっ――!」


 ルーナは声を押し殺して耐える。


(……こんなんで夜伽なんて無理だろ)


 苦笑が浮かぶ。

 ルーナの想像している行為と、俺が考えている理想とはまったくかけ離れているのだろう。

 優しくされるなんて、まったく想定していないのか。


 優しく、丁寧に頭を撫でるほど、ルーナの目からは光が消えて行き、とうとう小刻みに震え出した。

 ルーナは震えながら静かに呼吸を繰り返す。


(優しさって、なんだろうな)


 なんだろう。

 今からでも乱暴に組み敷いてやれば、いくらでも平然と耐え、奴隷らしいことが出来たと、満足してくれるのだろう。

 優しくされるよりも、痛みに耐える方がルーナにとっては楽なのだ。

 自分が痛い目にあってでも、主が満足すれば良いと、それが奴隷の矜持だと、奴隷の少女は言う。


 奴隷の証として、主に傷をつけて欲しいと望んでいる。傷を欲しがっている。

 俺にとってそんな行為は理想とは程遠く、虚しい慰みにしかならなくとも、それをルーナが望んでいるのなら、望むようにしてやるべきなのだろうか?


 最後の夜なのだから。


「ごしゅひんはま?」


 頭を撫でる手を止めれば、ふにゃふにゃな口調以上にふにゃふにゃな眼差しを俺に向ける。

 押さえている息にも熱が籠っている。

 俺は微笑む。

 冷や汗で乱れている前髪を指で流してやれば、更に可愛い声をあげてきつく瞳を閉じた。


(……本当に玉に不具合でもあるのかな?)


 若干自分でも心配になる。

 やれと言われればやれなくもないのだろうが、同じ毛布の中にいても、率先してそんな気分にはなれない。

 腕の中にあるルーナの荒い息遣いを感じていると、しみじみ大切にしたくなる。


(……それに、ぬいぐるみを抱えた女の子に手は出せないだろ)


 震えるルーナは、兎のぬいぐるみに必死にしがみついている。

 母の形見を力づくで剥ぎ取り、細い腕を押さえて無理矢理事に及ぶ。そんなとは無理だろ。

 例えルーナがそれで奴隷としての務めを果たせと喜んだとしても、このぬいぐるみを託した人はそんなことを望むまい。

 ルーナの全てを大切に想うならば、このまま傷つけずに孤児院に預けるのが最善なのは考えなくともわかることだ。


「ごひゅっ――んっ!」


 最後に、包み込むように抱き締めれば、可愛い声で悲鳴を堪える。

 小さくて細い身体だった。細さに驚く。

 身体の柔らかさよりも、無駄な贅肉がまったく無くて、骨がしっかりしてるな、なんて真っ先に思うが、やはり男とは違う、女の子特有の張りとしなやかさのような物も確かにある。


 腕の中で、ルーナの心臓の音が聴こえる。

 早く、力強く高鳴っている。


(……女の子って心臓の音まで可愛いんだな)


 変な事に気づいて、面白くなってしまった。

 面白くなってしまい、少しだけ、そんな気も起きなくもないかも知れないこともないと、なにかが過った。

 一瞬だけ。


(……駄目かな)


 駄目だな。

 俺の葛藤なんて神様には見抜かれているだろうが、大事なのは選択だ。

 自分の理性の頑丈さを神に感謝しつつ、真っ赤な顔をして、ふやふやな目で荒い息を吐いているルーナの額に、軽く額を合わせて笑う。笑うしかなかった。


 ろくでもないことで頭を酷使し過ぎて、とても疲れた。

 名残惜しさに引きずられながらも、ルーナの身体を離して毛布の中で背を向ける。

 触れ合っていた箇所から急速に熱が離れ、寒々しく感じてしまう。

 すぐ後ろで大きく息をつく気配と、涙を拭うような布音がした。

 一緒のベッドで、子供をあやすように寝物語を聞かせたいなんて無謀だった。


「寝る。おやすみ」

「……は、い。おやすみ……なさいませ……っ、んんっ、おやすみなさいませ、ご主人様」


 こう、夢でも見ないだろうか。

 生まれ故郷の村で、父の仕事を手伝っている俺がいて、下の兄妹達と一緒に遊んでいる近所の子供としてルーナがいて。


 控えめだが、妙にぐいぐいと俺に懐いてくれるルーナを、俺も兄妹達と同じように可愛がっていた。

 年頃になってそれぞれ疎遠となり、少々寂しく思っているが、俺も本格的に父の仕事を継ぎ始めて忙しくなっている。

 そんな折に、親同士が話をまとめて来て――なんて、どこにでもある、どこにでもあって欲しい平和な光景を思い描きながらも、そんな現実味のないことは、夢で見ることすら叶わないのはわかっていた。

 





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