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16話。ニルスの町。暗闇から静かな夜へ。


 夜明け前。

 夜の間にたっぷりと溜まった闇の中、俺は穏やかに気を失っているルーナを膝に抱えながら朝日を待っていた。


 ウーズンとお付きの者も一頭の馬はカナリアが殺し、残った馬にも逃げられてしまっていて帰りの足が無い。お互い気まずい距離を置いて座り込んでいる。

 どこを見るでもなく、闇の中に視線を置いてると、目の端が明るくなった。


(……朝日には、もう少し――)


 光が、夜明け前の一番濃い闇を切り裂いた。

 無造作に寝かされていたカナリアがいつの間にか起き上がり、ウーズンの首を撥ねた。

 水平に飛んで行く首がどこからどう見ても悪夢で、夜明け前の幻ではないかと思ったが、すぐに生々しく弾む水の音がして現実に引き戻される。


 カナリアが遺体の懐を漁り、なにか……薬か。奪って走り去って行くのを遠目で見ていた。

 全ては一瞬の出来事で、傍から眺めていると本当にあっさりした物だった。


「……」

「……」


 お付きの者も俺もなんの反応も出来なかった。

 立ち上がりもせず、ただ茫然と闇の中に消えるカナリアを見送った。



=================



 朝日が昇り。

 ウーヅンの亡骸へ聖印を切り――遠くに転がっていた首を正してやる気には、どうしてもなれなかった――安らかな眠りを祈る。隣でお付きの者も祈っていた。

 その後は気を失ったままのルーナを背負い、お付きの者と一緒にルニスの町まで行き、役人に事の顛末を告げた。


 拘留所に入れられ、自警兵や王立騎士団、一時は聖教会の異端審問官からまでも囲まれて尋問を受けていたが、お付きの者の証言と、昼過ぎに狼の群れに食い散らかされたカナリアの死体が発見されたことで放免となったわけだが、取り調べの最中に目を覚ましたルーナが俺を守ろうとして、異端審問官に食って掛かるのを慌てて引き止めるなんて一幕もあった。


 ルーナはふらふらと立ち上がり、そのまま立ちくらみを起こしながらも両手を広げる。

 その姿に、頑迷な神官然としていた異端審問官が思わず心配そうな声を漏らし、その場がなんとなく和やかになった。

 いいからもう少し座って休んでいろと言いつけても、ルーナがむにゃむにゃ言いながらなかなか座ろうとしない辺りで異端審問官は崩れそうになる鉄仮面を髭の下でなんとか堪えていた。

 取り調べの最中に笑うわけにも行かないので非常に困ったことだろう。


 その場にいた王国騎士や町の役人達も、奴隷の少女に手を焼く俺を見て忍び笑いを堪えていたし、最後は可哀想な物を見る目で解放された。


 お付きの者は別れ際、ウーヅンの悪評とカーツ家の財政力の傾きもあり、主要な地位から外されつつある貴族だったから取り調べは穏便だった、今回の件を僥倖だと捉えてる者も少なくないだろう。と嘲笑っていた。

 それに反応する気力もなかったので、無言で別れた。


(とんでもなく……ろくでもない……)


 とんでもなく疲れているので、ちゃんとした宿を取ることにした。

 広いベッドに横たわり、そんなこんなを思い返している。

 もうそろそろ日が沈もうかと言った時刻。

 沈むベッドの感触に全身を預けてていれば、心地良い眠気が訪れる。


(疲れた……)


 もう一つベッドがあるのに、床に座って焦げた剣帯等の手入れをしていたルーナがぽつりと言う。


「ご主人様の言う通りでしたね」


 俺は旅装を解いてしまっているが、ルーナの外套の下はまだ燃えた奴隷服のままだ。

 身体は大小の傷があるので、着替えと治療を一緒にして貰いおうと思って治癒士を呼んである。

 もうすぐ来るだろう。


「……?」


 返事をするのも億劫だったので、枕の上で顔を転がして視線を向ければ、真っ直ぐに俺を見返して来る。


「悪い子は狼に食べられるんですね」

「……カナリアのこと?」


 一瞬なんのことかわからなかったが、頷くルーナ。


「奴隷が主に逆らって牙を剥くなんて、とても良くないことです」


 因果応報で自業自得だとしか思えないが、ルーナに言わせればウーヅンは悪くないらしい。


「わたしはどんな扱いを受けてもご主人様の命令に逆らったりしませんので、ご安心くださいね」

「……」


 ね、と言われても。


(……今まで何度命令とズレたことをして来たことやら)


 今回はそのおかげで助かった訳だが。


「……なんで逃げなかった?」


 またおかしな風に命令を解釈したのか、命令を越えた忠誠心なのか、その方が奴隷らしいと判断したのか、単なる優しさだったりするのか、他には……――思い当たることをぼんやり考えながら質問してみる。


「?」


 ルーナは首を傾げる。


「俺の禁呪が発動しそうになって、逃げろって命令したよな?」

「……?」


 更に困惑気味に首が傾く。

 瞳には焦りすら浮かんでいる。なんで?


「わたしが受けた命令は、生きろ、と言う命令だったと記憶しているのですが?」

「そうだったかな……そうだったな」


 未来の為に生きてくれ、生き延びてくれと命令したつもりだが。

 肯定すれば、ほっとしながらルーナが言う。


「はい。ですので、あの場に残りました」

「言葉の繋がりがわからない。どういうことだ?」


 あの場から逃げるのが一番生存率は高かっただろう。

 それくらいの知恵は回る子だ。


「わたしは命に代えてもご主人様を守ります」


 それは聞いた。

 だが、俺の命令は生き延びることだったはずだ。


「それが叶わず、ご主人様がわたしより先に身罷られるようなことがあれば、わたしは即座に後を追いますので」


 問い詰めようと開きかけた口がぴたりと止まる。息も止まった。


「生きろ、と言う命令を遂行するために、ご主人様を守ることに専念したのですが……問題がありましたか?」

「……」


 問題しかない。なんと言えばいいのか。止まった呼吸と共に思考も止まる。

 なんとか頭を動かさねば。不安げなルーナの瞳。集中しようとすればするほど動かない思考。

 そこに。

 部屋の扉を控えめに叩く音が響き、心臓が飛び跳ねて動き出した。


「失礼します。ご依頼を頂きました、治癒士です」

「……ああ、どうぞ」


 その名の通り、治癒魔法を使える魔導士だ。

 平民でもこの手の便利な魔法を受け継いでいる者はそれなりにいる。

 ルーナの傷を治癒して貰う為に手配しておいた。

 心臓を落ちつかせ、気怠い身体を起こして扉を開けに行く。


 聞いていた通り、俺と同い年か少し上の女性だ。

 白いローブを纏った治癒士を迎え入れる。


「この子なんですけど、ついでに身体拭いて着替えさせるのも頼まれて貰えませんか?」


 テーブルの上にはお湯を張った桶が既に用意してある。

 財布から多目に硬貨を取り出しながら頼んで見る、と。


「え……」


 治癒士はルーナの有様を見て目を丸くし、奴隷の首輪に注目して眉を潜めた。


「あ。いや、違う。ごめん、出て行け。今すぐ」

「え、え?」


 そのまま硬貨を押しつけ、渡された硬貨の数に慌てている治癒士を扉の外に押しやる。

 なにか言いかけている治癒士を無視して速やかに扉を閉めるが、どうしても荒々しい音が鳴ってしまった。


「……」


 扉を閉めて、額を強めに押しつける。痛い。

 強めどころか、額を扉に叩きつけたのかも知れない。結構な音がした。


「ご主人様?」


 心臓がうるさい。


(追い出さなかったら、今の治癒士……)


 殺していたかも知れない。恐怖に胃が締めつけられる。

 目を閉じれば、脳裏に浮かぶ禁呪の扉はぎりぎりで開いていないが、向こう側から魔力の荒れ狂いと共に、扉が歪む程激しく打ち鳴らされている。


 勿論それは錯覚で、本当は心臓の音なのはわかっている。

 なんだか体調がおかしい。まだ感情が昂ぶっているのか?

 頭を振って向き直る。ルーナは不思議そうな瞳で俺の奇行を見ていた。


「……いや、なんでもない」


 落ち着こう。

 冷静になれ。

 この国には身分制と言う物がある。

 王族、聖職者、貴族、騎士、魔導士。平民、裏社会、そして最底辺に物乞いと奴隷。


 街に暮らす子供ならば学舎へと通い、将来の職業を自由に選択することが出来るわけだが、当然能力の差や、努力と怠惰の結果で進路も決まる。

 平民以下は名目上、中流階級として一括りにされているが、その中でも序列のような物は当然あり、上流階級程線がきっちりと引かれているわけではないが、裏社会と呼ばれる地位に就く者は、救済院の質素で慎ましい生活に耐える忍耐も無く、怠惰で劣った者や素行に問題がある者が大半であると言う認識であり、それが事実である側面もある。

 理想と現実の狭間として、道を外れた者の受け皿となっているのが裏社会だ。


 明確な線はないが、とにかく独特の空気で隔てられている。

 裏社会の人間を疎ましく思うのは、真っ当に生きている者としては正常な反応であり、裏社会の人間も疎まれることを煽り、利用している節すらある。

 そんな裏社会の最下層で商品として取り扱われる奴隷に対して、治癒士の反応はなにもおかしくない。

 それが普通だ。


 むしろ民間でも魔導士は地位の高い扱いを受けている風潮を考えれば、穏便な反応だったとも言える。

 奴隷の世話を頼むなんて、俺の方が怒られてもおかしくなかった。


(そうだな……ムッとした俺の反応が変なんだよな)


 ルーナと一緒に旅をして来て、流石に親身になり過ぎている気もする。

 命懸けで命を助けられたのだから、それも仕方ないか。


(……んー)


 変な溜め息が出る。

 善良に生きる民なら、奴隷なんて極力目を逸らすのが最善であり、俺だってそうして来た。関わったってろくなことはない。実際ろくな目に合ってない。


(……そうなんだよな)


 最初は闘技場で見世物のような戦いをさせられて、望んでもないのに奴隷の少女を押しつけられた。

 道中では頻繁に頭のおかしな要求を迫られ、玉ついてんのか的な侮辱まで受けた――これは今もことあるごとに続いている。


 ゴブリン討伐に向かった村では、ルーナの腕を計ろうと剣を交えて敗北感を味わい、現場では命令を違えて待機せずに、戦地に乗り込んで来る始末。下手すれば弓で腹を射られてたぞ。


 その後、滔々と丁寧にお説教をするも、ルーナの根の深さを実感するだけの結果となった。

 聖典に書かれている初等部の学生に向けた逸話を色々と読み聞かせても、ルーナはそこからどうすれば俺の役に立てるかを考えているだけで、なにも変わらない。


 とち狂った貴族が追いかけて来たのだって、原因はルーナだ。

 ルーナを求めてなにもかも無くした憐れな男だった。

 ルーナと関わって以来、ろくなことがない。


(……だけど)


 いつでも、どこでも、どの機会でも、俺の意思で終わらせることは出来た。

 今すぐここから出て行けと言ったって、ルーナは淡々と従うだけだ。


 別れを惜しむ素振りも見せず、淡々と命令に従うだろう。

 奴隷と主なんて、そんな程度の関係でしかない。


(そんな関係でしかないのにな……)


 だからルーナと共に旅をすることを選んだのは、俺の意思だ。

 責任を持って東南都アペリスの孤児院へ届ける。

 道のりはあと僅かだ、それで終わりだ。

 決意を新たにする。


 まあ、流石にもう貴族が追いかけて来て禁呪持ちと戦いになるなんて以上の厄介事もないだろう。


「……自分で身体拭いて、手当も出来るか?」

「はい、大丈夫です」

「いや、そもそも着替えって、寝間着どうするんだっけ?」


 なんにも考えていなかった。奴隷服は燃えた。


「街中用の服で寝るのは駄目だろうしなぁ……」


 なにも考えずに用意していた古風で清楚な服では寝苦しいだろうし、寝間着にするには上等過ぎる。


「裸でも構いませんが?」


 頭を抱えて考える。

 べつに高い物でもないのだから、奴隷服を買って来ると言う手段はあるだろが、今から奴隷雑貨を扱う店を探しに行くのはまったく気が進まない。


「……とりあえず俺のシャツ貸すか。それで寝てくれ」

「よろしいのですか?」

「外に出なきゃいいだろ」


 白いシャツなので奴隷が着るのは厳密に言えばもちろん良くはないのだろうが、誰かに見せるわけでもなければ厳密に言うことでもない。

 裸で寝かせるよりは何倍もマシだろう。緊急処置だ。

 清潔にはそれなりに気を使う俺は、余裕を持たせてシャツや下着を用意している。

 鞄からまだ綺麗なシャツを取り出してルーナへ向ける。


「……」

「俺が責任持つから、ほら」


 迷っているルーナへ押しつけた。


「奴隷如きに新しいシャツは畏れ多いと思うのですが。ご主人様が一度着たシャツの方が望ましくないですか?」

「……俺がいやだよ。汚れてる分は明日まとめて洗濯屋に持って行くし」

「そうですか」

「ほら、さっさと身綺麗にして、治療してくれ」


 軟膏の入った小さな薬箱もルーナへ渡せば、素直に頷いてくれた。

 部屋を出て行くべきなのだろうが、億劫なのでもう一度ベッドへ戻り、背を向けて寝転ぶ。

 水音が響く。ウルトの町でお互いに足を洗い合ったことをなんとなく思い出していた。

 後で俺も身体拭こう。

 水音を耳に、しばらくして。


「着替え終わりました」

「あ、うん」


 寝入りかけていた所に声をかけられた。身体を起こしてルーナの姿を確認する。

 ぶかぶかの俺のシャツに包まれて、袖を大きく捲り、細い腕が伸びている。

 裾は太腿までは隠れている。奴隷服と変わらないくらい隠れているのでこれでいいだろう。

 たぶんよくないけど。いいとしよう。


「ボタ――」


 ンがちゃんと止められていない。

 奴隷の持ち物にはボタンをつけない取り決めになっていることを思い出した。

 自殺防止なんて名目だが、人間扱いしないための規定なのは誰でも知っている。

 たぶんボタンのある服を着るのはこれがはじめてだろう。


「えっと……」


 どう言えばいいのか。

 ボタンのずれを指摘するべきなのか、黙って俺が留め直してやるべきなのか。

 理の歯車は正解を求めて空回りする。


 悩んでいると、ルーナはシャツの状態に気づいたようだ。

 不器用にもったもったとボタンをかけ直している仕草が幼子のようで、なんだか気が削がれてしまう。


「ほら、貸して」

「申し訳ございません」


 子供にしてやるように、さっさと留め直してやった。

 上まで止めると息苦しいかと思い、一つボタンを外しているのだが、体格に合っていないシャツの胸元は 大きく空き、細い鎖骨と奴隷の首輪が非常に目立つ。やはり上まできちんと留めるべきか?

 ルーナはずり落ちる袖を捲りながら、肩に顔を寄せて薄目を閉じた。そのまま動きを止める。


「……なにしてる?」

「少しだけご主人様の匂いがします」

「辞めろ」

「はい」


 言えば、素直に肩から顔を離してくれる。


「それで……明日は消耗した道具とか買い揃えに行くから、その時にお礼をしたいと思うんだけど……なにか欲しい物でも考えておいてくれ」


 ウーヅンとの件で命を助けてもらったことには変わりないし、旅の道中でも色々と細かな雑務をこなしてくれたのも事実だ。

 ゆっくり出来るのはこの町で最後になることだし、たくさん餞別を持たせてやりたい。


「褒美を取らせると言うことでしょうか?」

「お礼だ。これまでの道中もそうだけど、昨日は本当に助かった」

「……」


 物凄く困惑しつつ恐縮している瞳だ。

 感謝の気持ちではルーナを委縮させてしまう。それではお礼になるまい。

 気兼ねなく要望を言って欲しい。俺は肩を竦める。


「わかった。それでいい。褒美を取らせるから、考えておいてくれ」

「なんでもいいんですか?」

「まぁ、俺の出来る範囲でなら」


 命を助けられた恩と言えど、当然ろくでもない要求なら却下するつもりだ。

 心の中で身構えて答えを待つ。


「では、よとぎを――」

「そう言うこと以外で」


 身構えていた甲斐があった。皆まで言わせず断わる。

 騙されたでも言いたげな瞳でじっと俺を見て――眉が少し上がる。


「ご主人様?」

「うん?」

「いえ……いつも辛気臭いお顔の色が特に優れないようですが、お加減の程はいかがですか?」

「ああ、なんか熱がある感じするんだよな」


 頭が熱っぽいのを目敏く気づかれた。


「なにかご要望がありましたら、なんなりとお申しつけくださいね」

「今はルーナへの褒美はなにがいいかって話だろ」


 真剣な声に苦笑すれば、そうだったとばかりに思考を巡らせる。

 そして、思いついたのだろう、顔をあげて頷き、シャツを大きくはだけさせる。


「お、おい?」


 肩を大きく露出させ、せっかく巻いた包帯を解いてしまった。

 包帯の下から現れた深い傷。


「この傷を残すことをお許し頂けないでしょうか?」

「は?」


 なんだって?


「これはご主人様のお口で、直接わたしの身体につけて頂いた傷です。ご主人様の歯型がついていて、ご主人様からもらった印のように感じられるので残しておきたいと思いました。奴隷の身体に自分の証を刻むのを好まれる方も多いんですよね?」


 頭を抱えて、なんとか言葉を探す。


「……不気味なことを言うな」


 重いし、怖いわ。

 ルーナの肩の傷は深く、歪に肉を抉っているが、よく見れば確かに俺の歯型だ。

 まだうっすら血が滲んでいた。


 今ではもう廃れてしまった奴隷の印と言うあれか。家畜の識別と同じ。

 確かにこんな綺麗な肌に自分の証を刻み込むのは、所有者の独占欲と嗜虐心を大いに満たしてくれることだろう。

 自分がつけた傷を眺めながら、そんな感情に一定の理解を示す。


(そんな感情もわからんでもないが……)


 小さな尻でも揉みしだいていればそれなりに楽しいだろうと言った類の話だ。

 それ以上に、痛々しい傷をみていると申し訳なくなりこちらの胸まで痛くなって来る。

 欲望を理解した上で、自分で考えて答える。


「駄目だ、ちゃんと治療してくれ」


 歴戦の剣闘士達ならば大きな傷は激闘を生き残った証として、誇りに思ったりもするのだろうが、普通の市民にはわからない感覚だろうし、俺も怪我なんてしない方がいいに決まっていると思う。

 ついでに女の子の肌は綺麗な方がいい。


「はい」


 やや残念そうな雰囲気だが素直に頷くルーナ。

 それでなくとも、疎まれ虐げられ、日常的に暴力を振るわれることも少なくない奴隷の肌がこんなにも綺麗なことがどれだけ恵まれていることか。

 軟膏だけでは痕が残る不安があるので、やはり治癒魔法を使って貰うべきか。


(……あとで改めて手配するしかないか)


 まったく格好つかないが、格好など取り繕うところでもないし、既に格好を気にするまでもない無様をやらかしている。

 治癒士の些細な態度にイラつき、子供のような癇癪を起こしそうになって追い出た挙句、今現在ルーナの傷が治癒出来ずに困っている。無様だ。

 まったく感情で動くとろくなことにならない。


「……痛かった?」


 奴隷の首輪があったおかげで頸動脈を食いちぎらずに済んだのを素直にありがたいと思えないのは、それが本末転倒な結果論だからだろう。

 奴隷なんてやっていなければ、こんな危険もなかった。


「はい。ですが痛みは慣れていますので、気になさらないでください。それにご主人様から痛くして頂けるのは、奴隷として謹んで受けるべきだと考えます」


 相変わらず歪んでんなぁ……。


「こんな風に血を流したのは、はじめてでした。わたしははじめてがご主人様でよかったと思います」


 ルーナは不穏過ぎる響きの言葉を、瞳を緩めながら言う。

 回避と防御に長け、調教の責め苦もそれ用の鞭と雷撃魔法で行われ、誰にも触れさせずに育ってられたのなら、そうなるのか。

 顔が熱くなるのは、ルーナの言葉を深読みし過ぎているせいだとわかっていても、熱い物は熱い。


「もっと傷をつけて頂くと言うのはどうでしょう? わたしはご主人様の物だと言う証をこの身に刻んで頂きたいです」

「おまえは人の話を聞いてないのか?」


 心底疲れた視線を向ける。若干の恐怖も含まれていたかも。

 先人達の働きかけによって、奴隷に所有者の証を刻み込むなんて醜悪な風習をなくす代わりに奴隷の首輪へと変わったと言うのに――それでも十分悪趣味だが。

 そんな取り返しのつかない、未来を縛るような物、絶対に残せる訳がない。

 そんなことをしたら、こちらとしても責任取る以外の選択肢がなくなる。


(……それを狙ってるのか?)


 責任を取れと迫っているのだとしたら……治癒士を呼んだ上で、更になにかお礼とは別に許しを請うのにお詫びするのが筋なのか?


「ご主人様?」


 訝しみ、冷や汗を浮かべながら思索していると、きょとんと首を傾げられた。

 微塵もそんなつもりはなさそうだ。

 ルーナはすでに平常運転のようで、相変わらずおかしな道を平然とした顔で蛇行しながら爆走しているだけらしい。


「ではお仕置きをして頂けないでしょうか? 尻を叩くだけなら傷が残ることはありません。真っ赤になるだけです」


 ルーナは包帯を巻き直し、シャツを正して背中をこちらへと向けて来る。

 と言うか尻か。シャツの裾がすっぽりと小さな尻を覆っている。

 黒革の下着が白いシャツに透けている。


「……言ってることがもうよくわからん」


 なんの話をしていたんだっけ。

 おまえにお礼をしたいって話だよな?


「わたしはご主人様の物であるこの身体に傷をつけてしまいました。傷つくなという言いつけを守れませんでした。どうぞお仕置きしてください」


 肩越しに俺を見ながら、軽く目を伏せている。


「そんな不可抗力は仕方ないって」


 しかも俺がつけた傷だ。

 肩以外でも小さな傷はついている。

 そのどれもが一瞬でも反応が遅れていたらそこから両断されていた跡だと思うとぞっとしてしまう。


「それに、下着ですが貴族の人に見られてしまいました」


 火に包まれて服が燃えたんだ、それも仕方ないだろう。


「……」


 我欲に歪んだろくでもない貴族だったが、なにもかも投げ売ってルーナを求めた行為はどう美談として言い繕っても白々しいし、とても褒められたものでもないし、まったく報われて良いことでもないのだが、おそらく俺が考え得る以上の金も労力を費やしたはずだ。

 それくらい見せてあげても、あの世への手向けにはなったのでは――


「……」


 頭ではそんな風にぼんやり考えているのだが、脳裏に浮かんでいるのは狂暴な感情だった。

 ちょっとぶっ殺して来る。

 そんな言葉が出かかって、ウーヅンの首が水平に飛んで行った光景を思い出し、既に死んでいることにほっとしている自分に恐怖と罪悪感を覚えた辺りで、脂汗が背中に伝って我に返った。


(……いや、いやいや……落ち着け……)


 あれだけ激しく怒り狂った上、人死にを目の当たりにしたからだろうか、気が昂ぶったまま静まらない。まだ熱が身体の奥で燻っているような感覚。

 心臓がざわざわとして身体が熱い、だるい。


(本当に風邪でも引いてるのか……?)


 枕に顔を埋める。熱い。


「ご主人様?」

「なにか、品物でってことで……勘弁してくれ」

「はい」


 素直に返事をしてくれるルーナ。


「それでは、この服をこのまま褒美として頂けないでしょうか。眠る時以外は着ませんので」

「服ぅ?」


 枕に顔を埋めたままなので変な声が出てしまう。


「はい。奴隷が袖を通した服をお返しするのは心苦しいです」

「……ん、んぅー?」


 横目でルーナを見上げる。

 ルーナは両手を小さく上げ、だぼだぼな袖を手で掴みながら俺を見ている。

 そんなこと気にしないから返せ、と喉まで出かけ謎の引っ掛かりを覚えて言葉は止まる。


(女の子が一度着たシャツを着るって、なんか抵抗ある気も……)


 いい加減気にし過ぎか。

 余っている袖を掌の中で押さえながら、両腕を小さく折りたたんでいる格好は仔猫のようで可愛いのだが、じっと見ているとなんだか頭が痛くなって来た。


「いや、もっとちゃんとした物を用意するから。服は返してくれ」

「はい」


 着ているシャツに視線を落とし、表面を軽く大切そうに触ったりしている仕草が妙にいじらしい。


「……ちょっと外の空気吸って来る……留守番頼むな」

「はい、いってらっしゃいませ。ご主人様」


 重い身体を起こし、ルーナの見送りを背に宿を出る。

 夕暮れの町並を歩き、あまり食欲もないが夕食の調達をしつつ、他の治癒士のあたりをつけたが、民間で治癒魔法を使える人は他にはいないとのことで、格好悪く頭を下げもう一度依頼し直したところ、笑って快諾して貰ったと言う、情けなくもありがたい一幕があった。


 もちろん俺のシャツを着たルーナを見て、真っ青な顔でなにか言いかけた言葉を飲み込み――言葉をなくしていただけかも知れないが――事情の説明を待ってくれたのにも感謝した。


 そして次の日の朝。

 熱が出てなかなかベッドから起き上がれなかった。





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