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15話。東南都アペリスまでもう少しの野営地。凍る灼熱。



 横目でルーナを見る。

 今は旅の道中なので奴隷服を着ている。


「……」

「……」


 いや。いやいやいや。

 もしかしたらどこぞの間抜けのように、その服が持つ醜悪な意味を知らず、奴隷が着ることが出来る一番上等な服を家臣に買って来させただけかも知れない。

 有り得る話だと思いたいと祈りながら、俺は慎重に言葉を探しながら口を開く。


「……ウーヅン様は、奥方様を早くに亡くされているのですよね?」


 若干の間を挟み、息を飲んで続ける。


「どんな風に亡くなられたんです?」

「なんだ、これが何か知っているのか?」


 あっさりと認めた。

 ウーヅンの手元で、奴隷の死体を着飾るための屍衣がはためいている。


「……ええ、まぁ」


 ウーヅンの言っていることは、いくら立派な理想だろうと、結局は我欲が出発点なのだ。奴隷を憐れに思っての考えではなかった。


「あの女は私の一挙一動に逐一口喧しい女でなぁ」


 屍衣を鞄にしまいながらウーズンは続ける。


「ある日、かっとなって首を締めたらそのまま、な」


 あえて些事のように言っているのか、本心からの言葉なのか、素っ気なく言い切って肩を竦めた。


「物言わぬ女の骸を見下ろして悟ったのだ、こんな世界で醜く存り続けるよりも、美しい物は美しいまま手折ってやることこそが救いだと……」


 ウーヅンの求めている物はルーナの幸せでは無く、自分の欲望を満たす為の生贄だった。


「私が救ってやるぞ、ヘルニナーミ」


 興奮気味に言うウーヅンの視線から、ルーナを隠すように立ち位置をずらし冷めた目で見上げる。


「それにしても巡礼士風情が裏社会の造詣に深いとは意外だったな。巡礼の旅は俗世に関わらず、祈りの日々に生きるのではなかったのか?」

「出来ればそうしたいんですけど……巡礼騎士ですので、それなりに面倒事に関わったりもするんですよ」


 自分の我侭を綺麗事で飾った、単なる醜悪な詐欺だった。

 単純な嘘だった。詭弁で誤魔化すよりも程度が低い。

 知能の低い魔物と同等だ。


「ふっ、所詮お前が見ている人の世など上辺だけだろう……聖教会の言う綺麗事こそ、醜悪な世を偽善で飾り、無用な混乱をもたらす詭弁であり、その詭弁こそ人の醜悪さを加速させていると言うのに」


 ウーヅンは滔々と平和の世の醜悪さを語る。

 混沌の時代を経て、秩序と安寧を得た人々は、更なる安楽を求めはじめたのだと言う。

 弱者救済を悪用し出したのは、救済の名の元、人の善意と弱者を食い物にする聖教会が走りであったことを。


 奴隷解放を提唱する聖教会の真意は、救済院への支援を義務化させて弱者を弱者のまま食い物にし続ける制度を確立しようとしている、裏の事情がある。

 闘技場は狂暴な気性の者や怠惰な連中を押し込める場所として有用なのに、難癖をつけて自分達で弱者を囲い込もうと画策していると、聖教会の邪悪さを語る。


「誰かの欲望を叶えれば、また誰かの別の欲望が湧く。その繰り返しだ。永遠に終わらぬ業火に焼かれることなる。そんなことは聖教会こそ解かっているだろうに……救済を商品にするのに、一番効率の良い方法を思いついたのだろうな」


 ウーヅンは鼻で嗤う。

 混沌の時代から古の時代を経て、安寧の時代へと移り変わり、代々有益な功績を成した者の末裔が貴族として土地を治めて来た。

 その土地で商いに営む商人組合をまとめる役割を得てからは、聖教会と貴族の力関係が拮抗しており、街によっては貴族と商人の方が力を持っていて、聖教会の教えが蔑ろにされつつあるなんて噂も聞くが。


「自分の手でなにかを成したことのない、力の無い弱者こそ、成功者の苦労も知らず悪態を平気で吐く。我欲を自制する術も知らず怠惰な生き様を晒し、救済を求めて傲慢な要求をどこまでも無遠慮に肥大化させて行く生き物だ。そんな連中を人間扱いなんてしてやる必要がどこにある? いいや、そもそも多くの者は聖教会の教えを守り生きているのだ。皆、子供の内から未来のことを考え、不運を避ける努力をしているのだぞ?」


 唐突に最もなことを言い出した。


「だと言うのに、分相応な夢を見て道を踏み外す者が年々増えて行くと言うのはどういうことなのだ? 昨今の聖教会が躍起になって扇動しておる自由な選択とやらの影響ではないのか? 自由を掲げて分相応に道を踏み外し、怠惰に流される、そんな連中を、日々努力している者達の手で救済する必要などあるのか?」


 確かに自由の意味を履き違えれば、道を誤る者も出るだろう。俺のように。

 そう言う自業自得な連中はともかく、話はルーナのことだ。


「避けようの無い不運と言う物もあるのでは?」

「ハッ、生まれの不運! そんな物を救済する為の善意こそ、真っ先に悪用されていることも知らぬか! 不運を武器として掲げ、救済を盾に要求は過剰になり弱者と救済の定義をどこまでも広げて心優しき者から支援を強請る。拒否すれば拒否する側を悪魔だと罵りおる、どこまでも欲望を駆り立て食い物にする醜悪な偽善だ!」


 声を荒げるウーヅン。


「売られて来る子供とて例外では無い! 我が子を奴隷商に売るなんてことをすれば、どうなるのか、考えの足らぬ愚劣な行いだ!」


 貴族にあるまじき行為だ。剥き出しの感情を乗せて叫び続ける。


「そんな愚行に手を染める愚か者の救済などする前に、身近な親族同士で上手く行くよう、互いに努力し気を回し合い、嫌事も我慢し合い互助し合っている善良な民の方こそ、少しでも楽になれるよう尽力するのが貴族の、上に立つ者の務めではないのか!」

「……」


 なんとも反論しようもないが、それでも、その上で、我が子を売るなんて愚行をせざる得ない事情があったのだと思いたい。


(だけど……)


 原因があり、結果があり、決まりが出来た。

 因果応報の流れ。

 その流れで考えれば、そうせざる得ない事情があり、子を売ると言う結果になり、奴隷制度が活用されている……つまり現存している奴隷制度は必要だから存在していると言うことになるのだろうか?


「不幸に見舞われぬ為の努力をして来た者が、怠惰と堕落と愚かな欲望の果て、困窮している連中を救済するのに国費を回すことを快く思わぬのは当然だろう?」


 税を納めていない、奴隷や物乞いは公共の場で嫌悪される。

 一応そう言う声は聖教会が諫め嗜めるようにと布教しているが、声を押さえつけるだけでは余計に不満を煽るだけで、原因が解消されない限り根本的な解決も見ないだろう。


「同じ生まれの不運を背負っていながら、救済を充てにするでもなく、当人の努力で身を立てている者もおるのだぞ? 不運に負けず気高く立っておる者からも、毎日汗水垂らして苦役をこなしている善良な民からも、安くもない税を徴収しておるのだぞ?」

「……」


 ウーヅンの言葉を反芻しながら黙考していると、興が乗って来たウーヅンの語りは滔々と続く。


「そんな真っ当な感情を抱く民を非情だと非難し、甘言と妄言で弱者を堕落させ更なる弱者を生み出し食い物にする薄汚い偽善者共が……奴隷制度を廃止して、闘技場を縮小してそんな連中を救済するのに国費を使えだと? 図々しいことを言うな、奴隷として衣食を保障して過酷だろうがなんだろうが仕事を斡旋してやるだけでも十分だろう! 救済院でこき使うか闘技場にぶち込んでおれば良いのだ!」


 救済の名の元に弱者で有り続けることを許され、永遠に飼い殺される。

 永遠に弱者のままで居続けることを許容され、堕落して行く。

 それはきっと、奴隷と対極にある、なにも出来ないままの不自由な生き方だろう。


「そもそも奴隷制度を悪だと言うのなら、高尚な理想を掲げる聖職者連中の身銭を切ってや救済してやれば良いのだ、寄付と布施で独自の財力を持っている連中には可能なはずなのだ。国法を動かして自分達の懐は痛まぬよう画策しておる……弱者を食い物にするために、日々を精一杯生きている民まで巻き込むな! 騙すな! 奴隷制度や闘技場刑を無くせば、連中は確実にもっともっとと傲慢な要求をするに決まっておるだろう! 日々を堅実に生きる民が、そんな偽善にどこまで付き合えば良い!」


 ウーヅンは吼えてから、自嘲気味に嗤い顔を両手て覆った。


「節度も礼節も自制も知らぬ、怠惰のままに生き困窮している連中へ、救済の前にやることがあるだろうと強く糾弾すれば、私の方こそを悪魔だと罵りおる……」


 だいぶ話が逸れてきているのは分かっているが、口を挟める雰囲気ではない。


「……いいや、いいや……人の世に自由など有りはしないのだ、人は誰しもこの醜悪な運命に囚われ続ける宿命を背負っている……どんな世でも、どんな場所でも、どんな時代でも欺瞞と偽善はつきまとう……だからこそ真実は命のやり取りの中にしかなく、死の解放こそが唯一の救済だと、何故分からぬ……」


 顔を覆う指を炎のように蠢かせながら、月夜に震えている馬上の姿はなかなか絵になっているとは思うが、語っている内容は地獄絵図のそれだった。


「各々が自由の名の元に、各々が勝手な言い草で己の欲望を追い求めるのならば、私が望みを叶えることを誰が咎めようと言うのだ……何故貴族であると言うだけで、なにをするにしても逐一糾弾され続けなければならぬ……だれがキサマらの後始末に奔走しておると思っておる……もう皆やりたい事をやればやればよかろう……故に、唯一の真実は力と力、命のぶつけ合い、強者こそが真実であり死こそが唯一の救いだ……美しいまま、もう誰もなにも喋るな……」


 同じような言葉をぶつぶつと繰り返している。

 ウーヅンの言うことは、人の世の一面を確かに言い表しているのだろう。

 短絡的な武闘派の貴族かと思っていたが、純粋な人だったのかも知れない。


 今、その瞳は泥のように濁りきっているが。

 一理も二理もあるウーズンの言葉に深く頷いてから顔を上げ、控え目に口を開く。


「いや、まあ、その辺は俺の知ったことじゃありませんが……」

「……」


 音がしそうな程の視線で睨まれるが、不思議と恐怖は無い。


「俺は聖教会に所属しているから、聖教会の教義に従っているだけですよ?」


 朦朧としながら本音を吐露している相手へ、俺も気取らずに本音で応えて見ようと言う気になった。

ウーヅンは呪うような目で俺を見いる。俺は軽く肩を竦める。


「人が作る世なんだ、そりゃ完璧なんて無理に決まってます。聖教会の教えは当然理想論の綺麗事です。それを否定するなら、誰の理想に従えば上手く行くんです? そっちの綺麗事で、今よりも良くなる、今よりも悪くならないと、確実に言えるんですか?」


 そんな綺麗事があるのなら喜んでそっちに宗旨替えさせて貰いたい。


「間違っているのは、綺麗事で教えや善意を悪用している連中でしょう? そこを間違えると、また話がおかしくなる」

「キサマとて悪魔憑きとして人の世から虐げられ、運命に屈服している! それは奴隷として生きることとなにが違う!」

「いや、なにもかも違うでしょう……」


 奴隷制度の必要性はともかく。

 現状において、奴隷の待遇改善や地位向上は必要だ。それだけは確実に言える。


「一応、俺自身が聖教会の教えを納得しているから所属し続けているんですし、俺のような禁呪持ちでも生きる道があるだけもありがたいもんです」


 もちろん旅暮らしの中、日々の不満はたっぷりあるが、今の生活を辞めろと言われても現実問題、禁呪持ちな以上なかなか難しい。

 どこか人気のない山奥で魔物と縄張りを争いながら暮らすか、旅に生き人の世の外側に居させて貰うか、どちらを選ぶかというなら後者だろう。


「謂れの無い差別を受け、迫害される身分のままで良いと……そう言うのか?」

「いやいや、謂れは十分ありますよ」


 苦笑したかったが、先日、自分の手で骨を砕いた相手――まだまったく治ってはいないだろう――を見ながらでは自嘲にしかならなかった。


「聖教会の教えは概ね正しいと思っていますし、俺は自分が持つ魔法の危険性も理解した上で今の暮らしを受け入れるだけです」


 どんな生まれでどんな暮らしだって、相応の苦労がある。

 誰かの理想の世界になれば、その誰か以外は結局抑圧されて苦しむだけであり、万人が納得する完璧な世なんて有り得ない。


「己の理性で秩序を優先することと、奴隷として虐げられることは全く違います」


 完璧な世が有り得ないからこそ、人の世としての理想を定めなければ秩序は失われ、人の心は惑い続ける。

 だからこそ、人同士の妥協案として依るべき物が、枠組みが必要になる。


「欲望には果て無いからこそ、基準として聖教会の教えが出来たんです」


 混沌の時代があり、安寧を求めた結果、秩序が出来た。先人の教えが教訓となった。

 こんな話はルーナにもしたが、そんなに難しいことなのだろうか?


「聖教会の言う基準で救われぬ者もいる。その事実はどうするのだ?」

「聖教会の基本は、節度を持て。家族や隣人と仲良出来なくて、どうして他人と上手くやれよう。享楽に溺れず未来の事を考えろ。と、至極単純なこと言ってるだけでしょう」


 そして、それは人間同士が共に生きる上で揺らぐことのない、揺らがせてはいけない根底にある正しさだ。


「その基本さえ守れば、多少のことは大目に見てくれるでしょう?」


 俺だってそんなに清廉潔白ではない。と、ここでは口にしないくらいの不誠実さは持っているし、それをやましく思う良心をしっかり持っていれば神様も大目に見てくれるだろうなんて考える程度の信仰心だ。


「闘技場だってそうです。奴隷を剣奴として舞台に上げるなんて行き過ぎてるって話で、剣闘士同士や暴力沙汰が好きな連中が争うことまでどうこう……まあ、言ってる派閥もあるんでしょうね」


 その辺は政治の話しが絡んで来る話か。

 貴族でも聖教会でも、内部で派閥がいくつか分かれているのは知っているが、内情まで詳しくない。

 興味もない。どうせろくでもない話だ。


「少なくとも、本人の意思じゃないのに生き死にの場に上げるのは駄目でしょう」

「奴隷の首輪を嵌めてやらねば自らなにも出来ず、怠惰で、無力で、傲慢な連中をどうする? 奴隷としてしか生きられないような連中はどうすればいい? 騎士を目指すも挫折するような素養の者を、闘技場に押し込めて置くのが悪だと言うのか?」


 ウーヅンは俺を見ているのか、いないのか、呪う声でうわごとのように漏らす。

 奴隷としてしか生きられない。その言葉でルーナを意識する。

 とりあえず今はまだ指示通り、音も無く静かに控えてくれている。 


「その手の連中の行き場を無くせば裏社会へと流れ、人の多く暮らす都市では特に治安の悪化が進むようになる。そんな連中を救済するのに、更に無辜の民への負担が増すのだぞ? 放置も出来ぬ、救済も切りがない。だから闘技場に押し込めておくのが合理的だ、何故わからぬ」


 ルーナも、もしかしたら闘技場で暮らしている方が楽だったのだろうか。


(……それでも)


 闘技場から俺と共にここまで旅をして、上手く行かないことの方が多くても、それは未来へと続いている道だ。無駄にはならない。

 我欲の為じゃない、探求の道でもない、平穏な道を目指したって、苦労や失敗は十分ある。

 それでも、平穏へと続く道を目指すなら、誰しもいつかは角も取れてそれなりに歩けるようになる。

 その為の平穏なのだから。


「人は暴力に酔い痴れるのだ。こんな単純な話ですら噛みき都合良く詭弁を弄して私を批難するような連中相手のどこに正当性があり? どこに理性がある? あるのは救済で稼ごうとする醜悪な欲望を綺麗事で誤魔化しておるだけだろう? そちらの方が邪悪な感情論では無いのか? 私を悪だと非難するなら、先ず解決策を示せ、無辜の民に迷惑をかけない形でなければ認めぬぞ?」


 どれだけ様々な道があろうと、たどり着く場所は、選べる物は、出せる答えは限られている。

 ならば、少しでも後悔や失敗を減らす為、先人の轍を良く参考にし、同じ失敗を繰り返さないようにするのは、賢さと言う物だろう。


「いや、だから無理矢理闘技場に上げるのは行きすぎだろうって話で――」

「闘技場を潰して、私のような血を見ることでしか、生き死にの場でしか心躍らせることの出来ない性質の人間をどう救済するのだ? ヘルニナーミのような高い戦闘技術を身に付けてしまった狂人が戦いの場以外のどこで生きて行くのだ? 闘技場のお蔭で救われておる者もいるのだぞ?」

「ですから、剣闘士同士で合意なら……それに、死は取り返しがつかないから、未来もなくて、やっぱり推奨は出来ないと……えーと……」


 恐ろしくはないが、虚ろな目で呪詛のような剣幕に若干腰が引ける。


(それに……)


 もしかしたら、ウーヅンの言ってる事にも、一理あるのかも知れない。

 闘技場のお蔭で成り立っている産業も少なくは無いだろう。

 多くは裏社会の者だが、裏社会があるお蔭でまだ社会の枠組みにぎりぎり入っていられると言う面もある。


 勿論、肯定的に捉えて全員が裏社会への道に流れてしまえば、どうなるかなんて言うまでもないのだが、裏社会でしか生きられないような性質の者も確かにいるのだろう。

 完璧な正しさなんて、滅多にありはしない。


(そんなことは知っている……)


 だからこそ、俺は基本の部分さえブレなければそれで良いと思っているし、大切にしなければならないと思う。

 選べる物は、その手に収まる物だけなのだから。


 ウーズンの言ってることも、やってることも、その基本から大きく外れている。

 だから認めない。

 俺はもう取り合わずに頷く。


「俺は巡礼騎士です。治政に携わってる立場ではありません」

「ハッ、貴様に私の苦心は分かるまい」


 薄暗く鼻で嗤われた。


「ええ、貴族としての心労は、俺なんかには想像つかない程大変なんでしょう」


 ウーヅンもまた旅に生きる苦労も知らないだろうし、過酷な旅暮らしの中で巡り合う小さな幸運の有難さも知らない、忘れてしまったのだろう。


「俺が言っていることは、とても単純なことです」


 毅然と言い返す。

 結局、ウーヅンも貴族としての重圧と責務に対する報奨である、権力という名の力に慣れきってしまい、もっともっとと求めているだけに過ぎない。

 行き過ぎを嗜めてくれる人がいただろうに。


(もしくは、振り回されてるのか)


 苦しんでいるからといって、他人の死を見て狂喜するなど、赦されるはずがない。

 行き過ぎている。慎むべきだ。こちらの都合で口を噤む小賢しさなんかとは訳が違う。

 貴族として権力を我侭に振うことを自由だと勘違いしているから、己を律することを奴隷のようだなんて大袈裟に考えてしまう。


「俺は全ての奴隷を救おうなんて言えません」


 奴隷制度の是非については、聖教会のお偉いさんや、貴族や商会の地位ある連中同士でやってくれ。

 それが民の上に立ち、税から高給を得て美味い飯を食ってる連中の責務だ。

 責務から逃げ出すにしても、もう少し穏便にしてくれ。


 一応巡礼騎士として、聖教会側に所属し、民を守りこの国の治安を守る立場として、俺個人の考えとしても、我欲を綺麗事で隠したまま混沌へと向かうのではなく、人の世の安寧を未来へと繋げて行ってくれと願うばかりだ。

 それが出来なければ、混沌の先で権力者こそ民衆から死刑台へと吊し上げられることになるだろう。


 ウーヅンが言うように、確かに救いようもない自業自得な奴隷や、弱者を食い物にする悪徳聖職者もいるのは確かなのかも知れない。

 そんな者への対応は想像するだけでも苦心で頭がおかしくなりそうだが……俺が言いたいことは、そんな難しいことじゃない。


「知り合ってしまった女の子くらい、どうにかしてやりたいだけです」


 俺が確信を持って言えることは、ルーナのように真面目で一生懸命な良い子が、奴隷として虐げられるなんてことがあっていいはずが無いだろう、ふざけるな。と言うことだ。


(普通の人は、手の届く範囲だけ守ればそれでいい)


 父の言葉を思い出す。

 我欲を控え、節度を持ち、身近な人同士で助け合う。

 それを誰もが成せば、人の世に恒久的な平和が訪れる。


 そう常々思っているが、そう上手く行くはずがないのも分かっている。

 青臭い理想論でしかないのは分かっているが、俺の手の届く範囲ではそうする、そうしたいと思う。

 それが俺が自らを由とする、自由な意志だ。


(結局……)


 馬上の貴族は、高い位置から平民よりも広い範囲が見えているのに、その全てを守れる強さが無い故に苦しみ、なにも選べず、苦しみを死と言う形で永遠に放棄することを癒しとして選んだ。

 聖教会が絶対に正しいなんて言わないが、概ね正しいと思っている俺にとって、その考えは微塵も賛同出来ない物だ。


 だからウーヅンとの道は交わらないし、ルーナを手中に収めようと絡んで来るなら、全力で否定する。

 その辺も声に出して指摘してやろうか考えたが、貴族相手に出過ぎたことかも考えるし、そこまでしてやる義理もない。

 堂々と胸を張り、罪人の申し開きを聞く態度で続く言葉を待つ。


「……御託はいい。大人しくヘルニナーミを私に引き渡すか、抵抗してから引き渡すか、選べ」


 無言で睨み合い、憐れみすら覚えて来た頃、ウーヅンは幾分冷静さを取り戻したようで、尊大な態度で話を戻して来た。

 俺は答える。


「そんな物騒な服を用意している相手には渡せません」

「黙れ、渡せ。貴様のような輩が持っていても、使い道はないだろう。私ならもっと上手く使ってやることが出来る、あの奴隷商がやっていた滑稽な売り方よりも、もっとヘルニナーミを輝かせることが出来る。色々と計画があるのだ。私の言葉に従っていれば、最終的に全ては救済される」


 そして最後は首絞めて殺すんだろ。

 危ない妄想と言うのだ、そう言うのは。

 指摘したかったが、いい加減話を終わらせる為に俺は背筋を伸ばす。


「一応ウーズン様の仰っていることも一理あるかも知れません。その理に合わせて、こう言いましょう」


 建前だとしても、口にするには躊躇してしまう。

 息を飲み込んで、吐き出す心地で一息に喋る。


「この子は、俺の奴隷です。今はまだ、俺の物です。どれだけ金を積まれようと、誰かに譲るようなことはしません。人の持ち物を強奪するのは、例え貴族様であっても罪です」


 相手の論理で真正面から否定してやった。

 ウーズンは呆気に取られたような顔で正気に戻り、言葉をなくして黙り込む。


「この件は聖教会に報告させて頂きます」


 流石に色々と聞き流せない話もあった。

 憐れな貴族に言い切り、長剣の鞘に片手を添える。

 少し外側へと開いて剣を強調するが、柄には手をかけていないことを示し、引き下がれと無言で表す。


「そうか」


 その呟きはどこか嬉しそうに聞こえた。

 怪訝に思えば、手でお付きの者へとなにか合図を出している。


「生死は問わぬが、原型だけは留めるようにしろ。生け捕りが出来ればいつもの倍、褒美を取らせると伝えろ」


 お付きの者へ言いつけた後、泥のような眼差しで、俺を馬上から見下ろした。


「これもまた一興だ。そなたの持つ狂戦士の力……あれは美しい力だなぁ。余計な制御など不要だ、存分に振るって見せるがいい」

「は?」


 これまでの会話の中で、最もウーヅンの精神状態が心配になった。

 狂化魔法に憧れるようなことを言われ、激しい侮辱に慟哭を感じる。

 権力と言う、使いこなせない力を持った所為で苦しんでるのはお前も同じだろう。喉まで出かかったが、言うだけ無駄か。言ってもわからないだろう。


 すっ、と冷静になる。

 お互い解り合えないことを理解した。もう言葉は要らない。

 ウーヅンの言う通り、力こそ真実なのも事実なのだ。

 無力では、この場で殺され奪われて終る。


 下がって行くウーヅンを見送れば、間にお付きの者が馬を進めて来る。

 お付きの者は下馬して、ジャガイモでも詰まっていそうな麻袋を鞍から降ろした。

 地面に置き、紐解く。中に入っていたそれは――


(……死体?)


 微かな布音を立てて麻袋の中から出て来たソレを視界に収めた瞬間、反射的に浮かんだ発想はろくでもなかったし、よく見ればもっと酷かった。


「ァ……ハァ……ハァ――」


 奴隷の首輪をはめた赤髪の女の子がうつ伏せに倒れ、手足を投げ出して地面に転がっている。

 長くてぼさぼさな赤い髪が血のように身体に纏わりついているのは、首が座っていないせいで、手足の先にも力が入っておらず、地面に倒れ込んだまま肩と腰の力だけでうごめき、微かな呻き声を漏らしている。


「ヘルニナーミの代わりにと寄こして来た失敗作らしいがな、なかなか面白い奴隷だ」


 ルーナよりは歳上そうに見えるが、それでも数歳の違いだろう、まだ若い娘だ。

 首を地べたに転がし、虚ろな様子で呻いてる横顔に無機質的な悍ましさを覚えて目が離せない。

 よく見れば整った顔立ちではあるので、きちんとすれば美しく着飾ることも出来るだろうに。

 俺は冷静な心地で赤髪の奴隷を見下ろしてから、ウーヅンへと問う。


「これで、満足出来ないんですか?」

「こんな濁った目になんの価値も無い。私は死に際でも揺らぐことのない、信念を貫く瞳を、また見たいのだ」

「そうですか」


 また。

 つまり奥方様はそんなお方だったのだろう。

 確かに、御託はもういい。

 長剣の柄に手をかけた所に、お付きの者が身を屈め、赤髪の奴隷に繋がっている鎖を拾いながら口を挟んで来た。


「こいつは触れる物全てを灰塵と還す、壊炎魔法を持っている。然るべき場所に持って行けば禁呪に認定される代物だ」

「……」

「壊炎は纏鎧魔法すら貫く。勝てない相手へは相討ちを狙うように躾けてある。元々、対ヘルニナーミ用に作っていた奴隷だ」


 万が一、強過ぎるルーナが反旗を翻したときの保険として準備していたと言うことか。


「大人しくヘルニナーミを渡せ。無駄な争いは望むところではないだろう」

「それで、ルーナもそんな風にするのか?」


 奥方様のように、目の前でのたうっている赤髪の奴隷のように。

 瞳を輝かせながら、ちゃんと奴隷がしたいなんて言ってるルーナを、更に弄ぶのか。

 長剣の柄を握り、静かに抜き放った。


 なぜだろう、先程からとても心が穏やかで、これから戦いが始まるとはとても思えない心境だ。

 俺は冷静に用件だけを伝える。


「お前達こそ引き下がれ。一秒でも早く俺の目の前から消え失せろ。ろくでもない我欲を正当化するな」


 理想は正しい。その正しさを否定したってどうにもならない。

 間違っているのは、理想の正しさを都合よく歪め、悪用し、人を堕落に誘う連中だ。


(せめて平穏に生きたいと願う人々の足を引っ張るな)


 お付きの者は小さく舌打ちをする。

 恥知らずにも迷惑そうな顔で声を潜め、そう言う訓練でもしているのか、囁くように発せられた声はしっかり俺の耳に届いた。


「貴族なんて連中、適当に煽てて甘い汁吸うのが利口と言う物だろう?」


 どうやらウーヅンへの忠義は演技だったらしい。

 つくづく短絡的で視野狭窄に陥っている貴族なのか。


「こいつを手にしたウーヅンが、まさかこんな行動に出るとは想定外だった。こちらの不手際だ。代わりに同じくらい希少な奴隷を用意するから、それでどうか丸く収めてくれないか?」

「……」


 同じくらい希少な、と来た。

 どうやら奴隷商と繋がりがある者らしい。知ったことじゃない。

 俺はもう言葉は返さず、長剣を構えた。


 奴隷を物としてしか見ていないから、ウーズンの行動も想定出来ないし、俺が剣を構える理由も理解出来ないのだろう。

 お付きの者は迷惑そうな表情のまま蠢く奴隷を見下ろし、言う。


「……カナリア、敵だ。殺せ」

「……」


 カナリアと言うのか。

 蠢く赤髪の奴隷少女――カナリアは顔を上げ、虚ろだった瞳に焦点が戻り――


「イヤァァァアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――」


 満月の下、絶叫が響いた。


「いやなの! もういやっ! いあっぐ!――――――」


 悲痛に叫びながら、肩だけで遠くに逃げようとするカナリアを、お付きの者は手にした鎖で無理矢理引き寄せる。

 仰向けになり尚もじたばたともがくカナリアの口を強引に開かせ、喉の奥になにかを押し込んだ。


「あ……がァ……ぁ」


 途端に身体が硬直し、見開らかれた瞳が痙攣する。

 涙が一滴零れた。

 痙攣が唇から顎へ、喉へ四肢の末端へと広がって行く。


「……魔法制御を補助して、魔人化を抑制する抗魔薬だ」


 お付きの者は誰かに言い訳でもしているつもりなのか、迷惑そうなしかめ面で独り言を呟く。

 一応知っている。奴隷用品を扱う雑貨屋にも転がっていた。

 魔物の血肉から作る薬で、中毒性も酷いが副作用のとんでもない劇薬らしい。


 まともな人間なら絶対に使わないような薬でも、奴隷になら遠慮無く投与出来る。

 それが家畜として、物として扱われると言うことだ。


「ちょこえーと」


 薬が効いて来たようで、全身の痙攣が収まりカナリアの四肢に力が戻って来た。

 もしかしたら、この数秒の間に斬りかかっているべきだったのかも知れない。

 自分の甘さを後悔するが、戦うための気力が微塵も湧いて来ない。


「敵を生け捕りにすれば後で二つも貰えるぞ」

「あはぁ……あ、あー、あー、ふたつー、ちょこれいとが、いろいろあって、あはは、カエルさんが、指を噛むの、噛まれた痕からチカチカ、チ、チカ、虹色に光る煙が出て、夜でも、ま、まま、眩ぶ、ぶふっ、眩しいの」


 カナリアは糸の切れた操り人形のような体勢で身体を起こし、満月を見上げて瞳を輝かせている。夢見るような表情で、不気味な呟きは続く。


「っこ、ここ、ころさなきゃ……ころせって言われたら、ころさなきゃ…………カエルさんが潰れてにゅるにゅる……にゅぱーってなって、ちょこれーと、のの、の、が、がが、ががが……ァ」


 唐突に言葉は途切れた。

 顎の力が抜けて、だらしなく口を開けて涎を垂らしながら止まった。

 そして不安定な体勢なまま右手を真っ直ぐに伸ばし――指先から魔力の光が漂い、白い光が爪の形で安定する。


 それが戦闘体勢なのだろう、見届けてからお付きの者は鎖を外し、馬上へと戻り距離を取った。

 カナリアは腕を伸ばしたまま彫像のように動かない。

 再び輝きを失った瞳が瞬きもせず、開いている口も閉じもせず、じっと虚空を見上げている。


(なんだ?)


 不意に、スッー……と冷たくて熱い空気を感じた。俺は顔を上げる。

 最初は壊炎魔法が起こす風かと思ったが、違う。

 凪の平原は静かに月光に照らされている。

 壊炎魔法は音も無く発光しているだけだ。


(……?)


 周囲を見渡す。

 満月の夜は明るい。春の夜は肌寒いが、それとは違う氷のような冷気が漂っている。

 濃い緑の草原が遠くまで見渡せる。耳鳴りがするくらい静かだ。なにもない。


 少し離れた位置にウーヅン。お付きの者。

 俺の後ろにはルーナがいて、空には満月。

 正面に赤髪の奴隷少女、カナリア。

 それ以外のなにが――


(他には……耳鳴りが……あ)


 ――耳鳴りではなく。

 俺の鼓動の音だった。

 灼熱の冷気は、鼓動と共に自分の内側から込み上げていた。

 腑の底が、寒い。凍りつく程、血が冷たくなっている。

 目の奥が痛い。歯の根が合わない。唇は微かに震えていた。

 半開きの唇から白い息が静かに、異様に規則正しく漏れる。

 全身の毛穴が収縮して鳥肌が立ち、髪が逆立ち僅かな空気の揺れさえも風として感知しているようだ。

 背中の産毛まで総毛立っている。


(……ああ)


 人間、心底怒りに呑まれると、こうなるならしい。


(ここまで……本気で怒りの感情を持つのは、初めてだな)


 どこか清々しささえ覚えてしまう、赫灼の感情。

 熱し過ぎた鉄のように輝く、壊熱魔法の光と似ている気がした。

 灼熱の熱量が、全て冷気へと反転しているような感覚。

 冷血とはよく言ったものだと感心してしまった。本当に血が冷たく感じる。


 理性では、いつものようにろくでもないことだと斜に構えてやり過ごすべきなのは分かっているのだが、感情が抑えきれない。

 もう手遅れだ。

 ウーヅンにも、ルーナにも、誰にも、偉そうに説教なんて出来やしないな。

 こんなことになる前に、手を打っておくべきだった。


 順調な旅路で、油断があったのかも知れない。

 やはり悪魔憑きが人と関わるべきではなかった。

 後悔は浮かんでは、怒りへと変わって行く。


(ふざけるなよ、なんで闘技場から引き取った奴隷の少女を孤児院に預けるだけで、こんなことになる。こんなこと、誰が予想出来る……)


 それでも、自分の性質を考えれば、細心の注意を払っていなかった自分が悪い。

 だからこんなことになっている。誰が悪い、彼が悪い、なんて他者に原因を求めたって、結局は困って具合が悪くなるのは自分でしかない。

 誰かと長く旅をすることへの見通しが甘かった。

 因果は応報で自業自得でしかない。


(……でも……こんな、怒りしか湧かないだろ)


 目の前にいる、崩れかけた粘土細工のように立つカナリアを醜悪に感じているのが半分。

 残り半分は、悲惨な奴隷の少女を目の前にして醜悪さを覚えている自分への怒り。


 更に、こんな奴隷を作った奴隷商へも怒りが湧くし、馬上でいつでも逃げ出せるように機を計っているお付きの者の不誠実さも軽蔑するし、こんな境遇の子を楽しそうに眺めているウーヅンへは純粋に殺意すら湧く。


 俺も悪いが、お前らも悪い。争いなんてそんなもんだろう。

 つまりどちらも被害者であり加害者であり、最悪だ。

 こんな状況自体に、全てを焼き尽くしてやりたくなるほどの怒りを、静かに覚えている。

 許容量は簡単に越えていた。


(まあ……)


 いつかこんな日が来るとは思ってはいたが。


(……街中じゃないだけマシか)


 瞳を閉じれば、既に扉は空いていた。

 狂化魔法の発動は、もう止める術はない。

 扉の向こうで渦巻く魔力は獣を象り、俺を見て嗤っている。

 禁呪を持つ巡礼士がその魔法で人に危害を加えるのは重罪とされる。

 いかなる理由があろうと貴族を殺せば死罪は免れないだろう。


 巡礼士側から見れば理不尽だとしか思えないが、無辜の民から言わせれば禁呪の力こそ理不尽な力でしかないのだから、優先すべきを考えれば、さもありなんと納得は出来る。

 荒れ狂っている感情を落ち着ける効果は特になかったが。


「……逃げ……にげて、くれ……」


 怒りに眩む頭を抱えてなんとか声を絞り出すのだが、誰も動く気配がない。

 ウーヅンかお付き者は、馬で駆ければどちらかは逃げられるだろうに、観戦を辞めないらしい。

 このままでは全員皆殺しにするか、カナリアと刺し違えるかになる。


(いや……)


 この場に一人だけ、狂戦士を止めることが出来るかも知れない少女がいる。


「ルっ……ナ」


 縋るように呼べば、ルーナが傍らに控えて小さく頷く気配がした。


「はい。ご主人様、どうぞ命令してください。あいつらを全員消せばいいんですよね?」


 いつの間に取り出したのか、戦闘用の手甲を嵌めて剣を腰に差しながら堂々と頷く。


「ちがう」


 相変わらず自信たっぷりな声色でズレたことを言う。


「俺を……止めてくれ……」

「命令ですか?」


 呼吸を整える。


「逃げてもいい……でも……っ」


 危険と言うなら、狂戦士を止めるなんて危険過ぎる話だ。

 逃げてもいいが、出来れば止めて欲しい。

 逃げるか、止めるか、どちらか選んでくれと喉まで出かけて、暴れる魔力の所為で言葉に詰まった。

 その一瞬で自分の間違いに気づく。


(……いや、そんな頼みはねぇだろ)


 出来れば命懸けで狂戦士を止めてくださいなんて、どんな頼みだ。

 しかも命令すれば無条件で絶対に従ってくれる相手へ、命令で従わせたくないから判断を任せるような、無責任で都合の良い卑怯な発想をする自分に腹が立ち余計に魔力は荒れ狂う。

 助かる可能性を選ぶなら、俺を止めるように命令すればいい。

 ルーナの安全を考えるなら、さっさと逃げろと命令すべきだ。

 考えるまでもない。


「……いいや、逃げろ。荷物、全部やるから、持てるだけ持って……逃げろ」


 命の危険がある。逃げるべきだ。

 次に言葉に詰まったのは、ウーヅン達を殺した後、誰もいなくなった平原で独り虚しく独りで剣を振る狂戦士の光景を想像してしまったから。

 そうだ、カナリアと刺し違える訳にはいかない。どうせ殺るなら、皆殺しだ。

 ルーナがどこまで逃げてくれるかもわからないし、ルーナのこれからの人生、後顧の憂いを絶つ意味も込めてウーヅンだけは確実に殺す。


「自分の……安全を優先して……幸せになれるように、これからも、この先も、十年、二十年先も、こんな世で、生きて行くんだ。だからせめて、未来の為に……生きてくれ」


 無様な覚悟を決めたせいで声は震えて情けなくなってしまったが、これが俺からの、きっと最初で最後になるだろう、本心からの。


「命令だ」


 こんな言い方は駄目なのは分かっているが、これしか思いつかない。


「了解しました、ご主人様」


 ルーナはいつも通りの調子で返事をして、傍から離れて行く気配がした。

 暗闇の中一人で立ち尽くしている感覚。


「さぁ! 行け! 殺せ! 殺れ! 殺し合え! 化け物同士の殺し合いを私に見せろ!」

「ウーヅン様、落ち着いてくださいませ!」


 ウーヅン達がなにか騒いでいる。

 限界だった。

 このまま怒りと暴れる魔力を押さえ続ければ、理性は崩壊し魔人へと堕ちてしまう。

 それでもいいかな。なんて自虐的に思ったが、そんな訳にも行くまい。


 欲望に呑まれているウーヅンこそ魔物と変わらない、なんて言うのは自分を正当化するための詭弁だ。

 相手は単なる権力に振り回されて狂った貴族様だ。

 だから、人として、殺す。人として、ウーヅン・カーツ、お前は赦せない。


 だから殺す。

 静かな殺意を胸に灯す。

 そして。


(……人として裁かれよう)


 それが今この場で選べる、俺の意思だ。

 息を吐きながら震える手を顔から離し、ゆっくりと瞼を開き、顎を上げる。


 身体に魔力の光が弾けて疾走った。

 狂化魔法の発動。

 狂戦士へと変貌した俺は、視界に入った者から攻撃して行く習性がある。


「……」

「……」


 最初の犠牲者、真正面に見えた人物は――俺の前に立ちはだかり、踵を軽く上げているルーナが、目の前にいた。


「……」

「……」


 命令をまともに聞かないのは初めての事でもないので驚きはしなかった。

 呆れの方が大きい。

 どことなく、そんな予感があった気もする。

 なにか謝礼の言葉を言いたかったんだと思う。

 もしくは、なんで逃げないんだと叱りたかったのかも知れない。


 グゥルアァォ――――――――


 だが、解放された狂戦士の喉から迸ったのは狂喜の咆哮だった。

 夜空には煌々と輝く満月。

 その場の全員が狂っているという、世にも酷くて滑稽な惨劇の幕が開けた。



=================


 

 満月に照らされた平原に、金属の弾ける音が響く。

 狂戦士の俺は片手で軽々と長剣を握り、豪速で振り回す。

 力や速さは狂戦士の方が圧倒しているが、ルーナは小回りと纏鎧魔法、跳躍魔術を駆使して長剣を避ける。

 時には指先で刃を捌きながら、攻撃を次々と無力化し続ける。


 狂戦士は器用に身体を回転させて、長剣を最短距離で振り降ろした。

 刃はルーナの細い肩へと食い込み、そのまま袈裟斬りに――なるよりも速く、ルーナの纏鎧魔法が発動。

 鈍い手応えで長剣は押止まり、衝撃でルーナの小柄な体躯は弾け飛び、地面を滑って体勢を立て直す。


(……流石だな)


 やはり回避に関しては超一流だ。

 幾度も攻撃を回避されているし防がれている。纏鎧魔法はもう脊椎反射で張っている、達人の領域。

(これなら……)


 安堵しようと思ったが、窮地は続いていた。

 ルーナの着地した先へ、カナリアがのたのたと歩いて行き――

 カナリアは昆虫を思わせる反応で一足飛び、指先から伸びる壊炎魔法の光をルーナへと振り降ろす。


 あまり速くない。

 腕のある剣士なら反撃で仕留めたくなる、そんな隙のある動きだった。

 ルーナは一瞬動きを止めて逡巡を挟んだが、本能につき動かされるように剣でカナリアの壊炎の手を受け止める。


「――!」


 壊炎魔法に触れた刀身は煙を上げ、一瞬で融解した。

 ルーナの瞳は驚愕に目が見開かれる。

 光る爪はそのままルーナの眼前へ迫る。


(ルーナっ!)


 今、初めて知ったことだが、狂戦士の激情と、俺の意識を同調させることによって動きは更に速く、鋭くなるらしい。

 狂戦士は長剣を両手で握り、一瞬で距離を詰める。

 狂戦士はルーナの背後から、その細い腰を真っ二つにする勢いで長剣を横凪ぎに振り――刃が奴隷服を裂き、少女の柔肌に食い込む――瞬間、纏鎧魔法が展開されてルーナは吹っ飛んで行く。

 遅れて、その場に振り降ろされる壊炎魔法の爪。


 平原を勢いよく転がって行くルーナへ、追撃に駆ける狂戦士。

 カナリアもゆっくり動き出した。

 カナリアはもつれるような足取りで、狂戦士かルーナか、どちらを狙っているのか分からないが、追って来ている。


 ルーナは折れた剣を捨て四足で身体を起こし、獣のような体勢で迫り来る狂戦士とカナリアを視界に収め素早く次の行動に移る。


(――!)


 四肢を使った跳躍は空高く飛び上がり、俺達の頭上を軽々と越えて――お付きの者の馬上へと降下して行く。

 落下の勢いと共に、お付きの者の首筋へ手甲での手刀を一閃。

 意識を朦朧とさせながら鞍から転げ落ちるお付きの者と同時に着地。

 お付きの者の手から鎖を回収しする。


 腕を真っ直ぐ突き出したまま、のっそりと振り返るカナリア。

 御者がいなくなり、驚いた馬が暴れながら駆け出す。

 壊炎魔法の光の方へ、向かう先には立ち尽くすカナリアがいる。


 馬はカナリアの前で立ち上がり――馬の首が爆散した。

 光の爪を伸ばして手を振っただけで、太い馬の首は肉片を散らして胴体と分離する。

 そのまま崩れ落ちる巨大な肉の塊。


 ルーナは既に動いていた。

 立ち上がった馬の影から姿勢を低くして疾走。

 腕を伸ばしていたカナリアの足に鎖を巻きつけ、力一杯引けば真後ろに引けば受け身も取れずに転倒する。


 長い鎖で腕も固定しようと手を回した所に――狂戦士が追いつき、長剣を振り降ろした。

 ルーナは固く唇を結び、その一撃は完全に衝撃を防ぐ程分厚い障壁を展開して受けたが、魔力の燃費を考慮し、追撃を嫌ってその場を飛び退く。


(そう言えば……)


 狂戦士とは本来薬により恐怖心を麻痺させ、魔力を増強し限界以上の力を引き出す、服薬戦士の蔑称だったことを考えれば、今のカナリアこそ本物の狂戦士と呼べるのかも知れない。

 そんなことを思い出したのは、脚を拘束されたカナリアが、壊炎魔法で脚の肉ごと鎖を焼き落としているのを見て、狂戦士が足を止めた所為だった。


 俺の狂化はあくまで魔法であり、身体の異常強化に合わせ、理性や知性が崩壊し、激情の昂ぶりも強化されて制御不能になるだけで、むしろ危険を回避する為の本能や感覚は獣並に鋭くなっている。

 そんな狂戦士がカナリアの狂行を警戒し、壊炎魔法を脅威として観察することを選んだ。


(……違うな、相手は戦士じゃない)


 そこにカナリアの、戦うための意思は無い。

 単なる薬で狂わされた奴隷でしかない。

 カナリアは肉の削れた足で立ち上がりルーナを追う。


 歪な歩調と共に、血が草原に滴る。

 その表情は死人のように顔面の力が抜けていて、瞳は真っ黒に腐りきっていた。

 ルーナは気にも留めず視線で周囲を探る。


 無表情だが、ルーナの瞳は焦りに燃えていた。

 探していたのは俺の荷物だったようで、駆け出して滑り込んで行く。

 鞄をひっくり返し、中身が散乱する。


 なんの変哲もない旅の道具だ。

 防御無視の壊炎魔法を操り、攻撃を無視して相打ちを狙いに来る薬漬けの奴隷と、獣の如く獲物を狩る狂戦士に対抗出来る物なんてあるだろうか?


 ルーナある武器は纏鎧魔法と、纏鎧魔法を利用した跳躍魔術。

 決め手に欠ける上、俺のことは絶対に攻撃しないだろうし、カナリアも薬が効いている間は普通の攻撃では止まらないだろう。

 ルーナの残り魔力も少ないはずだ。

 ルーナが手にしたのは可燃性の物をまとめている防火防水加工された革袋。

 その中から消毒用の蒸留酒を取り出した。


(……そんなことも出来るのか?)


 火炎瓶でも拵えるのかと思ったが、違った。

 今のカナリアは痛みで止まることは無いだろう。

 ルーナは蒸留酒を腕に振り撒き――大きく息を吸い、火をつける。

 ルーナの半身が文字通り燃え盛り、青い炎に包まれる。


 周囲に散った酒にも火がつき、燃え上がり周囲が明るくなった。

 半身が火炎に包まれている様子は、まるで壊炎魔法のようにも見える。

 火を警戒するのは、壊炎魔法を警戒しているのは狂化中の俺だ。


 狂戦士を遠ざけるために炎を纏った。

 効果はあった。

 狂戦士は炎に包まれた腕を掲げるルーナと、煌々と輝く右手を掲げるカナリア、二人に対して益々警戒を高めて注視している。


 ルーナは横目で俺の様子を確認してから、真っ直ぐカナリアへと意識を集中させた。

 片手には酒瓶を携えたまま。

 狙いは、蒸留酒をカナリアの開いた口へ流し込むことだと察する。


(俺は……恐れているのか)


 狂戦士ですら、この状況に恐怖して動けないでいる。


(いや、そうか、怖いのか)


 唐突に理解した。

 怒りを起因として発動する魔法の癖に、狂戦士はなにもかも恐れている。

 恐怖心が異常なまでに強化されている。焦燥感が心を締めつける。


 怖いから目の前にある脅威を手あたり次第殲滅するのだ。

 まるで手負いの狼のように、ずっと周囲へ敵意を向け続けている。


 同時に、俺がこんな魔法を持っている理由もなんとなくわかった。

 他人が怖い。他人なんて、得体が知れなさ過ぎる。

 どれだけ綺麗事を並べたって、現実で他人同士が解り合えるなんてことなんて有り得ない。


 無秩序を許せば強者の都合で弱者は虐げられ、救済を掲げれば弱者は思い上がり都合良く食い物にされ、善良に生きる人々が苦しむ。

 本当にろくでもない――怖い世界だ。

 だからこそ、人は神に、理に縋り、大切に思う。


(まぁ……怖いよな)


 目の前の光景を見て、しみじみ思う。

 狂気加減では狂戦士の俺を軽々と超越している二人の奴隷。


 火のついた奴隷の少女が二人、向かい合い、ゆっくりと歩みを進めて行く光景は、どこが狂っていないのか、探す方が難しい。


 一触即発の距離で――カナリアが――ルーナが――駆け出す。

 一瞬の交差。

 カナリアの右手は、炎の残像をなぞった。

 ルーナは紙一重で回避。


 すれ違いざま――手に持ったままだった酒瓶が空中に取り残される。

 それまで身体にぶら下がっているだけだったカナリアの左腕、手首が返り、指先から光の爪が伸びて酒瓶を破裂させる。


 次の瞬間――青い炎が爆ぜ、まき散らされてカナリアの身体に降りかかる。

 青い炎は疾走するように燃え上るが、意にも介さず振り向くカナリア。


 カナリアの隣を走り抜けたルーナは、地面を転げて身体と奴隷服に燃え移った炎を消す。

 身体は纏鎧魔法で防いでいたので、炎はすぐに落ちて草原の夜露に消えた。


 ルーナはそのまま立ち上がれず、座り込んでカナリアを見上げて大きく息を吐いた。

 その瞳な失敗を悔やみ、次の手を探して周囲を見渡している目だ。

 カナリアに飲ませる予定だった蒸留酒は、腹から下で燃えている。


 周囲に広がる濃い酒精の臭い。

 血のように流れる赤髪を顔に張りつかせ、虚ろに開く目と口が深い闇を湛えた洞窟のようだ。

 怨霊染みた風貌のまま数歩、ルーナへ向かって歩を進め――白目を向いて、前のめりに倒れた。

 そのまま動かなくなる。


「……?」


 周囲には髪の焼ける焦げ臭さと、高濃度の酒精の臭いが漂っているのみ。


(……臭気だけでも、十分だったのか)


 通常なら呼吸で吸い込む程度でここまで効果はないだろうが、薬物との併用で一気に回ってしまったのだろう。

 カナリアは倒れたまま、ぴくりとも動かない。

 うつ伏せで倒れたたことで、引火した炎も次第に夜露濡れ消えた。


 ルーナも唐突なことに驚き、倒れたカナリアを見据えて動けないでいる。

 カナリアの生死は不明だが、運が良ければ――良いのか悪いのか知らないが、死んでいない可能性はある。


(よくやってくれた……後はもういいから、休んでろ)


 狂戦士の習性として、戦闘力の無い者は無視する。

 そのまま立ち上がれずに座り込んでいれば、狂戦士は剣を向けない。


 そしてこの場に残った最後の狂人、馬上の上の人物ウーヅン・カーツ。最後にあいつを俺が殺して、この惨劇は終わりだ。

 終わらせよう。


 狂戦士の恐怖と凶暴性に、今俺が思い描いている殺意も乗せれば一瞬で片がつく。

 満月を背負ったウーヅンの顔色は伺えない。

 俺はもう狂戦士を止めはしない。むしろ、行け。

 行って、ウーヅンに自分の過ち思い知らせてやれ。


(……こいつは、どっから間違えてたんだろうな)


 これまでの悪行なんて俺の知ったことではない。

 そんな理由でここまで殺意は湧き上がらない。

 こんなろくでもない連中、いくらでもいる。


 つまりウーヅンの人生において、最大の過ちは今この瞬間、俺が庇護しているルーナに手出しようとしたことだと言えるのかも知れない。


(よくある理由と言えば……そうなのかもな)


 女を取り合って男同士命を張る。まあ取り合っているのは奴隷の少女なのだが。


(いや、そうか、ウーヅン達に言わせればおかしいのは俺なのか)


 これだけ好条件を出して奴隷を譲らないなんて、きっと考慮していなかったのだろう。

 適当な理由と存分な口止め料を渡せば、簡単に回収出来ると思っての行動だったのか。

 苦笑したいが、狂戦士は動かない。


(もういいか。早く終わらせよう)


 長剣を両手で握るよう、狂戦士に意思を傾ける。が、動かない。

 狂戦士は、震える足で立ち上がるルーナの姿を、じっと見ている。


(……もういいんだぞ)


 ルーナは立ち上がり、毅然とした足取りで――そうあろうと見える程度には――歩き、真っ直ぐ狂戦士の前に立った。

 目の前に、ルーナ。


 狂戦士は戦闘能力やこちらへ敵意のない存在には剣を向けない。

 微塵の悪意も警戒心を持たずに近寄って来る相手なら、狂戦士は取るに足らない相手だと認識して襲いかからない。


(それが出来る人間なんて、そういないだろうけど……)


 恐慌状態の狂戦士は、危険に対して獣並に鋭敏だ。

 僅かにでも危険を察知すれば即攻撃へと移れるように、張り詰めた空気を常に纏っている。

 緊張感のある空気の中、ルーナは手を伸ばし俺の腕に触れる。


 両の手首が自然な動きで押さえられ、纏鎧魔法を掌に展開して長剣を封じられた。

 動きを封じられた狂戦士は、反射的にルーナへ犬歯を突き立てるべく上顎を振り下ろす。

 柔らかな肩に食い込む犬歯の感触。広がる血の味。

 もう魔力は殆ど無いのか、纏鎧魔法は手にしか発動していない。


「……」


 ルーナは肩の痛みに一瞬だけ、僅かに眉を潜めたが、平然と受け止める。


「……」

「……」


 狂戦士が本気で振り払えば小さな身体ごと引き剥がすのは容易だろうが、動かない。

 まったく敵意のない、反撃の意思もない、殺されても構わない言う少女相手に、それ以上の攻撃は続かなかった。

 顎から力が抜ける。


「……」


 立っているのもやっとのようで、ルーナは狂戦士の腹に頬を寄せて寄りかかって来た。

 猛獣の腹に無警戒で飛び込んで来るようなものだ。


(……なんで、ここまで出来るんだ?)


 理解不能で得体の知れないルーナに、俺の意識は戦慄を覚えた。

 それでも、獣のように研ぎ澄まされた狂戦士の感覚は、ルーナを敵と認識しない。

 それは、今のルーナにまったく力が入っていないせいなのか、それともなにか別の理由なのか。

 小さな身体に寄りかかられて、狂戦士もそれ以上身動きが取れなくなってしまっている。


「ヘルニナぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーミぃ!」


 絶叫が響いた。

 視界に入ったのは、外套を脱ぎ捨て、剣を片手に走って来るウーズンの姿だった。


「ヘルニナーミ! そなたを手にする為に、私が一体どれだけの犠牲を払ってきたと思っているのだ!」


 知らないし、知りたくもない。

 そんなことはお前自身が一番よくわかってるだろうし、それはお前の都合だ。


「そなたはっ、私の物だぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ!」


 お前のじゃない。

 怒鳴りつけてやりたいが、狂戦士は腹にある小さな鼓動に縫い止められ、無意味な唸り声をあげることしか出来ない。


「私を見ろぉお!」


 ウーヅンを迎撃するため、狂戦士はルーナの手を振り払おうとして――ルーナは肩越しに振り向き、最後の力を振り絞り、呟いた。


「あの……どなたか知りませんが、取り込み中です。邪魔しないでください」


 もしかしたら、これは本当に愛の物語だったのかも知れない。

 普段から感情を押さえようとしつつも綺麗な瞳に感情が駄々漏れのルーナだが、本当に興味の無い物を見る目は、無感情と言うよりも無機質な硝子玉のようだった。


 口調も、ただ必要な単語を音として発しただけの冷淡な声で、余計に無関心さが際立つ。

 カナリアの目よりも無機質な、井戸底のような。道端に転がる塵や屑へ向けるにしても、もう少しなにかしら感情が込められるだろう、おおよそ人を見る目ではない。


 本物の奴隷の瞳だった。

 そしてウーヅンは確かに、そんな表情で固まってしまった。


(まるっきり振られた男だ)


 笑っていいのか、判断がつかない。

 滑稽な恋物語……いや、狂気の恋物語の終わりに相応しい、ぽかんとした表情で手を伸ばしたまま固まり、止まってしまった。

 臆病な狂戦士が既に驚異の対象とは捉えていない程、間が抜けている。


「……ご主人様」


 ルーナも次の瞬間には後ろの貴族の事など忘れ去っているようで、腕の中で囁かれる。

 感情をなんとか押さえ、平坦な声を取り繕っているが、明らかに主へ奉仕することへの歓びで打ち震えそうになっているのを押し隠そうとしている、そんな甘い声だった。

 見えないが、もしかしたら微笑んでいるのかも知れない。


「ごしゅじん……さ……ま」


 もう一度囁き、ルーナは俺に全てを預けるようにして気を失ってしまった。

 ウーヅンと狂戦士が残された。

 ウーヅンはぴくりとも動かず、狂戦士も動けない。


 しばらくして、お付きの者が意識を取り戻して顔を上げる。

 何度か頭を振って、周囲を見渡しているようだ。

 俺もつられて意識を向けて行く。


 散乱する荷物。

 転がっている首の無い馬の死体。

 前のめりに倒れ、ぴくりともしないカナリア。

 ウーズンは伸ばしていた手を降ろし、月を見上げている。

 狂戦士に寄りかかり、力尽きているルーナ。

 ルーナの丸くて小さな頭が見える。


「……」


 いつの間にか狂化は解けていて、自分の意思が戻っていた。

 反動でもうしばらくは動けないが、穏やかに時間が過ぎるのを待つ。

 ウーズンはなにか、闘技場での窮地でもあんな瞳は……しかし、あのような瞳の輝きも……とかなんとか、ぶつぶつ言っている。

 たぶん俺の奴隷となってから、もうルーナは俺以外の人間はあんまり興味ないんだろう。

 いいか悪いかで言えば、あまり良い事ではないと思うが、今は助かった。

 最後に、ウーヅンは弱々しく呟く。


「……それを、譲ってはくれぬか?」

「断わる」


 腕の中にある小さな身体を抱き寄せて、はっきりと言った。


「そうか……」


 それ以上、誰もなにも喋らなくなってしまった。

 お付きの者がウーズンの肩に外套を掛けて下がらせるのを無言で見送ってから、ルーナをしっかり抱えようとして、気を失いながらも俺の服を握り締めてしがみついていることに気づいた。


(……)


 なんとなく頭を撫でる。

 髪が少し焦げていた。粗末な奴隷服も盛大に焼けているし……と言うか焼け残りが肌を隠しているだけで、顔も泥まみれだ。

 擦り傷や浅い切り傷もいたる所についていた。

 肩に俺が噛みついた傷が一番深い。


(……ありがとう)


 自然と浮かんだ言葉を胸に、もう一度頭を撫でる。

 満月の輝く平原は音も無く凪いでいて、周囲の余熱は緩やかに解けて行く。

 こうして、狂気の満ちる夜は静かに息を潜めることとなった。





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