13話。ナフの村。大切な物だから。
「遥か昔、魔法の力を持った生物は本当に皆好き勝手に生きてたらしい」
大昔、秩序や規律なんて発想は無く、力が全てだった混沌の時代。
魔力や暴力だけではない、欲望のまま騙し、欺き奪い合うのは当然だった。
強者は屠った獲物を手掴みで食し、所構わず痰を吐き、くしゃみの際には口元を手で押さえず、むしろ派手に唾を撒き散らして馬鹿笑いを上げ、怒声を撒き散らしながら酒を飲み騒いで気分を良しとしていた時代。
魔法で生み出した魔獣を従え、野を駆け空を飛び、目につく気に入らない物を焼き払い、支配した相手は奴隷として使い潰す。
それが当たり前だった、混沌の時代。
「……オークとかトロールとか、その手の魔物が暮らしてる土地は今もそんな感じだな」
誰も信用出来ず、弱者は虐げられ、強者の顔色を伺い、お人好しの善人は卑怯者に騙されるのが当たり前だった。
「そんな時代に、暴力で虐げられていた弱い人々、俺達の先祖が力を合わせて勝ち取った物、それが秩序って物なんだ」
テーブルマナーを窮屈に感じる人は多いだろうが、マナーを定めず人それぞれ好き勝手な食事の取り方を許せば、テーブルに足を乗せて馬鹿笑いを上げ、他者を不快にするのも厭わない、野蛮な時代へと逆戻りすることになる。
そんな物は、自由とは呼ばない。
結局、全てを欲望のままやりたい放題する為には、他者に犠牲を強いることになる。
それこそ、他人を奴隷として使うように。
「人間社会の黎明期である、古の時代でも人間同士も様々な魔法を持った者が集まっていたらしくてな、その集まりの中でも争いは絶えなかったらしい」
様々な人がいて、様々な人がいるからこそ、様々な人々が平穏に暮らして行く為に、揉め事や争いを減らすために、お互いが譲り合い、お互いが少しずつ我慢し合うため、大切な物を基準にして、マナーを、規律を、戒律を、国法考え定めた。
それでも考え方の差異や、譲れない物、動かせない物、政治的な理由や過去からの流れ等で住み別れ、人間同士の争いを極力回避している。
「暴力で支配し合うんじゃない、詭弁で相手を出し抜く為でもない、互いに平和を望み、信じ合う為、また道を踏み外さない為、その時代の人々で選んだ取り決めが規律となって、聖教会の教えになったんだ」
混沌の時代から古の時代にかけて、当時を生きた聖人達の逸話や、禁呪の力に溺れた人間や魔物に支配されている土地の過酷さをまとめて教訓とした物が、聖教会の聖典とされている。
「神だなんだってのは、全体をまとめる信仰の象徴として、また布教のためって意味もあるんだけど……混沌の世で様々な人同士が信じ合って生きるのと、心の平穏の為に必要な概念だったんだろう」
本物の聖職者に聞かれたら怒られそうだが、それが事実だろうし、混沌の時代、奴隷を生贄とする巨大な蘇生魔法の実験場をいくつも作る――もちろん奴隷を労働力として建設した――なんてことが平然とまかり通っていたような、魔導学も確立されていない時代には、実際に神の奇跡としか思えないような体験も数多くあったはずだ。
「神様なんて居ないんじゃなくて、過酷な環境の中で神様が居て欲しいと人々が願ったんだよ」
神など居ないなんて豪語出来るのは、平穏と救済を真摯に乞う必要も無い幸運に恵まれている者か、誰かを犠牲にしている自覚がある者だけだ。
「それも、今はまた変わって来てる……だから権力からの解放ってのにも、一理あるんだろうけどな」
人間の社会が安定して来れば、それはそれで新たな問題も生まれ、対応の為に国法が定められて行った辺りから段々と雲行きが怪しくなって来た。
闘技場は元を辿れば力ある魔導士同士の決闘場として、揉め事を収める手段として作られたのが走りであったのが、いつしか軍事訓練施設へと変わり、捉えた凶悪な魔物を処刑する剣闘刑の流れを経て、現在では貴族の執り行う興行とされるようになってしまった。
元を辿ると言うなら、奴隷なんて制度は元々は魔物達の風習に習い、打ち破った魔物を縛り上げて労働力として使っていた制度が、なにがどうしてそうなったのか、刑罰の一つとしてなり今では人身売買として機能するようになってしまっている。
他にも、混沌の時代に功績を遺した者の子孫、つまり貴族が持つ権力を目当てに、貴族を取り込もうと賄賂や不正は問題となっているし、昨今では貴族と結託し、救済を盾に我欲のままに生きることを正当化したりと、ろくでもない話になってしまっているのも、まともな聖職者達は頭を抱えている。
ゴブリンのように怠惰に生きることを綺麗事で唆し、無力のままに堕落させ救済院で飼い殺し、更には欲望を煽り、最終的に借金を背負わせ奴隷へと落とす。
そんな醜悪な仕組みが、尤もらしい言葉で飾って作られている。
心優しいと思われたい者程引っ掛かる。
噂では、あろうことか聖教会の関係者まで関与しているとか。
権力の腐敗と、自由の意味をはき違えた者達の我欲が噛み合って混沌の世に戻りつつある。
「人の世が安定して来て、既得権益に絡もうと必死な権力者が綺麗事で人々の不満を煽ってる。そんな所じゃないかね。ろくでもない」
平穏に生きたい人々にとってはひたすらに迷惑だ。
自由とは、そんなことの為にある言葉では無かった筈なのに。
理想がいくら素晴らしくても、権力と言う物は持つべきでは無い者が持てば容易に暴走する定めなのだろうか。
勿論、その限りでは無いから色々とややこしくもなるのだろうが。
「でも、そんな世の中だからこそ、人間同士、大切な物を見失っちゃ駄目なんだと思う」
ルーナは一切口を挟まない代わりに、綺麗な瞳で問いかける。
大切な物とはなにか。
「人は独りでは生きて行けない」
あれこれ小難しい話は並んでいるが、詰まる所、聖教会の教えはそこに集約される。
人同士が生きて行くために、我欲を剥き出しにするのではない、節度と礼節を知れと、そう言うお説教であり、教えだ。
「つまり、お互い感謝を忘れずに生きるってことかな」
今では奴隷として人間だって買えてしまう、金だって元々はその為の物だったのに。
金銭的な対価とは、物々交換の不便さを解消した、便利で対等な立場でのやり取りであり、貧富の差を煽り、欲望を煽り、労働者を支配したり、人を隷属させるための仕組みであって良いはずがないのだが、現状、そんな理想は遠の昔に見失われている。
「金って発想自体は素晴らしい物だったのにな」
多くの争いが減り、便利になったが、今度は金に囚われて自由を見失い、道を見誤る者が増えてしまう始末。
貴族と同じ暮らしを全ての民がやれるはずがないことは、学舎に通う子供でも理解しているのに、簡単に唆されて騙される。
富を得る為には日々の堅実な努力と特殊な才覚、それと幸運が必要となる。
ついでに、正しく富を目指す者こそ、節度を無くせば行く末は破滅するだけだと良く理解している。
「金が万能だなんて嘘もいい所だ。それは誰もが知ってるはずなのに」
ルーナに金貨で千枚の値段がついていたが、同じ千枚の金貨を並べたってルーナと同じ奴隷は絶対に手に入らない。
いくら払っても替えが効かない、尊い物なんだ。商品にして売り買いして良い物じゃない。
「我欲を優先させて、他者への感謝を忘れているようじゃ誰も幸せになれない。互いが自分の欲求で互いを苦しめ合う、混沌の争いへと逆戻りだ」
暴力に支配されていた混沌の時代、人が人と共に生きて行く為、失敗は戒め、良き物は尊び、教訓として行った。
先人の教えとなった。
欲望ではなく、人の世でなにを優先すべきか理性で考え、規律を自分達の意思で作ったのだ。
「……そもそも、我欲を優先させて生きるのって、そんな楽しいか?」
我欲に囚われ、他人に迷惑を顧みず欲望を剥き出しにしたって、誰かを苦しめるだけで、そんな物の上に成り立つ幸福は絶対に長続きはしない。
自分の欲望、我欲とは底無しの井戸のような物で、どれだけ求めても決して満足することは無い。
果ても無く、切りも無い。
己の欲望を満たす為、もっともっとと我欲に囚われて求め続けることは、自由とは程遠い生き方だ。
端的に言って、疲れるだけだ。
勿論、堕落の誘惑に負けず、我欲に流されることも道を踏み外さすことも無く、ひたすら堅実に探究の道を行き、偉業をやり遂げる者もいるだろう。
だが、そんな才覚を持つ者は、ごく稀にしか生まれないし、その才ある者達の中でも勝者は常に一人だ。
俺にはそんな情熱も才能も、覚悟も無かった。
どれだけ偉人達に憧れる情熱を持っていても、才覚がなければ身を滅ぼすことの方が圧倒的に多い。
「普通の人間は日々の暮らしに満足して、手の届く範囲をしっかり守ればそれで十分幸せになれるんだ……って、これは父さんの言葉か」
それに、そんな一部の天才達を支えているのは、大多数の凡庸な人々で維持している平穏であることを忘れてはならない。
全員が特別な偉人を目指すような狂った世の中がどうなるか、想像するだけなら楽しいが、実際はろくなことになるまい。
高くを望み過ぎて、道を誤り、苦しくなって、魔物へと堕ちる。
日々を平穏におくれるだけでも胸を張るべきだと、巡礼の旅を続ける立場としては言いたい。
幼かった俺は巡礼者の一行に預けられ、旅の基礎や逝去界の基本的な事を学んだ後、独り立ちしてからは行く先々で乞われるまま魔物駆除の依頼を受けていた。
今思えば自暴自棄気味だったのだろう。
魔物の巣へ単身乗り込んで行き、禁呪の力でねじ伏せる。そんな暮らしを続けていたある日、唐突に中央から声が掛かり巡礼騎士へと任命された。
「暴走した禁呪持ちを鎮圧するために騎士が必要だったから叙勲されたんだろうけど……まあ、嬉しかったかな?」
虚しく笑う。
自暴自棄になっている危うい禁呪持ちとの同士討ちを狙う計画だったのは後で知った。
鎮圧の対象となった禁呪持ちは、熊のような頭を持った巨大な化け物へ、魔物へ――魔人へと堕ちてしまっていた。
戦いの最中、ずっと泣きながら「救ってくれ」と叫んでいた。
救ってくれ、助けてくれ。叫びながら目につく人間の首を片端からねじ切り、躯を集める猟奇的な悪魔へと変貌していた。
そう言う願望が根本にあったのだろう。
愉悦に塗れた笑顔に涙を浮かべながら、孤独な旅路は嫌だ、独りは寂しい、俺を救ってくれ、俺を認めてくれと、首の無い死骸を両手に号泣していた。
それを見て。
「正直、俺はこんな風になりたくないな、と思ったもんだよ」
同じ禁呪持ちでありながら、暴れながら自分を救えと喚く姿が酷く醜悪に見えた。と同時に禁呪の恐ろしさと、やさぐれていた自分の幼稚さにも気づいた。
こんな力、平穏に生きたいと願う人々にとってはいい迷惑でしかない。
「……」
「……」
冷酷だと思われるだろうか。
横目で見るが、ルーナは平然としたまま俺を見上げている。
「確かに孤独な旅は辛い。そんなもん誰だって同じだ。孤独に耐えきれる人間なんていやしない」
ルーナへ向け、優しく言う。
「でも……だからこそ、人の温もりだってわかるはずなんだけどなぁ……」
こんなろくでもない世の中で、こんなろくでもない禁呪を宿している者に、微笑みかけてくれる人だって、僅かだが確かにいる。
優しくされるのが当たり前じゃないからこそ、優しさが尊いのだ。
愛や優しさ、救済は、誰かに煽られ、我鳴り強請るような物ではない。
人同士の想い遣りで作り上げた秩序があるからこそ、こんなろくでもない人生でも、優しくしてくれる人はいるんだと教えてあげたい……のだが。
(……特に感情は動かない、か)
ルーナは真剣に話を聴いてくれているが、それだけだ。
ルーナは優しさを求めている訳じゃない。
(いや、確実にルーナがズレてるんだろうけど……)
優しくされていいんだ、奴隷なんて辞めて、優しくされるべきなのだと伝えたいのに。
万人に分かって欲しいなんて求め過ぎと言うことか。
そもそも他人に分かって貰おうなんてこと自体がおこがましいのかも知れない。
力無く笑う。
求め過ぎれば誰もが苦しくなる。
その通りなのかも知れないが、譲れない正しさもある。
「まあ、こう言う話を突き詰めて行けば、結局聖典に書かれてることが正しいって……節度を持て生きましょうって話が概ね正しいと理解出来ると思うんだけどなぁ」
問題の原因があり、相応の結果があり、因縁を繰り返さないため、決まりが定められた。
因果応報の教えを突き詰めれば、そう言うことだ。
力に支配されていた混沌の時代に、私利私欲では無く、自分達の意思で規律を作り上げ、結束して安寧を勝ち取った人々の残した教えは概ね正しい。
間違っているのは安寧に慣れきってしまい、その教えを歪め悪用している者達だ。
自由とは、我欲に囚われ、欲望のまま他者を虐げ蔑ろにするのではない。
ましてや幼稚な反抗心で規律から外れたことをするのが自由だなんてことは、断じてない。
「人の世が安定して、女性が頭から布を被って暮らすような生活が変わってるのは良い事だと思うけど……それもどうなんだろうな」
今でも本職の聖職者は肌や髪を隠すのが正装とはなっているが、昔は女性全員が自衛の為に、また男が道を踏み外させない為にも、そんな服装が強制されていた。
布袋を被って極力肌を触れ合わせない性行為なんて、今聞けば冗談みたいな規則があった古の時代、それだけ力の弱い女性が虐げられ、暴力的で我欲を満たす行為を強要する男が多かったと言う背景がある。
快楽の探求にこそ果てがなく、規律が無ければどこまでも欲望まま快楽を追及して行きいつかは身を滅ぼす。
そんなことに付き合わされる弱い立場の者を極力減らす為、今にして見れば過剰とも思える規則があった時代もある。
「女性は特に慎みを持ちなさいってやつも、そう言うことにしといた方がなにかと便利なはずなのに……」
疲れた目でルーナを見遣るが、表情は真顔のまま。
まったく意識してくれ無いようだ。
その手の話しなら、聖教会自体は今でも獣のような格好での交りを禁じている。
と言っても、わざわざ閨を確認するような真似はしないので、そんな規律を守っている夫婦がそう多いとは思えないが、夫婦間での異常な要求への抑止力として、規律が有ると無しでは断わり易さも段違いなのは間違いない。
なのだが、昨今では女性側からそんな規律に対して、不満の声がある言う話も、ある所ではあったりする始末。
貞操観念なんて発想は、どう考えても女性を守るためにあるはずだろうに。
「欲望を煽るような動きも確かにあるんだろうけどな、結局は今ある平穏に慣れきってしまって、欲が出るってことなのかね」
先では身を滅ぼすと分かっていても、堕落の誘惑に耐え切れる程人間は強くないのだろう。
そう言った意味でも、人は神だなんだと縋るのかも知れない。
栄華を極めた魔物の群れが、享楽の追及の果て、快楽を増幅させる魔法に溺れ滅びてしまうと言う、今の時代からすればわかりきっているお粗末な結末の話だが、欲望だけで生きていた時代はそんなことを禁呪として戒める教えさえなかった。
「そんな滅びに向かう訳には行かないだろう」
まるで悪い冗談だが、当時を生き残った人々にとっては、何一つ笑えない状況だったはずだ。
混沌の時代、欲望と暴力の支配から解放される為に、未来の為に大切な物を選んで行く。
その選択こそ、人の自由意思だったはずなのに。
「聖典は、先人が未来の為に遺した知恵だ。だから、俺達も目の前の我欲を満たす為ではなく、人の世の安寧を未来へ繋げて行くため、自分の意思で、未来を見据えて生きるのが正しい生き方なんだって……」
気づけば、ルーナの瞳は半分閉じていて瞳の輝きが消えかかっている。
意識が朦朧としているようだ。
「……ルーナ、大丈夫か?」
呼びかければハッとして戻って来る。
「……大丈夫?」
「とても難しいお話なので、少し眩暈が……申し訳ございません。改めて集中します」
熱心に聞いて、理解しようと頑張ってくれていたのか。
気晴らしになればと思ったが、疲れている上、子供にこんな長話はしんどかったかも知れない。
俺は話を巻き気味に続ける。
「まあ、娯楽を禁じろなんて過激な禁欲主義もどうかと思うけどな。欲望を満たす為に誰かを犠牲にするなんて、許せるはずがない。どう考えても度が過ぎている。過剰だ」
たまには息抜きに祭りも必要だが、毎日過度な刺激を求めればどうなるか、闘技場の現状を見れば分かるだろう。
過剰な要求に剣闘士の供給が追い付かず、奴隷まで舞台に上げるようになり、弱者同士の無様で滑稽な争いを見世物として扱うようになる。
節度を持って、他者を不快にさせないように礼節を持て。
そんな当たり前の前提がまず一つ。
それと。
「それに、人の世を未来へ紡ぐ為、最も尊ぶべきは子供と、子を産み育む女性だ」
人は独りでは生きていけない、その最たる真理で、絶対に譲れない正しさだ。
これをルーナに伝えたい。
子供の洗礼式や大人の成人式、結婚式、葬式、節目の儀式は娯楽の為にある訳ではない。
人の生き死にこそ人の世を未来へ紡いで行く為、とても大切なことなので、その手の話しには喧しい戒律が定められている。
ルーナはまだ子供で、しかも女の子であり、本来なら最も大切に守られているべき対象なのだ。
奴隷なんてやっているのは、どう考えたって間違っている。
「だから、子を産み育む女性の手が、人の血で穢れているなんて駄目だって言うのは、確かに信心深過ぎる話かも知れないけど……俺もその方が望ましいと思う」
聖教会の言うことは理解出来るし、個人の矜持としても女子供を守るのは男の役目だと思っている。
それは、きっと理想を歪め悪用している、奴隷商のような裏社会で生きる者達も理解しているはずなのだ。
(だからこれを持たせてくれたんだろう)
ルーナの腕の中にある兎のぬいぐるみ――リフィトと名のついているぬいぐるみへ、慈悲の眼差しを向けながら問う。
「このぬいぐるみは……ルーナの母親が縫ってくれた物だろう?」
話をして、話の中で、これが聞きたかった。
いや聞きたくなかった。
聞けば絶対に――
「はい。お母さんがわたしを捨てた際に残してくれた物だそうです。リフィトと言う名は、弟の名前だと聞いています」
「そうなんだ」
――胸が締め付けられる。
なんの感情も籠っていない瞳で、水晶のような綺麗な瞳のまま、淡々とした受け答えに、胸が締め付けられる。
面影すらも覚えていないのだろう。
だから人を愛すると言う概念すら知らないのだ。
誰からも教わっていないのだ、この少女は。
「リフィトを受け取る際に、お母さんはわたしよりも弟を選んで、救済院よりも孤児院に入れる為に……と、なにか説明を受けた記憶がありますが……すみません、なにぶん昔の事なのでよく覚えていません」
世の中が聖教会の言うような理想通り回っていないことは百も承知だ。
万人が規律を守り、慎ましく生きて行けるなら、こんな世界になっていないし、どれだけ平穏を望もうとも、不運に見舞われる人は後を絶たない。
どうしたって様々な人々が暮らす人の世で、不幸は無くならない。
どんな事情があったかなんて知らないし、知りたくもないが、きっとどうしようもない事情があったのだろう。
なんの後ろ立ても無く、住民権を買う金も無い流れ物の母子なんて、奴隷として人買い連中に買い叩かれるか、救済院で小間使いとして農奴と変わらない一生を送るか、貧民窟に行きつくかしかない。
それならば、どちらかの子だけでも街中で暮らし、学舎にも通わせて貰える孤児院に入れることを選んだとして、誰が咎める事など出来るものか。
(確実に褒められた事ではないけど)
不運を正当化する為に理想の正しさを否定してしまえば、我欲のままに生きる連中に利用、悪用される。 そうなれば一生懸命日々の幸せを守って暮らしている、普通の人達が割を食うことになる。
それでも。
「このぬいぐるみは、大事にした方がいい」
「はい」
言うまでもなく丁寧に扱っているが、言いたくなる。
母からの、守ることが出来なかった少女への、せめてもの手向けなのだから。
なに一つ正当化するつもりも美談にするつもりも無いが、思いを汲むくらいは大人ならしても神は赦してくれるだろう。
「……ろくでもないことばかりだからって、不貞腐れても余計にろくなことにならない」
このろくでもない世界で生きて行く上で、とても難儀な話だ。
「不運に囚われ過ぎても駄目だし、幸運を過信しても駄目だ。そんな物に惑われない為にも、目の前にある大切な物を堅実に守って行くんだ……ってな。これは誰の言葉だったかな」
肩を竦める。
俺なんかが思いつくような言葉は、きっと既に誰かが同じようなことを言っているだろう。
不運を正当化すること無く、正しさを否定することも無く、悲しみと失敗はそのまま飲込んで、糧にして行くしかない。
同じ失敗を繰り返さない為に、繰り返させない為に、秩序が、聖典が作られた。
もっと砕けて言えば、馬鹿が馬鹿をやらさない為に、先人の馬鹿げた行いを戒め、伝える為に教えがあるのだ。
大切な物を見失い、目先の我欲に振り回されてしまえば、当人だけでは無く周りも苦しむ。
それは不運に見舞われ大切な物を守れない場合だって同じことだ。
そして誰もが苦しむことになる。
被害者しか居ないこのろくでもない世界で、守るべき物を守れなければ、誰も幸せになんてなれない。
このろくでもない世界において、自分の手の届く確かな物――自分の家族さえ守れなかった者が、一体なにをどうすれば幸せになれると言うのか。
「まあ、ざっくり言えば、一番身近な他人である家族と上手くやれない者が、どうやって他所の他人と上手くやれるんだって話だな」
汝、隣人と仲良くしろと言うあれだ。
今でこそ色んな町や都があるが、当時で言う隣人とは親兄弟親族のことだからな。
至極単純で、最もな理屈だろう。
世の中例外なんていくらでもあるだろうが、例外は例外であり、そんな物は真理ではない。
特例を殊更持て囃せばそれは、人はまた道を見誤ることになる。
特別を特別にたらしめているのは、それ以外の普通の人々なのだから。
家族を大切に出来なければ、誰とも幸せにはなれない。
人は独りでは生きていけない。
親兄弟こそ、互いに大切にし合わなければならない。
この単純な理こそ、聖邪が渦巻き混沌に振り回される世で唯一、確かで揺るぎ無い真理であり変えてはならない人の世の理だ。
「だから、つまり」
「……」
なんだか取り留めのない話になってしまった気もするが、結局、奴隷でありたいと望む少女へ言いたいことは一つだ。
人の世の言う自由とは、我欲の為では無く、未来と理性が共にある物でなければならない。
その基準で、奴隷なんてさっさと辞めてくれ。そう言うことだ。
「つまり、未来のことを考えた上で、自分の意思を持って生きてくれ」
そう締めくくって、古びた聖典を差し出す。
先人の残した知恵は、この本にいくらでも載っている。
聖典と言う名の過去から学び、孤児院で人同士の協調性を学び、学舎へと通い様々な知識を学び、自分の頭で考え、自分の意思で、この混沌とした世界の中で確かな物を守り、未来へと繋げて行く為の正しさを選べるようになって欲しい。
この少女の人生はまだまだ先が長いのだから、やり直せるはずだ。
「……と、まあ、こう言う話。聖教会のお説教だな。長々と聞いてくれてありがとう」
平穏に生きるため努力している人々が最も尊重されるべきであり、平穏に生きるのが難しくなるような世の中に未来は無い。
故に奴隷なんて制度は、奴隷として虐げられる当人は勿論、人の欲望を過剰に煽り堕落へと誘う、誰にとっても不自由の象徴として認めるべきではないから辞めてくれ。
そんなまとめでもいいや。
一通り語り終えて、水を飲む。
こんなにも真っ当な聖職者らしいことをするのは初めてで肩が凝った。
ルーナは兎のぬいぐるみを抱いたまま受け取った聖典に視線を落とし、なにか考えているようだ。
「なにか質問が?」
上目で見上げられる。
そのまましばらく考えてから、小さな口を開く。
「わたしはご主人様の所有物であり、ご主人様の判断に従うだけの存在なのですが……わたしに欲や望みはありませんよ?」
「いや、だから、それが駄目なんだって。誰かの欲望を満たす為の奴隷なんて、どう考えたって未来に繋がらないだろ?」
「奴隷に未来なんて必要ありません。必要なのはご主人様のお言葉だけです。わたし自身が奴隷として、ご主人様に隷属し、ご主人様の為に尽くす。それが奴隷であるわたしにある唯一の意思です」
拗ねているような口調なのは、奴隷としての生き方に矜持を持っているので、それを正面から否定されているからか。
どうしようもなく歪んでいる。
「それは奴隷としての生き方しか知らないからだろ?」
「はい、わたしは奴隷ですので」
「他に楽しい事や、やるべきこと。そう言うのをこれから探して行けばいい」
悪い大人に都合の良い価値観を綺麗事で教え込まされ、これが新しい価値観だなんて胸を張って騙されている子供と言うのも意外と多い。
そんな才も情熱も無いのに魔導士を目指したり、闘技場の見世物と成り命を落としたり。
運が良ければ、大きな失敗をして自分が騙されていたと理解するし、運が悪ければ死に、酷い時には禁呪なんて物を宿して生きながらに苦しむ。
「……よくわかりません」
「そんなわからないあれこれを、未来の為に、色んな機会から学ぶんだ」
自分がなにを守るのか、自分はなにを一番大事にすべきか、正しく理解して守る物を選ぶ必要がある。
「むずかしいです……」
……難しいかなぁ。
相変わらず話が噛み合わない。
母の愛情も知らない奴隷の少女には、理解の取っ掛かりすらないのか。
どこまでも常軌から外れた場所にいるらしい。
(理を水車や歯車に例えるのは良くある話だけど……)
原因があり、結果がある。
過去の結果が教えとして聖典にまとめられている。
我欲を優先して、我欲のまま欲望に囚われ生きることは自由ではない。
奴隷とは他人の欲望の犠牲になる存在であり、奴隷がしたいだなんて歪んだ願望のまま生きることは自由とは程遠い。
(それを言ってるだけなんだけどなぁ……)
こんなにも簡単で単純な理屈なのに、歪められてしまって上手く回らない。
まるで今の世の中の縮図のようだと言うと、言い過ぎだろうか。
「やはり、きちんと夜伽をするべきではないでしょうか。学ぶと言うのでしたら、玉に不具合のあるご主人様を楽しませられるような――」
「それも最初に言ったよな? そう言うことは、夫婦同士が愛を確かめ合い、子を成す為の尊い営みであって、我欲を満たす為にやって良い事ではない。あと、女の子が玉とか言うな」
これだけ丁寧に説明しても、愛を知らない奴隷の少女は理解してくれない。
どうやら俺が一人で空回っているだけらしい。
がっくりと項垂れれば、虚しく空回る理の歯車。
ルーナは、ふっ、と思いついたように瞳の力を緩め、無造作に自分の腹部へと視線を落とした。
「赤ちゃん、わたしでも産めるんですよね?」
無邪気な子供が包丁で遊んでいる。
そんな映像が脳裏に浮かんだ。
ゾッとする程危ういことを平気で言っている。
奴隷の女が子を孕む、それが一体どういう事なのか。
奴隷の産む子が、産まれた後どうなるのか。
何故奴隷との交わりが固く禁じられるようになったのか。
それが規律になると言うことは、それなりに理由があってのことだ。
そんなことも知らずに――いや、知っている上で言っているのか?
もし、知ってる上で言ってるのだとしたら――
「ご主人様が望まれるのでしたら、わたしは――」
「子供を産むなら、益々奴隷なんて辞めないとな」
自分でも驚くくらい冷淡な声色が出た。
呆れ返っているのかも知れない。
「奴隷なんて辞めて、孤児院に入って里親と巡り合うか、まともな教養を身につけてどこか職について、それなりに安定してる身元のきちんとした男を紹介して貰え。そして家庭を作り、家族を愛し、人並みの幸せを手にして人並に満足する。それが人の手にすべき幸福であり、この上なく尊い事だ。それならいくらでも応援する」
「そうではありません、わたしがご主人様の――」
掌を向ける。
ルーナはぴたりと口を閉じる。
「さ、話は終わりだ。ろくでもない事言ってないでもう少し休もう。それともご飯にするか?」
腹の具合はわりと空腹を訴えている。
この話を続けていると飯が不味くなくなりそうだ。
ルーナは従順に口を噤ぐむのだが、綺麗な瞳はじっと俺を見上げたままだった。
無自覚なのだろうが、不服な様子だ。
なにかが……いや、なにもかもが重苦しく空回りしている。
それは分かるのだが、もうなにをどうすればいいのやら、俺にもよくわからない。
ただ、じっと訴えかけるような眼差しで見上げられている。
これだけ丁寧に未来の為にある人の自由意志と、その為にある女性と子供の大切さを説いてもこれだ。
食事を用意しようと立ち上がりかけた所へ、声を滑り込ませるように呟かれた。
「わたしはご主人様の物です。髪の毛の一本、爪の先まで、余すところ無く全部ご主人様の物です。ご主人様が子が欲しいと言うのなら、産んでご主人様に捧げます」
真っ直ぐ俺を見ながら、静かに、淡々と、とんでもねぇことを言い放つルーナ。
口にしている言葉の内容の酷さに全身に緊張が走り、中腰で固まったまま身動きが取れない。
「子を産むって……どういう事かわかってるのか?」
「なんとなく知っています。男が女を犯し、子種を女に仕込むことで、女の胎が大きくなるんですよね? 大丈夫です、ご主人様からでしたら犯されるのも望むところです。どうぞ、ご主人様のお望みのままにしてください」
思考が変な空回転をした。
「犯す、とはどういうことなのか、具体的にはよくわかりませんが、どんな酷い責め苦でも大丈夫です。耐えます」
ルーナは胸に手を当て、自身の身体を、少女の身体を示して堂々と言う。
相変わらず愛らしい顔立ちで言葉選びが最悪過ぎて、洒落になっていないし、冗談を言っている様子でもない。
剣帯も手甲も無い軽装の剣闘士姿は殆ど下着のような姿で、思考は空回転しているまま無意識のまま成長過程にある細い身体の線を視線でなぞってしまい、慌てて我に返って背筋を伸ばして首を振る。
「そんな簡単なことじゃない。とても大変で、とても尊いことなんだ」
蘇生魔法の研究が失敗に終わった結果、生命を直接操作するような魔法や魔導研究は禁呪として扱われているため、今でも出産は女性の一大仕事だ。
だから、とても大切なんだ。
「大丈夫です。どんな苦難であっても、ご主人様に喜んで頂けるのならやり遂げます」
あ。だからなのか。
綺麗な瞳を覗き込んで、気づく。
未来も女も子供も、大切ならば尚更主に捧げるべきだと、そう言う理屈か。
そう言う優先順位か。
ルーナは真っ直ぐに俺を見上げている。
美しく、いつでも覚悟を決めているような瞳なので分かり辛いが、いつでも覚悟を決めているのだ。
(だからこんなにも美しいのか……)
背筋がぞっとするようなルーナの狂気具合に、乾いた笑いが自然と浮かぶ。
「そう言うことは、それこそ自分さえ良ければいいと、無責任にやっていいことじゃなくて……子を成すには先ず結婚して家庭を築く必要があって、婚姻には双方の親族の許可と――この場合は里親とか後見人になるのか? それと聖職者が立ち合い、神の名の下に永遠の愛を誓ってから……ええと、いや、と言うか、そもそも悪魔憑きが子を成すなんてことは――」
乾いた笑いと共に、空回り上滑りする声は小さくなってしまう。
この辺の踏み込んだ話をして行けば、正しい性教育と言う分野になってくるのだろうか?
(そう言う話も、必要ならすべきかとは思っていたが……)
これは駄目だ。
これだけ長々とお説教してもこれなのだ。
それはとても大切なことだと、きちんと教えれば教える程、大事な物なのならば尚更張り切って主に捧げようと迫って来るのが容易に想像出来てしまう。
「ご主人様さえ良ければそれでいいです。それが全てです。わたしの意思や、まして他人の考えは関係ありません」
ルーナは堂々と言い切った。
相変わらず常軌がぶっ飛んでいる。
献身的な言葉のようで、まったく目の先のことしか考えていない、短絡的で身勝手な狂信に、脳裏には様々なお説教が浮かんでいるのだが、目の前にある狂気の瞳は水晶のように揺るがない。
「いや、だから、それじゃ俺が嫌なんだけど……それともなにか、俺のことを愛していますって?」
そんな訳ないだろうと投げやりに言うが、それなら話はまた変わって来て、また別種のややこしい話になる。
「奴隷がご主人様に懸想するなんて、滅相もありません。そんな感情、奴隷には不要です。ご主人様の欲望を満たすための道具としてお使い頂きたいと、そう申し上げているんです」
予想通りの返答に心底ほっとしつつ、まさかと一瞬でも身構えたこと自体がなんとなく可笑しくて自嘲する。
「……そうだな」
ほっとしたせいで気が抜けてしまい、言葉が続けられない。
気が抜けて、肩が落ちる。疲れた。
(まあ……こんなもんかぁ)
言うべきことは言ったし、聖典も渡した。
可能な限り面倒も見て、説教もした。
精一杯優しくして来たつもりだし、優しくされるべきなんだと説教もしたが、奴隷として育てられた少女がそんな直ぐに変われる訳もないようだ。
「とにかく、話は終わりだ。後はその本を読んで考えてくれ」
東南都アペリスまではあと僅かだ。
それまでの間に、俺はこの少女へ、なにをしてやれるだろう?
「申し訳ございません、わたしは文字が読めません」
「ああ、そうか」
文字が読めない奴隷の少女へ、早速してあげられることが見つかった。
「それじゃ、ご飯を食べながら読み聞かせでもしましょうかね」
空気を変えるように、殊更明るく言う。
「はい」
ルーナは何事もなかったかのように、淡々と返事をしてくれる。
(何事もない、じゃ駄目なんだが……)
気圧され狼狽え、緊張していたのは俺だけなようで、ルーナは平然とした物だ。
全ては徒労に終わる予感しかないのだが、自由の意味も知らず、愛されたこともない狂った奴隷の少女へ、こんな俺でもしてあげられることがあるなら、出来る限りはしてあげたくなるのはどうしようもないだろう。
(まぁ、なにもかも無駄になりそうなんだけど……)
力無く、虚しく、乾いた笑いが浮かぶ。
色々な重圧に押され、空回りする風車を微笑みながらも虚しく眺めている。
そんな心境だった。




