小松シリーズ第一号 その4
【4】
喫茶店を出ると、外は相変わらず寒くてすっかり暖房で甘やかされていた身体は突如滝行に晒された様な錯覚に陥った。まだ集合時間まで時間はあったがこれじゃあ歩いていくのは苦行なので、アイコンタクトで地下鉄を使うことを二人で決定した。一駅歩いたら五十円安く済んだのにとは二人とも言わなかった。言ったら歩かなくちゃいけないから、言わなかった。
梅田茶屋町に着いたのは集合時間の一時間前だった。一時間くらい時間を潰すなら紀伊国屋で立ち読みか大衆喫茶店でお茶を飲む。じゃんけんをした結果、今回は紀伊国屋の勝利。
あんなに美味しいコーヒーを飲んだ後で大衆向け量産型の並のコーヒーで舌を浸したくない。
ただ僕は本を古本屋で買う事にしているので、高い千五百円もする単行本は購入出来ない。しかし小松は今日の飲み代を犠牲にして単行本を買いたいらしく、書店でひと悶着あった。小松はどうしても楽しみにしていた単行本を買いたい、けれどそれを買うと僕が小松の飲み代を助けなくてはいけなくなる。若い男が本屋の前でガチ喧嘩、最も小松は駄々をこねるだけなので、怖い喧嘩ではない。
「小松、あの本とあの本とこの本買ったら飲み代が無くなるでしょ」
小松は鼻で笑ってみせた。喧嘩だってこの程度だ。
「バカ言ってんじゃないよ。あの本とあの本は文庫化されないかもしれないよ」
小松は店頭に並んでいる単行本を二冊掴んで離さない。
「されるよ。書店がこんなに大々的にキャンペーンしているんだから、文庫化するに決まってるよ」
「お前は本の神様かよ。本のことならなんでも分かるのかよ」
「あぁ、買うだけで満足しちゃって読むのが亀並に遅い小松よりかはわかるつもりだよ」
「言ったな? 本の読む速さなんてもんは関係無いんだぞ。速読なんてそれを売り込んで得する奴が勝手に社会にぶちまけただけだ」
そろそろ野次馬が集まりだしてきた。ここはそもそも学生の飲み会の集合場所なのだ。
「別に速読なんて話はしてないでしょ」
「いいや、読む速さのことは言ったね。そうやって逃げるんだから卑怯な奴」
野次馬は僕か小松かで別れ始めた。「もっとやれ」と応援しているのは馬鹿学生だろう。「男なら正々堂々やれ」とも聞こえる。
「いや話が脱線している。とりあえず文庫化まで待とう」
もう野次馬の目に晒されたくなかった。マスター、女難より野次馬難だよ今日は。
「逃げ口上だね。流石、逃げ足だけは早いよ。仮に文庫化されても古本屋に届くころにはあの本とあの本に対する興味は無くなっているんだ」
「それを保てないなら、小松の本に対する情熱はそこまでという話じゃん」
小松は盛大にため息をついた。さも『こいつは何も分かってない』と言いたいようだし、そう言いたかったらしい。
「本には新鮮さという要素もあるんだぜ。これを失っちゃあ、読書なんて続かない」
「なら、古本屋で売っている本に新鮮さはあるのかい?」
「あのー」
「あぁ、あるね。こう一目ぼれしちゃうんだ」
「すみませーん」
「一目ぼれ? 純情少年でもあるまいし」
「すいません!!!」
「俺は本の前ではいつでも純情な少年でいたい、何?」
「あなたが小松さん?」
「うん、そうだけど。あっ、今日飲む予定の」
「そうです。ミキと」
「マンリです」
目の前に大人しめな恰好をした女二人が、こういうのが清純派というのだろうか。小松にしては珍しい、いつも派手な女の子ばかりだっただけに、今回は違うのかと拍子抜けした。
「あー、集合時間過ぎてたか」
そうつぶやき、時計を見ると三十分も過ぎていた。後悔先に立たずで後の祭りだ。
「中々来ないから、探してたらマンリがツイッターで見つけて、『これそうじゃない?』って言うもんだから」
「ツイッター? 小松やってるか?」
「うんアカウントはある」
「私の画面が多分一番早いというか、ここは一目があるから店に移動しませんか?」