宝石少女、はじめてのりょうり()
からんからん。
乾いたベルの音が来客を告げたのは、気怠い午後の事だった。
「いらっしゃ――……って、何だ。ヒラリーか」
「何よぉー。お客サマに対して」
何時もより一層気怠げなギルの声がさらにトーンダウンしたのを見逃すはずもなく、ヒラリーの甘く色付いた唇が笑みの形に釣り上げられる。
淑女の、ともすれば肉食獣にも見えるその唇が次の言葉を紡ぐ前に、ギルは早々に戦線を離脱した。
彼に口で勝てるとは思えないし、何より、つい心情が透けて見えたくらいでこれ以上面倒に付き合わされるのもごめんである。
目があった事さえなかった事を決め込んでさっさと仕事に戻ったギルに、ヒラリーは肩を竦めつつ辺りを見回した。
大抵この時間はカウンターに居るはずのセラの姿が見当たらない。
「セラちゃんは?」
「セラは今厨房。菓子を作るんだと。……しかしまあ、お前もアレだよなぁ。間の悪い」
カウンターに腰かけたヒラリーに水を差しだすギルの目には、確かな憐憫が見て取れた。
間が悪いのはいつもの事なのに、なぜ今日に限ってこんな視線を向けられるのだろう。
訝しげに水を呷るヒラリーに肩を竦めて見せると、ギルはまた書類と格闘し始めた。なんとなく、哀愁の漂う背中である。
「ちょっとぉ。ギルド長の孫略してギル。セラちゃん呼んで頂戴」
「あのな。料理の最中に口挟めるかっての。小一時間は籠ってるし、もうしばらくしたら出て来るんじゃねーの?」
巻き込まれるのはぜってー嫌だ。面倒くさいもん。
女性への気遣いをにじませた言葉を放つその顔には、はっきりとそう書いてあった。
どうしても声を掛けたいなら自分でやれと言わんばかりに奥の扉を指さされ、ヒラリーが肩を竦めたその時――。
ドゥーン!!ボフッ。ガラガラッ
形容しがたい音の連鎖が二人の耳朶に響く。
それは、先ほど聞かされたお菓子作りなどという甘ったるい言葉では覆い隠せないほどの破壊音。
「お菓子作り……?」
「おれは止めた。ついでに、ラヴィニアも居るし、滅多な事にはならないと思いたかった……」
既にはじめから希望的観測である。
頬を引きつらせ腰を浮かせかけたヒラリーは、普段では考えられない強制力を以て椅子に押し戻された。
声に出さずとも、ギルの顔は雄弁に語る。
―― 一人で犠牲になってたまるか!!
彼も必死である。
「くっそぉ。俺の間の悪さも相当キてんなぁ畜生」
というか、これか。
先ほどあからさまに向けられた憐憫の目は、こうなる事を予測しての事だったか。
いつもの女性口調をぽいっと放り投げ、ヒラリーはぐしゃりと前髪を掻き上げた。
憐憫の内に含まれた愉楽をさほど気に留めなかった自分も殴り倒したくなるが、何より、なあなあの内に自分を引き留め、あわよくば生贄に差し出す算段であろうギルも腹ただしい。
「あー。糞ぉ。誰だ小娘に変な入れ知恵しやがったの」
「いや、何でかは知らんが、すっげー唐突だったぞ。あれは」
「じゃあ、お前か。お前のせいじゃねえか」
ピークを過ぎた軽食所を切り盛りするのは、何を隠そうギルである。
そして、セラが事を始めたのがその時間帯だとすると、たどり着くのは彼、という結論に至る訳で。
「馬鹿いうな。こちとら必死こいて仕事してるだけだっつーの」
ヒラリーに睨まれたギルは理不尽だと声を荒げ、気の立っているヒラリーがそれ応じ、またギルが――という、放っておくと一日中やっていそうな言い合いに終止符を打ったのは、
古びた厨房のドアを開ける音だった。
喧嘩の最中でも嫌に響くそれを辿った二人の視線がとらえたのは、両極端な二人の少女。
「あー。もう。酷い目にあった……」
「ラヴィニアには良くあることです。忘れましょう。……しかしまさか、卵が爆発するとは」
「きさま……自分の失敗を棚に上げてよくもいけしゃあしゃあと……」
方や頭から粉をかぶってむせるラヴィニアと、本人が引き起こした現象にも関わらず、何故か微塵も汚れていないセラの姿だった。
「ギル君ごめん。あとでしっかり掃除する……っと」
頭を染める粉を叩き落としながら息を吐いたラヴィニアの青い瞳が、ギルとその向かいに腰かけるヒラリーを映す。
「ヒラリーさん。そっか。来たのね……」
何故他ギルド所属のヒラリーが、とラヴィニアは聞かない。
代わりに、まあ不幸の代名詞だものな、とでも言いたげな視線を向けられ、これから何が始まるんだとヒラリーは引きつった笑みを返した。
「こんにちはラヴィニアちゃん。セラちゃんにちょぉーっと用事があっただけなのよぉ?でも、お忙しそうだからお暇しようと思ってた所「ヒラリー」……」
微笑んだヒラリーには、たおやかながら言葉を挟ませない威圧感が滲んでいた。
少なくとも、ラヴィニアはそう感じた。しかし、だ。今のセラには、そんなもの微塵も効果が無かったらしい。
甘いソプラノが容赦なくヒラリーのテノールを止めた。
「ヒラリー」
「……なあに?セラちゃん」
焦れたように再び呼ばれる己が源氏名に、生け贄に選ばれた事を悟る。
おれじゃ無かった!と小さくガッツポーズをする者。ごめん今度何か奢るわ、と悟った顔で片手をあげる者……前者は後で殴ろうと心に決めつつ、諦めた顔でヒラリーは微笑んだ。
今まで見てきた中で、一番純白が一番似合いそうだったとギルがのちに語ったというどうでも良い情報はおいておいて、そんなヒラリーにセラも唇をふんわりとゆるめて見せた。
傍から見れば愛らしい仕草も、今はただ、悪魔の微笑にしか見えない。
ごくりと誰ともなく喉を鳴らす音が、いやに大きく聞こえた。
あの破壊音と共に作り出された物体に思いを馳せ、ヒラリーはそっと目を伏せる。
想像が出来なかった。
否、セラの作り出すモノは想像出来なかったが、泡を吹く己の末路だけがはっきりと想像出来るとはどういう事だろう。
「ヒラリー。甘い物欲しくないですか」
――ああ、死ぬかもしれない。
久しく抱かなかった恐怖を抱え、ヒラリーはあいまいに微笑んだ。
正直、NOと言ったところで、生贄になりたくない他の二人に抑え込まれる……気はしないが、火事場の馬鹿力という物もあながち馬鹿に出来ない。
「良いかラヴィニア。逃げようとしたらヤれよ」
「大丈夫。今のわたしに出来ない事は無い……気がする」
現に、常人離れした聴覚がそんな会話を運んできたものだから、ヒラリーは観念するしかない。
良い男とは女子供に甘いのである。
「そうねぇ…」
「ですよね!ラヴィニアに教わって作って見たんです。……召し上がれ?」
ちょっとまて。今のどこに肯定があった。
ヒラリーがつっこむ間もなく差し出されたのは、ほんのりと甘く香る白い液体。
なんの変哲もない、ホットミルクだ。……外見は。
「ホットミルクです。特別に蜂蜜入りですよ」
さあ飲めほら飲め。さあ。さあ!さあ!!!
視線だけでまくし立てられれば、思わず口づけざるを得ない。
躊躇したら負けると一気に飲み乾したヒラリーに、おお!と小さな歓声が上がった。
ヒラリー……恰好は兎も角、さすが男である。
「どうですか?」
「…………普通」
失礼なコメントかもしれないが、察していただきたい。
先ほどまでの静かな戦いはなんだったのかと拍子抜けするほど普通の味だった。
子供に飲ませるような、温かくてほのかに甘いホットミルク。
「普通、ですか」
「ああ、ごめんなさいねぇ。正直……どんなゲテモノが出て来るかと思って身構えたけど」
セラの無機質な瞳がじっと自分の言葉を待っている。
それがなんだか無性におかしくて、ヒラリーは思わず噴き出てしまった。
「ヒラリー……」
「ごめんなさいねぇ。おいしかったわ。ごちそう様」
たおやかに笑うヒラリーに、セラの顔がきょとんとする。
素直に褒められるとは思わなかったらしい。
「そうですか。……よかった」
セラが一瞬笑ったように見えたのは、ホットミルクが運んできた甘い幻想かもしれない。
セラの料理()の腕は悪くない。
ただしやった事が無いのに人の話聞かないので、周りが大変な目に遭う。