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七夕の夜に

掲載日:2026/07/07

 朝早く、少しだけお散歩に出かけました。昨夜、寝る前に読んだ本は、古本屋で買ってきたもの。家に帰ってぱらっとやったらサイン本でした。ふうん。これは貴重な。絵文字のようなニッコリマークも手書きされていて微笑ましいものでした。

 カルパス頼んだんだからカルパス食べないと、頭のなかにお母さんの言葉が呪文のよう。カルパス注文したんだから家にあるのさっさと食べちゃわないと、唱えた呪文に補足をしてあげる。

―花火でも上がったら最高ですね

―花火は…… いらないかな

―お嫌いでしたか?

―いろいろ思い出しちゃうから

 そう言ってしまえば、その先を続ける人はいないでしょう。

 公園のベンチの前に運動靴が、ベンチのほうに向けられ、そろえて置かれていました。靴を脱ぎ、そのベンチに足をかけ、首でも吊ったのでしょうか。見上げると、ベンチの上の木の枝に、ロープはありませんでした。ふうん。生きては、いるようですね。白に赤と緑のラインが入ったその運動靴は、このところの雨に、ひどく濡れていました。

 どうにも妄想の類がすぎてしまいます。朝のお散歩のときに考えることなんて、ひどくくだらないことばかりです。それを隠すようにすんとして歩くものです。気持ちがいいわね、有意義で、価値あることばかりが頭を駆けめぐっています、そんな表情で。


 無為な時間です。無為な時間ではありますが、そういったことも必要な時間なのだと――


「シメキリなんだよ」

 部長は机の上にある原稿用紙に取りかかりました。シメキリというのは子猫の話題よりも優先されるのだと悲しい事実をそのとき知りました。それでも私にはできることなんて何もありませんしできません。たいへんですね、と言葉ではなく顔で表現することくらいしか。

 期待の新人として入部してきた青木くんは、その言葉が世迷言か妄想のたぐい程度であることを証明するような活躍ぶりで、三ヶ月が経ってもおろおろがやんでいません。しかし、それもしかたのないことです。期待の新人、即戦力、そんな言葉通りの活躍を目にしたこと、青木くんがあらわれるまでだって、一度もありませんでしたから。

 青木くんの第一印象は、この人、大丈夫なのかな、でした。緊張はするでしょうけど、そこまで、というような狼狽えぶりに心配を通り越して呆れてしまったのを覚えています。ネクタイが大きくズレていて、直してあげたくなるお節介心が働かないように目を背けるのがお決まりのようになったのはそのときからのことでした。

「どんな女性がタイプ?」

 半分茶化すような部長から向けられた質問は、もしかしたら青木くんのその緊張をほぐすためのものだったのかもしれません。まじめに答えるようなものでもないですし、部長にしても期待はしていなかったと思うのですが、青木くんは、

「親しくなっても敬語で話す女性です」

 と真摯に言い、少ない女性陣にジャブを放ったかに思えたのでしたが、青木くんにその意思はなかったようでした。表情で、それはわかりました。


 あ、サンドイッチ食べたい、と思って、なんでサンドイッチなのだろうと思ったときにはもうサンドイッチを食べたい気持ちは消えています。そもそもサンドイッチ、そんなに食べないですし。

 幼稚園のとき、サンドイッチは次男でした。長男はおにぎりで、おいなりさんはおじいちゃんでした。そんな話をしたところで理解なんてされませんけど。「なんの話ですか?」言葉にもされず表情だけで問いかけられるだけでしょう。でも、青木くんは違いました。

「おにぎりって、お兄ちゃんぽいですよね」

 部室にてささやかに行われた新人歓迎会の席で、ひとりだけの主役である青木くんは、テーブルの上のおにぎりを見ながらそう言って、私以外のみんなから「なんの話?」と一様にあの表情をされていました。


 跨線橋の上から、遠く地平線の先くらいに見える花火に見入る人なんてひとりもいません。しょぼい噴水がさわさわしているようです。音もないそれは、花火と教えられてもそうとは理解されないでしょう。音のない花火ほど、間の抜けたものはないのだと、その事実を知りました。

 世のなかは、多くの事実であふれています。シメキリは子猫より優先される事実。新入部員のひと言に敬語を使いはじめる女性部員がいた事実。あっけなくそれをやめてしまった事実。サンドイッチを食べたい気持ちがあっさり消えてしまう事実。あの公園で人は死ななかったという事実。音のない花火は、見るに堪えないという事実。事実で、そこらじゅうが水浸しという事実。

「あれ?」

 幼さの残るその声が、私を現実に引き戻します。顔を向けると大きくズレたネクタイがそこにありました。

「駅で会うの、初めてな気がします」

 青木くんが言って、

「ええ。そんな気がします」

 私が答えて。

 その先がお互い続きません。表情から察するに、何かを話さないといけないかなと思っている青木くんと、別にこのままでもいいと思っている私。そんな青木くんに風が助け舟を投げかけるように、にぎやかな音が耳に入ってきました。

「お祭り、やってるんですかね?」

「そうみたいですね」

 話を打ち切りたいのではないのですが、特別ふくらませたいわけでもありません。青木くんは、これから苦労するのかもなあと、多少、他人事のように思いつつ、やや下を向く青木くんがかわいそうにも思えてしまいました。落ち込ませるのは本意ではないので、

「弟はなんですか?」

 私は言って、

「え? なんです?」

 顔を上げ、青木くんは少しだけ驚きの表情になります。

「お兄ちゃんはおにぎりで、弟は?」

「ああ」

 青木くんの顔が、はっといくらか明るくなりました。

「サンドイッチです」

 その青木くんの答えに、私は明確に返答したつもりはなかったのですが、知らないうちに語っていたようです、私の表情が。

「あ、わかりますか?」

「え、ええ。わかります」

「わあ、はじめてですよ」

「そ、そうですか」

「お祭りだと……」

 電車が遅れてるとのアナウンスがあって、青木くんは途中で話をやめてしまいました。アナウンスが終わっても青木くんは話の続きをしないので、私から水を向けてみました。

「お祭りだと、なんですか?」

「あ、ああ、お祭りの、例えば、焼きそばだとなんですか、なんて、ちょっと、思って」

「焼きそばは、お父さんですね」

「ああ、はい。お母さんは、お好み焼きですか?」

「ええ」

「オムそばってのもありますね」

「それは、なんでしょうね」

「んん…… お妾さん?」

「海外の?」

「ああ、はい。ですね」

「チョコバナナは? どうですか?」

「長女的、ですか、ね」

「あんずは?」

「んん。親戚の、女の子?」

 そこは男の子じゃないかな、言葉にはしませんでしたが。でも親戚というのは、うなずけるものがありました。男と女での感覚の違い、なのかもしれません。

「今日って」

 確認をするように、青木くんは少し間をとって、

「七夕なんですね」

 私に向かって言いました。

「そうですね。忘れてました」

「僕もです」

「エビフライですね」

「え? 牛乳寒天ですよ」

「……なんで牛乳寒天なんですか?」

「なんでエビフライなんですか?」

「んん。なんででしょうか……」

 青木くんは、私が答えるまで待ってくれました。しばらく考えて、お父さんが好きだったから、との結論になり、それを青木くんに伝えました。

「誕生日か何かですか?」

「いえ、そういうのでもないんですけど」

 青木くんの疑問に「それでも七夕はエビフライだったんです」と私は言って、でも青木くんは腑に落ちないようでした。

「変わってますね」

「牛乳寒天だって……」

「いえ、ちゃんと理由があって。みかんとかパインとか天の川で輝く星みたいじゃないですか」

「……ああ、言われてみると」

「でしょ」

 遅れていた電車が、まもなく到着するとのアナウンスが入り、私たちはホームに降りました。

「またこうやって、お話しできたらって」

 電車のドアが開くその直前、青木くんが言って、

「では、次は来年にしましょう」

 乗り込みながら私が言って。

「なんで来年なんですか?」

「七夕ですから」

「ああ…… そうですね、また来年ですね」

 青木くんが納得したことを確認するかのように電車が動き出しました。青木くんは、ちゃんとわかっているのでしょうか。今日、私たちはある意味において出会って、でも次は、それが最後になってしまいます。来年の次は、私は卒業した後ですから。


 寝汗で起きた朝は、寝ていただけなのに軽く運動でもした気分。青木くんと話をした次の日の朝早く、少しだけお散歩に出かけました。まだ場所によっては新聞が届けられていないそんな時間、家を出ます。どうせちょっとだしとサンダルで出て、やっぱり少しでもちゃんと歩こう、戻って運動靴に履き替えます。仕切り直し。まずは、サンダルを脱ぐ決断をした自分をほめてあげます。

 隣の家の、玄関前に立てかけられている笹は、朝方に降った雨でくくりつけてある短冊の文字が少しにじんでいます。電線の上で小鳥たちがおしゃべりしてるだけの薄青い時間は、ときどき走り去るクルマの音さえ慎ましいものです。そのなかで、自分はどうあることがいいのかと、何をしたらいいのかと、戸惑いは隠せません。ひとまず、誰の姿もないこの世界を、自分ひとりのものと宣言してみるとか。けれどそれは儚いもの。いくらも歩かないうちに人の姿が。そりゃあそうですよね、と、なんでよ、が、複雑に絡み合います。

 ちょっとのつもりの朝早くのお散歩は、ほんとうにちょっとだけで終わりにしました。はじめの一歩の感覚が「今日はやめておいたほうがいいかもね」だったから。それをおして歩いてみたのですが、まったくのってくるものがありませんでした。そうね、確かにやめておいたほうがいいみたいね、それがすべてのあらましみたいなものでした。

 向き合うというのは疲れるものです。きちんと向き合う、ではなく、きちんと疲れる、と言い換えたほうがいいのではないかとすら思えてなりません。


 無為な時間です。無為な時間ではありましたが、そういったことも必要な時間だったのだと。それもきっと事実です。







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