8
メセトラ王国・王城大広間。
そこは現在。
異様な空気に包まれていた。
「…………」
「…………」
「…………」
誰も喋らない。
広間の中央。
巨大な絨毯の上で。
銀髪の美青年――レイが白目を剥いて倒れていたからである。
「のだぁ……」
ピクリとも動かない。
侍女たちは恐る恐る距離を取っていた。
「し、死んだ……?」
「魔王が?」
「えっ、歯で?」
女王ネフェルセトも玉座から降り、困惑した顔でレイを見下ろしていた。
「……何が起きた」
侍女長が震えながら答える。
「そ、その……」
数十分前。
レイは突然、“全国民歯磨き計画”を開始した。
「のだぁあああ!!
口は命なのだぁあああ!!」
そう叫びながら、神殿兵たちを無理やり並ばせ。
口を開けさせ。
そして。
「…………」
レイが止まった。
静止。
完全停止。
「の、のだ……?」
兵士はニコッと笑っていた。
だが。
歯が。
黄色かった。
しかも数本黒い。
さらに。
口臭。
「…………」
レイの顔から血の気が消えた。
「のだぁ……?」
兵士は気まずそうに笑った。
「へ、陛下直属の兵であります」
「…………」
「毎日香油で口をゆすいで」
「のだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
絶叫。
王城が揺れた。
「菌なのだぁああああ!!!!
細菌兵器なのだぁああああ!!!!
口の中で何を飼ってるのだぁああああ!!!」
兵士が傷ついた顔になる。
「えぇ……」
「うわぁああああ!!
歯茎赤いのだぁ!!
腐ってるのだぁ!!
怖いのだぁああああ!!!」
そして。
周囲の兵士たちも笑った。
「…………」
「…………」
「…………」
全員汚かった。
レイはフラついた。
「のだぁ……?」
その時。
近くの侍女が心配そうに口を開いた。
「だ、大丈夫ですか……?」
「のだっ?」
レイは振り返った。
侍女が微笑む。
そして。
歯。
「…………」
レイの瞳から光が消えた。
「のだぁ……」
ドサッ。
失神。
現在に至る。
広間は静まり返っていた。
侍女たちは完全に傷ついていた。
「そんなに汚いのかしら……」
「毎日香油使ってるのに……」
「ちゃんと神殿でも清めてるのに……」
女王は黙っていた。
実際。
この国では歯磨き文化が薄かった。
香油。
薬草。
香辛料。
口臭を誤魔化す文化はある。
だが“磨く”という概念そのものが弱い。
だから誰も疑問に思わなかった。
レイ以外は。
「……」
女王は倒れているレイを見下ろした。
銀髪。
整った顔。
気絶していても妙に美しい。
だが今は完全に死にかけの顔だった。
「そんなに衝撃だったのか」
侍女長が小声で答える。
「た、多分……」
その時。
「のだぁ……」
レイの指がピクリと動いた。
全員が身構える。
「のだぁ……
ここはどこなのだぁ……」
レイはヨロヨロ起き上がった。
顔色真っ青。
女王が静かに言う。
「気がついたか」
レイは女王を見た。
そして。
即座に後退した。
「歯ぁ!!」
「そこ!?」
「口閉じるのだぁ!!!
怖いのだぁ!!」
女王の額に青筋が浮いた。
「余は魔獣か」
「魔獣の方が歯綺麗なのだぁ!!」
神殿兵たちが傷ついた顔をした。
「なんでそこまで言われなきゃならんのだ……」
レイは震えながら立ち上がった。
「終わってるのだぁ……
この文明、終わってるのだぁ……」
そして。
ゆっくり空を見上げた。
「決めたのだぁ」
嫌な予感。
全員が察した。
「ま、待て」
「嫌な予感がする」
「今度は何を始める気だ」
レイはギラリと目を光らせた。
「全国民、歯磨き義務化なのだぁ!!」
「やっぱりだァーーーーーーッ!!」
広間に悲鳴が響く。
だがレイは止まらなかった。
「歯ブラシを作るのだぁ!!
塩を使うのだぁ!!
あと虫歯のやつは治療なのだぁ!!」
「む、虫歯……?」
「歯が腐る病気なのだぁ!!」
空気が凍った。
「……歯って腐るの?」
侍女の一言で、レイは完全に固まった。
「…………」
「…………」
「…………のだ?」
レイはゆっくり振り返った。
「知らなかったのだぁ?」
「えっ」
「知らなかったのだぁ!?!?」
レイは絶望した。
本気で絶望した。
「文明が!!!!
文明が低すぎるのだぁああああ!!!!!」
ガンガン床を叩く。
「嫌なのだぁ!!
怖いのだぁ!!
この国の人間、全員口の中で腐敗事件起こしてるのだぁ!!」
女王は疲れた顔で玉座に座った。
「……」
最近ずっとこれだった。
毎日。
王城のどこかで。
「汚いのだぁぁぁ!!」
という絶叫が響く。
だが。
不思議なことに。
街は以前より清潔になり、
井戸の病気は減り、
死者も減っていた。
意味不明だった。
その時。
レイが突然立ち上がった。
「行くのだぁ!!」
「どこへだ」
「全国歯科革命なのだぁ!!」
「歯科……?」
レイは黒マントを翻した。
「吾輩がぁ!!
この国の口臭を滅ぼすのだぁああああ!!!!」
その瞬間。
侍女の一人が小さく呟いた。
「……魔王というより、衛生神なのでは?」
誰も否定できなかった。




