Ep.5(終)
翌朝。
目が覚めると、志水はもう起きていた。礼拝堂の奥――光が漏れない場所で、小さなランタンに火を移している。外に漏れないよう、ガラスには布が巻かれていた。
「おはよう」
「おはようございます、志水さん」
志水は返事だけして、リュックの中身を手早く点検している。缶詰、水、布、ロープ。必要なものが“すぐ出せる順番”で並び直されていくのが見えた。
そういえば、ひとつ気になっていたことがある。
「志水さんは、どうしてこの街に?」
「調べたいことがあってね」
志水は手を止めずに言った。
「この街、やけに“奴ら”が少ない。人口密度を考えると、もっといておかしくない。なのに、痕跡はあるのに遭遇率が低い」
確かに。
僕は昨日、街を歩き回ってしまった。それでも、“決定的なもの”にはまだ出会っていない。あの血の筋と、音と、気配だけだ。
「……どうして少ないんですか?」
「それを確かめに来たの。今はまだ仮説しかない」
志水はリュックの口を閉め、視線だけを上げた。
「ここには、何かある。――それはきっと……"奴ら"が集まる場所」
志水は小さく折りたたまれた地図を取り出した。赤い印が一つだけ付いている。
「病院……ですか?」
「えぇ。遠くのビルの屋上から写真を撮ったの、これ」
志水は一枚の写真を見せてくれた。
ブロマイドだ、今時珍しい。
僕は病院の写真に息を詰まらせた。
「なんですか……これ」
受け取った瞬間、喉が詰まった。
駐車場に、無数の血溜まり。
その近くに“人だったもの”が何体もいる。
数えようとして、やめた。多すぎた。
僕がそうやって固まっている間に、リンはそそくさと荷物をまとめた。
ランタンの火を消し、僕にたった一言。
「じゃ、私は行く」
その言い方が、あまりにも軽くて。僕の喉がひきつった。
「待ってください。ひとりで、ですか」
「当然。今から私は病院の調査に行く。足手まといはいらない」
そう言って扉に手をかけた瞬間。
外のどこかで、金属が擦れる音がした。
ずる……ずる……。
志水の指が止まる。顔色は変わらないのに、空気だけが一段冷えた。
彼女は扉を開けないまま、耳を澄ませる。
しばらくして、息を吐いた。
「……近くにいる。音的から推測して、一匹か」
僕は、背中に汗がにじむのを感じながら言った。
「……あの、やっぱり僕も連れて行ってくれませんか」
志水が、初めてこちらを正面から見た。
怪訝な顔だ。
「あなたを連れて動くメリットがない」
「荷物持ちでもなんでもします。こう見えて体力だけはあるんです、ブラック企業で働いてたので!」
言い終えてから、自分でも情けなくなる。
でも引けなかった。
志水は数秒だけ考えて、淡々と告げた。
「……わかった。でも、役に立たなかったら置いていく。裏切ったら……」
言いながら斧の柄を持ち直した。
「そして、私の指示は絶対。騒いだり、喚いたりしても置いていく」
そして、ほんの少しだけ声の温度を落とした。
「守れる?」
「守れます。……守ります」
僕は反射でうなずいた。
志水は頷き、扉から手を離した。
◆
リュックから手袋や麻の布のようなものを取り出しながら、志水が僕に指示を出す。
「近くの一匹、私が斧で殺す。早瀬はそのサポートをして」
「わ、わかりました」
喉が勝手にひくりと震えた。
志水は顔も上げずに続ける。
「あなたの役目は囮ね。その間に私が後ろから頭を潰す」
「囮って……」
大丈夫なのだろうか。
「もし、それすらできないのなら、あなたのことはここに置いていくけど」
「い、いえ……。できます」
確かにそうだ。
これからもっと危険な病院に行こうってのに、たかがゾンビの一体くらい相手にできなくてどうする。
「でも、どうやって……。囮って、具体的には」
「石でも投げつければ、あなたの方に向かうはずよ」
なるほど。
そこは単純なんだな。
映画やゲームのように上手くいくかはわからないけど、指示に従うと約束したしな。
「そんな斧でゾンビの頭を破壊できるんですか?」
「何度もやってる」
志水はあっさり言った。
「手順はこう」
1.志水が先導し、僕は後ろをついてゾンビのところまで向かう。
2.志水が合図したら、僕がゾンビの目の前に踊り出て、必要なら石を投げる。
3.志水が斧でゾンビを殺す。
単純だ。
つまり、僕のやることは一つ。
ただ、ゾンビの気を引くこと、それだけだ。
命が懸かっているというのに、妙に冷静なのはどうしてだろう。
「行くよ。深呼吸して」
志水が扉に手をかける。
僕は言われた通りに息を吐く。
吐いた分だけ、胸の奥に冷たい空気が入り込む。
扉が、数センチだけ開いた。
外の光が、細い刃みたいに差し込む。
志水は動かない。
耳だけで外を読んでいるみたいに。
しばらくして、志水が小さく言った。
「……いた」
僕の心臓が、嫌な音を立てる。
次に聞こえたのは、ずるずるというあの音と、小さなうめき声。
志水は扉の隙間から、ゆっくり外へ視線を滑らせる。
「……一匹。礼拝堂。こっちに背中向けてる」
志水は扉をさらに数センチだけ押し開けた。
僕の肩に、指先が軽く触れる。
「出る。音、立てないで」
先に志水が滑り出て、僕は半歩遅れて続いた。
朝の空気が冷たい。湿った土と、錆の匂い。
入口の階段下――そこに“それ”がいた。
背中を丸め、片足を引きずっている。
服は元の色がわからないほど汚れ、皮膚は灰色に近い。
首が不自然な角度で揺れて、喉の奥から、乾いた息みたいな音が漏れていた。
「……あれが」
声にならない。
志水が、足元の小石を指で示す。
そして、視線だけで合図した。
――今。
僕は石を拾い、震える指で握りしめる。
喉が固まる。胃が縮む。
それでも、前に出た。
数歩。
“それ”の横顔が、こちらにわずかに向く。
目が、焦点を結ぶ前のガラスみたいに濁っていた。
僕は息を吸って、石を投げた。
乾いた音が地面に跳ねる。
次の瞬間、“それ”がぎくりと反応して、こちらへ顔を向けた。
――来る。
足が、勝手に一歩下がりそうになる。
志水が、低い姿勢のまま一気に距離を詰める。
斧の刃が朝の光を一瞬だけ弾いて――
鈍い衝撃音。
横薙ぎに振られた斧が、深く右耳の下くらいに突き刺さった。
“それ”の頭が、ぐらりと傾いた。
「……っ」
僕の足が止まる。
目の前で起きたことが、脳に届くより先に、胃がきしむ。
“それ”は倒れない。
反射みたいに、手だけが僕のほうへ伸びてくる。
「下がって」
志水の声は小さい。
でも命令の形をしていた。
僕は半歩、後ろへ。
志水はためらいなく、もう一度――
鈍い音がして、今度こそ“それ”の力が抜けた。
膝が崩れ、石段にだらりと沈む。
音はしないはずなのに、耳鳴りがうるさくて……。
「終わったんですか……?」
僕がかすれた声で言うと、志水は斧を引き抜きながら首を振った。
「終わり」
志水は周囲を一度だけ見回し、僕のほうを見る。
「早瀬、立てる?」
「……はい。立てます」
強がりだったけど、口に出したら少しだけ戻ってきた。
「どう?病院についてくるなら、こんなもんじゃ済まないけど」
志水が小さく言った。
僕は頷いた。
「……はい。ついていきます」
突然、志水が斧に付いた血を拭きながら、真剣な顔でこちらを見た。
「ひとつ、早瀬に言っておかなきゃいけないことがあるわ……」
「もし、あなたがゾンビと戦うことになったとき……」
「な、なんですか」
「ブラック企業時代の上司の顔を思い出してみなさい。そしたら思いっきり殺れるでしょ?」
そう言って志水は「あはは」と笑った。
冷静な人だと思っていたけど、意外と子供っぽい人なのかもしれない。
◆
病院は、街の端に建っていた。
総合病院。
白い外壁は汚れ、ガラスは割れ、正面玄関は半壊している。
大量のゾンビが駐車場にいたが、志水は"見つからない道"をどんどん進んでいった。
そして、貨物用の搬入路から、病院内に侵入することに成功した。
◆
搬入路から廊下をしばらく進んだ先、光が漏れる扉があった。
プレートには『隔離棟』の文字。
「総合病院にこんな部屋ありますか? ふつう」
「この病院は普通じゃないのよ」
志水は僕の問いに、まるで答えを”知っている”かのように答えた。
そして、そのまま扉の向こうの地下への階段をひとり、ずんずんと恐怖を感じるようでもなく進んでいく。
◆
病院の中にある、不自然な地下隔離棟の最奥。
破壊された隔壁の向こうに、ひとつだけ生きている電子端末があった。
ガラス張りの円筒。
中は空だ。
「……何も、いない?」
端末は、この円筒と接続されているのだろうか。
割れているが、かろうじて電源は入る。
画面には、短いログが表示されていた。
SUBJECT-07
状態:消失
反応対象:特定個体(記録照合不能)
備考:接触後、個体群の行動パターンに偏りを確認
「……特定個体?」
スクロールしようとした、その瞬間。
画面が一瞬だけ乱れ、文字列が書き換わる。
反応確認:成功
観測対象:早瀬 美琴
心臓が、跳ねた。
「……今、名前……」
志水も見ていた。
だが、次の瞬間には端末は沈黙し、完全にブラックアウトする。
空の円筒に、かすかに手形のような曇りが残っていた。
内側から、触れられた跡だ。
詳しいことは何もわからないままだった。
でも、僕たちは生きて病院から教会まで帰った。
一つのファイルをリュックに押し込んで。
「このファイルが必要だったのよ」
志水は一人そう呟いていた。
◆
朝が来ても、世界は元に戻らなかった。
教会の屋根越しに見る空は、相変わらず青くて、やけに綺麗だった。
それが少しだけ、腹立たしい。
志水はいつも通り淡々としていて、斧を手入れしながら次の移動先を考えている。
僕はというと、もう会社に戻る理由も、戻れる場所もない。
それでも、不思議と絶望はしていなかった。
地下で見た、端末の文字。
あれが意味するものを、まだ誰も説明できない。
けれど――
この世界は、終わったわけじゃない。
ただ、形を変えただけだ。
そう思いながら、僕は今日も志水の背中を追いかける。
壊れた世界で、生きていくために。




