Ep.4
夜になっていた。
教会の中は、昼よりもさらに静かだ。
外から聞こえていた音も、いつの間にか途切れている。
――そのとき。
かちゃり、と小さな音がした。
扉が開く音じゃない。
金属が触れ合うような、何かを外す音だ。
反射的に、教会の扉の方を見る。
いや、あそこに鍵は掛かっていなかったし、僕もかけていない。
音は、僕の後ろ側……神父が死んでいた部屋よりもさらに奥から聞こえた。
心臓が跳ねる。
僕は反射的に身を低くし、息を止めた。
足音がする。
ゆっくり、一定の間隔で。
迷いがない。
影が、礼拝堂に入ってきた。
――女だった。
背は僕より少し低いくらいだろうか。
でも、女にしてはかなり大きい方だと思う。
大きなリュックを背負い、片手には斧。
腰には、黒いホルスターが見える。
生きている人間だ。
「……あれ?」
女が、足を止めた。
「おかしいな……」
声は低く、落ち着いている。
驚きよりも、確認するような響きだった。
目が合った。
僕は、ゆっくりと両手を上げた。
女の視線が、腰のホルスターに落ちる。
抜こうと思えば、いつでも抜ける距離だった。
「…………撃たないでください」
「……人間……みたいね」
女は一瞬だけ、眉を動かした。
「はい、人間です」
「……そう」
短い沈黙が落ちた。
女は、僕を一度頭から足先まで見てから、銃から手を離した。
完全に手放したわけじゃない。
でも、さっきよりはずっと無防備だ。
「久しぶりに、ちゃんと生きてる人を見た気がする」
「……僕もです」
女は小さく息を吐き、リュックを肩から下ろす。
二十六歳くらいだろうか……ずいぶん落ち着いた雰囲気の人だ。
金髪のショートカットは毛先が不揃いで、切りっぱなしの線が残っている。
自分で切ってる。そういう雑さだ。
それに、頭頂部だけ黒い、いわゆるプリンだな。
「どこから来たの?」
「街の方から、歩いてきました」
「……そう」
それだけ言って、女は視線を外す。
しばらくしてから、こちらを見た。
「早瀬……美琴です。早瀬と呼んでください」
一拍置いて、女は短く名乗った。
「私は志水凛。とりあえず、よろしく……」
◆
「志水さん……いろいろ、聞きたいことがあるんですけど」
「なに?」
志水はリュックの中身を整理しながら、顔も上げずに返した。
「……この世界、どうなったんですか?」
その瞬間、志水の手が止まった。
ゆっくり顔を上げて、僕を見る。
はぁ?
そう言いたげな表情だった。
「……なに、それ」
「え?」
「ゾンビのこと、知ってるよね?」
「……え、ええ。もちろん」
慌てて頷く。
「映画とかで見る、動く死体で……人を襲う、あの……」
「何言ってるの?」
志水の声は低かった。
怒っているというより、困惑している。
「あんた、今までどうやって生きてきたの?」
「どうやってって……普通に」
言いながら、自分でもおかしい気がしてくる。
「働いて……生活して……」
志水は、しばらく無言で僕を見つめた。
観察するみたいに。
「……からかってる?」
「え?」
「人間社会が崩壊したあとの話をしてるんだけど」
「……社会が、崩壊?」
「そう」
志水は即答した。
「半年以上前に、ゾンビが発生したでしょう」
頭の中が、真っ白になる。
ゾンビが、発生した。
半年以上前。
神父の遺したメモ。
公園で見た、あの血痕。
全部、つながりそうで――
でも、どこか決定的に噛み合わない。
少なくとも。
僕はまだ、“それ”をこの目で見ていない。
そもそも僕は、つい一昨日までは普通にブラック企業社員だったはず。
あの時は社会は崩壊なんてしていなかった。
「僕は……つい一昨日まで、普通に働いていたんですけど……」
言い終えた瞬間、志水の動きが完全に止まった。
缶詰を掴んだまま、数秒。
ゆっくりと、僕のほうを見る。
「……一昨日?」
聞き返し方が、妙に静かだった。
驚きでも怒りでもない。
確認だ。
「はい」
喉が少し渇く。
「残業して、終電逃して……宿直室に泊まって」
志水は、視線を逸らしたまま考え込む。
指先で、リュックの縁を軽く叩いている。
「……ねえ、早瀬」
「はい」
「今日は、何月何日だと思ってる?」
一瞬、答えが詰まった。
考えなくても出るはずの日付なのに、頭の中で引っかかる。
「……えっと、たしか」
スマホを確認すると、八月二十七日と表示。
まだバッテリーは残っているが、相変わらず電波は圏外だ。
僕の認識だと、二日前までは世界は普通だった。
だから、
「……八月二十五日、です」
志水は、小さく息を吐いた。
否定もしない。
肯定もしない。
「……そう」
それだけ言って、立ち上がる。
祭壇のほうへ歩きながら、ぽつりと呟いた。
「……じゃあ、説明がつかないわね」
背中越しの声は、どこか冷静で、
それが逆に、僕を不安にさせた。
「早瀬」
振り返らずに言う。
「ひとつだけ、はっきりしてることがある」
「……なんですか」
「この世界では」
志水は、ゆっくりと言葉を区切った。
「“普通に働いてた人間”は、もう半年以上、存在してない」
◆
「ここで話すのも何だから、私が今使っている部屋に案内するわ」
「……わかりました」
志水に案内され、礼拝堂の奥へ進む。
小さな部屋の中央で、彼女はランタンに火を灯した。
揺れる光が、石造りの壁に影を落とす。
「ここが今の拠点。元々は聖具室?みたいな部屋だったみたい。窓がないから、扉にだけ気を付けていればいいってわけ」
「はぁ……。ここに半年間……一人で暮らしてるんですか?」
志水は床に腰を下ろし、リュックから水筒を取り出す。
「いいえ、本当の拠点は別にある……隣街に。……。お前を見つけたから一日だけ日程を伸ばした」
「……そうなんですね」
それ以上、言葉は続かなかった。
部屋の中には、また静けさが戻る。
遠くで、風が窓を叩く音だけがした。
「……とりあえず、今日はここにいなさい」
独り言みたいに言ってから、こちらを見る。
「あなたについてだけど……たぶん……説明をつけるなら」
一拍置いてから、志水は続けた。
「世界線移動、みたいな現象かもしれないわね」
「なんですか、突然」
「SFとか読んだことあるでしょ?そういうのかもしれないってこと」
そんな突拍子もない……。
と思ったが、確かに現実として、僕はここにいる。
それに、僕自身少しだけそうなんじゃないかと思う節もあった。
「でも、考えても仕方ないですね」
「そうね、考えても仕方のないことね」
志水は、リュックから缶詰をふたつ取り出し、床に置いた。
鯖の缶詰とヤキソバ缶詰だ。
「食べていいわ」
「……ありがとうございます。ヤキソバ缶ですか、珍しいですね」
「最近の私の中でのヒット商品よ」
缶を手に取っても、すぐには開けられなかった。
頭の中が、まだ追いついていない。
「とにかく生きていくこと、それだけを考えなさい。どんな世界でも、人間はみんなそうするしかないんだから」
「確かに、その通りですね……」
「んじゃ、私はもう寝るわ。あなたもそのへんで適当に寝なさい」
「わかりました……」
ランタンの灯りが消され、部屋は暗くなった。




