Ep.3
公園の奥のほうで、何かが倒れるような音がした。
金属が擦れるような、嫌な音。
「……人、じゃないよな」
そう呟いてから、僕はしばらく動けずにいた。
それでも、気にならないわけがなかった。
恐る恐る、音のした方向へ歩き出す。
「……すみません。誰か、いますか?」
人なのだとしたら、この状況が何なのか、聞いてみたかった。
ここで起きていることを、誰かが知っているはずだと、どこかで思っていた。
だが――。
そこに、人影はなかった。
あるのは、地面に残された一本の血の筋だけ。
何かを引きずったように、奥へと続いている。
「……なんだ」
胸を撫で下ろした、その直後だった。
「あれ……?」
足元にしゃがみ込み、血痕をよく見る。
――新しい。
今まで街で見てきた血は、どれも黒ずんで乾いていた。
それに比べて、これはまだ赤みが残っている。
「……つい、さっき?」
背中に、冷たいものが走る。
あの音を立てた“何か”が、ついさっきまでここにいたのだ。
――そう考えた瞬間、空気が一気に気持ち悪くなった。
「……怪我人、か?」
口に出してみるが、すぐに否定する。
怪我人なら、返事をする。
助けを求めるはずだ。
「……動物?」
それも、しっくりこない。
こんなに真っ直ぐ、人の生活圏を通るだろうか。
理由を探すほど、違和感だけが増えていく。
僕は、無意識のうちにリュックの肩紐を強く握っていた。
ここに長居するべきじゃない。
「……やめだ」
それ以上考えるのをやめて、踵を返す。
背中を向けた瞬間、風の音がやけに大きく聞こえた。
振り返らずに、足を速める。
――そのとき、
自分が何かから逃げ始めていることだけは、はっきり分かっていた。
◆
僕は足早にその場を離れた。
背後を振り返らない。
理由は分からないが、今はそうしたほうがいい気がした。
「……家は、まずいよな」
自宅アパートの光景が、頭をよぎる。
壊れた階段。
半開きのドア。
血の跡。
あそこは、隠れる場所じゃない。
逃げ場もない。
「……安全な場所を探そう」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
条件を、頭の中で整理する。
まず、人が入りにくいこと。
できれば、入口が少ない。
見晴らしがよくて、近づくものが分かる。
それから――逃げ道があること。
「……意外と、難しいな」
住宅街は論外だ。
ドアも窓も多すぎる。
商店街もダメ。
開けすぎている。
歩きながら、周囲を観察する。
壊れた車。
倒れた看板。
乾いた血の跡。
それらが、どこにでもあることが、逆に怖かった。
ふと、遠くに大きな建物が見えた。
コンクリート造りで、窓が少ない。
「……あれは」
体育館。
それとも、倉庫か。
一瞬、足が止まる。
広い場所は、安心なようでいて危険だ。
「……違う」
首を振る。
広すぎる。
音が響く。
隠れ場所も少ない。
そのとき、視界の端に尖った屋根が映った。
「……あれは……」
十字架。
古びた石造りの、小さな教会だった。
住宅街の端にひっそりと建っていて、周囲に高い建物はない。
「……教会、か」
派手な建物じゃない。
人も多く出入りする場所じゃない。
少なくとも、家よりはマシだ。
近づくにつれて、胸の鼓動が早くなる。
自分の足音が、やけに大きく聞こえた。
入口は正面の扉ひとつだけ。
横には小さな窓がいくつかあるが、位置は高い。
「…………」
扉の前で立ち止まり、耳を澄ます。
中から、物音はしない。
風に揺れた十字架が、きい、と小さな音を立てた。
それだけで、肩が跳ねる。
「……誰か、いますか」
声は、思っていたよりも小さくなった。
返事はない。
取っ手に手をかける。
冷たい金属の感触が、はっきりと伝わってきた。
この先に、何があるかは分からない。
でも、今は入るしかなかった。
「……失礼します」
そう呟いて、僕はゆっくりと扉を押した。
蝶番が、ぎい、と低く鳴る。
その音が、やけに遠くまで響いた気がした。
――教会の中は、思った以上に静かだった。
祈りのための椅子が、整然と並んでいる。
埃は積もっているが、荒らされた様子はない。
「……誰も、いない……?」
しかし、祭壇の前。
見たこともないほど赤黒い血溜まりが広がっていた。
声にならない息が、喉から漏れた。
僕は、落ち着くために、ゆっくりと息を吸おうとして、やめた。
空気の中に、微かに鉄の匂いが混じっている気がしたからだ。
――ここは、安全な場所じゃない。
それは、もう疑いようがなかった。
僕は、ゆっくりと後ずさりし、来たほう――正面の扉に視線を向けた。
ここから出るべきだ。
そう思った、そのとき。
ずる……
扉の向こうで、何かを引きずるような音がした。
反射的に、息を止める。
もう一度。
ずる……ずる……
さっき聞いた音と、同じだ。
しかも――近い。
「……っ」
取っ手に伸ばしかけた手を、思わず引っ込めた。
この扉を開けたら、確実に音が出る。
そして、その音は――外にいる“何か”に届く。
外のほうが、危険だ。
そう理解した瞬間、視界の端に、別のものが映った。
祭壇の上。
そこに、ひとまとめに置かれた紙とペンがあった。
「……?」
近づいて、紙を一枚拾い上げる。
走り書きの文字。
力が入りすぎたのか、ところどころ線が震えている。
――必死なメモだった。
『外はだめだ。
みんな外に出て、奴らの仲間になってしまった。
嫌だ、私は死にたくない。
嫌だ嫌だ嫌だ。
でも、私はもう一人になってしまった。
食料も水も、もう尽きる。
それならいっそ――』
そこから先は、書かれていない。
「……外は、だめだ」
今読んだ言葉を、そのまま口に出す。
この教会は安全じゃない。
でも――外よりは、まだマシだ。
そう判断した人間が、確かにここにいた。
僕は、教会の中へさらに身を引いた。
音を立てないように、息を殺して。
◆
僕は、礼拝堂の奥へと視線を向けた。
祭壇の裏手に、半開きの扉がある。
「……」
外の音は、まだ扉の向こうだ。
ここを確認するなら、今しかない。
音を立てないように、慎重に近づく。
扉を押すと、軋みもなく、静かに開いた。
中は、小さな部屋だった。
司祭の控室か、物置のような場所だろう。
窓はなく、空気がひどく淀んでいる。
――そのときだった。
「……あ」
思わず、声が漏れた。
人が、いた。
床に倒れている。
黒い服。
年配の男。
一瞬、胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
生きているかもしれない。
話せるかもしれない。
この世界で、ようやく見つけた――人間だ。
そんな、あり得ない期待が、ほんの一瞬だけ膨らむ。
「……大丈夫ですか」
声をかけながら、近づく。
だが、すぐに違和感に気づいた。
動かない。
呼吸の気配がない。
男の首元に、痕があった。
紫色に変色した、はっきりとした輪。
視線を上げると、天井から垂れ下がったロープの切れ端が見えた。
途中で、無残にちぎれている。
「……そうか」
誰に言うでもなく、呟いた。
久しぶりに見た、人間だった。
でも、この人は、もう生きていない。
メモの言葉が、頭をよぎる。
『外はだめだ』
この人は、最後まで教会を守った。
外に出なかった。
それだけは、間違いない。
僕は、ゆっくりと一歩、後ずさった。
「…………」
小さく頭を下げ、扉を閉める。
ロープの切れ端が、わずかに揺れた。
礼拝堂に戻ると、相変わらず静かだった。
外の音も、今は聞こえない。
ここは、ひとまず安全だ。
――少なくとも、この人が生きていた間は。
僕は、椅子のひとつに腰を下ろし、深く息を吐いた。
◆
礼拝堂の椅子に座り、僕はしばらく動けずにいた。
静かだ。
あまりにも、静かすぎる。
頭の中に、あの言葉が浮かぶ。
――奴ら。
メモを書いた人は、そう呼んでいた。
人でも、動物でもない。
名前を与えるのを、途中でやめたみたいな呼び方だ。
「……ゾンビ、ってやつか?」
小さく呟いて、すぐに首を振る。
映画やゲームの中の話だ。
現実にあるわけがない。
でも。
血の残り方。
音への反応。
そして、外に出た人間が“仲間になる”という言葉。
全部を一つの言葉にまとめるなら、
それしか思いつかなかった。
「……だったら」
声が、喉の奥で止まる。
助けを呼ぶ声がない理由も。
街から人が消えた理由も。
教会が、まだ壊されていない理由も。
全部、説明がついてしまう。
納得したくなかった。
でも、考えないほうが危険な気がした。
僕は、祭壇のほうを見た。
あの血溜まり。
もしもあれが、ゾンビのようなものの仕業だとするなら。
理解したくなかった答えが、
少しずつ、形になり始めていた。




