表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

Ep.3

 公園の奥のほうで、何かが倒れるような音がした。

 金属が擦れるような、嫌な音。


「……人、じゃないよな」


 そう呟いてから、僕はしばらく動けずにいた。


 それでも、気にならないわけがなかった。

 恐る恐る、音のした方向へ歩き出す。


「……すみません。誰か、いますか?」


 人なのだとしたら、この状況が何なのか、聞いてみたかった。

 ここで起きていることを、誰かが知っているはずだと、どこかで思っていた。


 だが――。


 そこに、人影はなかった。


 あるのは、地面に残された一本の血の筋だけ。

 何かを引きずったように、奥へと続いている。


「……なんだ」


 胸を撫で下ろした、その直後だった。


「あれ……?」


 足元にしゃがみ込み、血痕をよく見る。


 ――新しい。


 今まで街で見てきた血は、どれも黒ずんで乾いていた。

 それに比べて、これはまだ赤みが残っている。


「……つい、さっき?」


 背中に、冷たいものが走る。


 あの音を立てた“何か”が、ついさっきまでここにいたのだ。

 ――そう考えた瞬間、空気が一気に気持ち悪くなった。


「……怪我人、か?」


 口に出してみるが、すぐに否定する。


 怪我人なら、返事をする。

 助けを求めるはずだ。


「……動物?」


 それも、しっくりこない。

 こんなに真っ直ぐ、人の生活圏を通るだろうか。


 理由を探すほど、違和感だけが増えていく。


 僕は、無意識のうちにリュックの肩紐を強く握っていた。

 ここに長居するべきじゃない。


「……やめだ」


 それ以上考えるのをやめて、踵を返す。

 背中を向けた瞬間、風の音がやけに大きく聞こえた。


 振り返らずに、足を速める。


 ――そのとき、

 自分が何かから逃げ始めていることだけは、はっきり分かっていた。



 ◆



 僕は足早にその場を離れた。

 背後を振り返らない。

 理由は分からないが、今はそうしたほうがいい気がした。


「……家は、まずいよな」


 自宅アパートの光景が、頭をよぎる。

 壊れた階段。

 半開きのドア。

 血の跡。

 あそこは、隠れる場所じゃない。

 逃げ場もない。


「……安全な場所を探そう」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。

 条件を、頭の中で整理する。


 まず、人が入りにくいこと。

 できれば、入口が少ない。

 見晴らしがよくて、近づくものが分かる。

 それから――逃げ道があること。


「……意外と、難しいな」


 住宅街は論外だ。

 ドアも窓も多すぎる。


 商店街もダメ。

 開けすぎている。

 歩きながら、周囲を観察する。

 壊れた車。

 倒れた看板。

 乾いた血の跡。

 それらが、どこにでもあることが、逆に怖かった。

 ふと、遠くに大きな建物が見えた。

 コンクリート造りで、窓が少ない。


「……あれは」


 体育館。

 それとも、倉庫か。

 一瞬、足が止まる。

 広い場所は、安心なようでいて危険だ。


「……違う」


 首を振る。

 広すぎる。

 音が響く。

 隠れ場所も少ない。


 そのとき、視界の端に尖った屋根が映った。


「……あれは……」


 十字架。

 古びた石造りの、小さな教会だった。

 住宅街の端にひっそりと建っていて、周囲に高い建物はない。


「……教会、か」


 派手な建物じゃない。

 人も多く出入りする場所じゃない。

 少なくとも、家よりはマシだ。

 近づくにつれて、胸の鼓動が早くなる。

 自分の足音が、やけに大きく聞こえた。

 入口は正面の扉ひとつだけ。

 横には小さな窓がいくつかあるが、位置は高い。


「…………」


 扉の前で立ち止まり、耳を澄ます。

 中から、物音はしない。

 風に揺れた十字架が、きい、と小さな音を立てた。

 それだけで、肩が跳ねる。


「……誰か、いますか」


 声は、思っていたよりも小さくなった。

 返事はない。


 取っ手に手をかける。

 冷たい金属の感触が、はっきりと伝わってきた。

 この先に、何があるかは分からない。

 でも、今は入るしかなかった。


「……失礼します」


 そう呟いて、僕はゆっくりと扉を押した。

 蝶番が、ぎい、と低く鳴る。

 その音が、やけに遠くまで響いた気がした。

 ――教会の中は、思った以上に静かだった。


 祈りのための椅子が、整然と並んでいる。

 埃は積もっているが、荒らされた様子はない。


「……誰も、いない……?」


 しかし、祭壇の前。

 見たこともないほど赤黒い血溜まりが広がっていた。

 声にならない息が、喉から漏れた。


 僕は、落ち着くために、ゆっくりと息を吸おうとして、やめた。

 空気の中に、微かに鉄の匂いが混じっている気がしたからだ。

 ――ここは、安全な場所じゃない。

 それは、もう疑いようがなかった。


 僕は、ゆっくりと後ずさりし、来たほう――正面の扉に視線を向けた。

 ここから出るべきだ。

 そう思った、そのとき。


 ずる……


 扉の向こうで、何かを引きずるような音がした。

 反射的に、息を止める。


 もう一度。


 ずる……ずる……


 さっき聞いた音と、同じだ。

 しかも――近い。


「……っ」


 取っ手に伸ばしかけた手を、思わず引っ込めた。

 この扉を開けたら、確実に音が出る。

 そして、その音は――外にいる“何か”に届く。


 外のほうが、危険だ。


 そう理解した瞬間、視界の端に、別のものが映った。

 祭壇の上。

 そこに、ひとまとめに置かれた紙とペンがあった。


「……?」


 近づいて、紙を一枚拾い上げる。

 走り書きの文字。

 力が入りすぎたのか、ところどころ線が震えている。


 ――必死なメモだった。


『外はだめだ。

 みんな外に出て、奴らの仲間になってしまった。

 嫌だ、私は死にたくない。

 嫌だ嫌だ嫌だ。

 でも、私はもう一人になってしまった。

 食料も水も、もう尽きる。

 それならいっそ――』


 そこから先は、書かれていない。


「……外は、だめだ」


 今読んだ言葉を、そのまま口に出す。


 この教会は安全じゃない。

 でも――外よりは、まだマシだ。

 そう判断した人間が、確かにここにいた。

 僕は、教会の中へさらに身を引いた。

 音を立てないように、息を殺して。



 ◆



 僕は、礼拝堂の奥へと視線を向けた。

 祭壇の裏手に、半開きの扉がある。


「……」


 外の音は、まだ扉の向こうだ。

 ここを確認するなら、今しかない。

 音を立てないように、慎重に近づく。

 扉を押すと、軋みもなく、静かに開いた。


 中は、小さな部屋だった。

 司祭の控室か、物置のような場所だろう。

 窓はなく、空気がひどく淀んでいる。


 ――そのときだった。


「……あ」


 思わず、声が漏れた。


 人が、いた。


 床に倒れている。

 黒い服。

 年配の男。

 一瞬、胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


 生きているかもしれない。

 話せるかもしれない。

 この世界で、ようやく見つけた――人間だ。

 そんな、あり得ない期待が、ほんの一瞬だけ膨らむ。


「……大丈夫ですか」


 声をかけながら、近づく。


 だが、すぐに違和感に気づいた。


 動かない。

 呼吸の気配がない。

 男の首元に、痕があった。

 紫色に変色した、はっきりとした輪。


 視線を上げると、天井から垂れ下がったロープの切れ端が見えた。

 途中で、無残にちぎれている。


「……そうか」


 誰に言うでもなく、呟いた。

 久しぶりに見た、人間だった。

 でも、この人は、もう生きていない。


 メモの言葉が、頭をよぎる。


 『外はだめだ』


 この人は、最後まで教会を守った。

 外に出なかった。

 それだけは、間違いない。

 僕は、ゆっくりと一歩、後ずさった。


「…………」


 小さく頭を下げ、扉を閉める。

 ロープの切れ端が、わずかに揺れた。


 礼拝堂に戻ると、相変わらず静かだった。

 外の音も、今は聞こえない。


 ここは、ひとまず安全だ。

 ――少なくとも、この人が生きていた間は。


 僕は、椅子のひとつに腰を下ろし、深く息を吐いた。

 


 ◆



 礼拝堂の椅子に座り、僕はしばらく動けずにいた。

 静かだ。

 あまりにも、静かすぎる。

 頭の中に、あの言葉が浮かぶ。


 ――奴ら。


 メモを書いた人は、そう呼んでいた。

 人でも、動物でもない。

 名前を与えるのを、途中でやめたみたいな呼び方だ。


「……ゾンビ、ってやつか?」


 小さく呟いて、すぐに首を振る。

 映画やゲームの中の話だ。

 現実にあるわけがない。


 でも。


 血の残り方。

 音への反応。

 そして、外に出た人間が“仲間になる”という言葉。


 全部を一つの言葉にまとめるなら、

 それしか思いつかなかった。


「……だったら」


 声が、喉の奥で止まる。


 助けを呼ぶ声がない理由も。

 街から人が消えた理由も。

 教会が、まだ壊されていない理由も。


 全部、説明がついてしまう。


 納得したくなかった。

 でも、考えないほうが危険な気がした。

 僕は、祭壇のほうを見た。

 あの血溜まり。


 もしもあれが、ゾンビのようなものの仕業だとするなら。

 

 理解したくなかった答えが、

 少しずつ、形になり始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ