Ep.2
「…………」
目を開けた瞬間、天井が見えた。
染みの浮いた、ボロい木造の天井。
「……ここは……」
数秒遅れて、意識が追いつく。
「……僕の家、か」
久しぶりに帰ってきたような気がした。
最近は毎日、会社の宿直室で寝ていたからだ。布団の硬さも、天井の低さも、妙に懐かしい。
「そういえば……変な夢を見たな」
街が崩壊していて。
人が一人もいなくて。
なのに、いたるところに血痕が残っている。
まるで、世界の終わりみたいな夢。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
さすがに現実なわけがない。疲れていたんだ。飲み過ぎたし、仕事も詰まっていた。
――本当に、夢だったのか?
胸の奥が、ひくりと痛んだ。
怖くなって、天井から目を逸らせない。
「……いや、起きなきゃ」
もしも、あれがすごくリアルな夢だっただけなら。
今すぐ着替えて、会社に行かないといけない。
そう思って、ゆっくりと身体を起こした。
その瞬間。
「…………?」
視界に入った光景に、動きが止まる。
部屋が、昨日と同じだった。
倒れた机。
引き抜かれた引き出し。
床に散らばった書類と衣類。
そして――
ベッドの脇、床に残ったままの、乾いた血の跡。
「……あ」
喉が鳴る。
夢なら、片づいているはずだ。
夢なら、こんなもの、残っているわけがない。
恐る恐る、床に足を下ろす。
靴下の裏に、ざらりとした感触が伝わった。
血だ。
昨日と同じ場所に、同じ形で、同じ色で。
「…………」
頭の中で、何かが音を立てて崩れた。
これは、夢じゃない。
少なくとも――
まだ、終わっていない。
僕は、息をすることさえ忘れたまま、荒れ果てた部屋の真ん中に立ち尽くしていた。
◆
共有の廊下に出てみると、やっぱり世界は昨日のままだった。
異様なほどの静けさと、風の音だけが耳に届く。
朝日が、遮るものもなく僕の顔をじりじりと照りつけていた。
「あれ……」
思わず空を見上げた。
青い。妙に澄んでいる。雲の輪郭がくっきりしていて、現実感だけが無駄に強い。
「……こんなに、空って綺麗だっけ」
言った瞬間、自分の声が震えているのがわかった。
綺麗だと思ったんじゃない。
怖いから、何か別の言葉を口に出しただけだ。
息を吸う。
冷たい。肺の奥まで、変に入ってくる。
昨日の部屋。血の跡。
割れた窓。崩れた街。
それを思い出そうとすると、胃のあたりがジリジリと痛む。
「……落ち着け」
誰に言うでもなく呟いて、手すりに触れた。
指先にざらついた感触。埃。時間の匂い。
いま起きていることは、夢じゃない。
ふと、昨日コンビニで拝借したペットボトルのことを思い出す。
あのとき感じた、妙な罪悪感。
罪悪感が残っていることが、逆に変だった。
この状況で、まだそんなものを気にしている自分が。
「……そういえば、会社」
声は、思ったより小さかった。
言い聞かせるみたいに、もう一度だけ心の中で繰り返す。
行けるわけがない。
あんな街で。あんな建物で。
仕事なんて言ってる場合じゃない。
会社どころか、社会すらもう機能していないだろう。
「あんなに壊れてたし……仕事なんて、言ってる場合じゃないよな」
それにこの街に人はいない……少なくとも僕が見つけられる範囲では。
もしかすると、僕は異世界に迷い込んだのだろうか。
昨日の夜、流れ星に願ったように。
僕以外の全ての人類が消えたのだとしたら……。
そう考えるしかないくらい、僕は今の状況に戸惑っていた。
考えれば考えるほど、理由は見つかる。
そして、理由が増えるほど、胸の奥が少しずつ軽くなっていった。
そうか、会社にいかなくていいのか。
最悪な上司も、うざい同僚ももういない。
「……それに」
コンビニの食べ物だって。
スーパーの商品だって。
「……全部、持って行ってもいいんじゃないか?」
その考えが浮かんだ瞬間、
不思議と、悪いことを思いついた気はしなかった。
きっとこれは流れ星の神様が、可哀想な僕にくれた自由……なのかもしれない。
そう考えることにした。
◆
気づけば、僕は最寄りのスーパーに向かって歩いていた。
会社の近くのコンビニじゃない。
ここは、自宅から一番近い、いつも使っていた店だ。
自動ドアは開いたまま、閉まる気配もない。
中に足を踏み入れると、ひんやりとした空気と、どこか生臭い匂いが鼻をついた。
店内は荒れていた。
棚は倒れ、商品は床に散乱し、カゴやカートが放置されたままになっている。
「……まあ、そうだよな」
昨日の街の様子を思い出しながら、独り言を呟く。
僕は自然と酒売り場に足を向けた。
いつもなら、安い発泡酒か缶チューハイで済ませる。
値段を見るのも嫌で、素通りしていた棚。
今日は、違った。
海外のクラフトビール。
一本五百円以上するやつ。
聞いたこともない銘柄のIPAやスタウト。
「……どうせ、誰も怒らないし」
一本、また一本と、リュックに入れていく。
ついでに、普段は“贅沢品”扱いしていた缶詰コーナーへ。
牛タンの赤ワイン煮。
鴨肉のコンフィ。
蟹のほぐし身。
「……マジかよ」
値段を見て、思わず笑ってしまう。
給料日でも迷うようなやつばかりだ。
でも、今日は迷わなかった。
レジの前で、ほんの一瞬だけ立ち止まる。
昨日なら、まだ罪悪感があったかもしれない。
今日は、ない。
「……まあ、世界がこんなだしな」
言い訳とも独り言ともつかない言葉を残して、僕は店を出た。
スーパーの裏に、小さな公園がある。
昼間は子どもで賑わうはずの場所は、今は風の音だけが支配していた。
ベンチに袋を置き、僕はブランコに腰掛ける。
鎖が、きい、と小さく鳴った。
「……はは」
思わず、笑いがこぼれる。
高いビールを昼間から飲んで。
高級な缶詰を、誰にも遠慮せずに開ける。
缶を開ける音が、公園にやけに大きく響いた。
ひと口飲むと、苦味の奥に、はっきりした香りが広がる。
「……うま」
今まで、なんで買わなかったんだろう。
そんなことを考えて、すぐにどうでもよくなる。
ブランコを軽く蹴る。
ぎい、ぎい、と揺れるたび、視界に青い空が広がった。
仕事もない。
怒られることもない。
比べられる相手もいない。
「……最高じゃん」
そう呟いた、そのとき。
公園の奥のほうで、何かが倒れるような音がした。
金属が擦れるような、嫌な音。
僕は、ブランコを止めて耳を澄ます。
「……人、じゃないよな」
答えは返ってこない。
ただ、風に揺れたブランコだけが、いつまでも軋んでいた。




