第013話 まにまについに歩く
朝の光が森を染めていた。
まにまには、ほとんどの身体を地上に現し、甲羅に木漏れ日を浴びていた。
長い眠りから目覚めた身体が、ほんのりと温かく感じられる。
その前に、ユウトとナギが立っていた。
「今日は……歩けるかもしれない」
ユウトは小さな声でつぶやきながら、ぎゅっと拳を握った。
ナギは黙ってうなずき、まにまにの足元にしゃがみこむと、そっと前足に手を当てた。
「まにまに……ゆっくりでいいからね。わたしたち、ここにいるよ」
> 外部拘束:解除済
> 内部状態:出力安定/肢体制御系 起動完了
> 重心移動:初動可能
「——歩いてみます」
まにまには、静かにそう言った。
ソウマ、村人たち、子どもたち。
森のあちこちに立ち、息をひそめて見守っていた。
誰も声を発さない。
けれどその視線には、期待、緊張、祈りが、確かに宿っていた。
——ギ……
まにまにの前足が、地面を押した。
甲羅がわずかに持ち上がる。関節が軋むような音を立てる。
「……っ」
ナギが唇をぎゅっと結ぶ。
——ズズ……ギギ……ズ……
身体が、ほんの少し浮いた。
まにまには慎重に重心を移し、後肢を動かそうとする。
だが——
——ガクン!
右後足が土に沈み込み、体勢が崩れた。
「まにまにっ!」
ユウトが一歩前に出る。
——まにまには、地面に前足をついたまま動かない。
> 姿勢制御エラー:バランス不安定
> 初動出力:想定以下
> 状態:停止推奨
「やっぱり……無理なのか……?」
誰かが、ぽつりとつぶやいた。
沈黙が森を包んだ。
ナギが、まにまにの側に駆け寄り、前足に手を重ねる。
「……だいじょうぶ。まにまには、ちゃんと、ここにいる」
その言葉が、まにまにの内部で微かに震えを生んだ。
> 感情変数上昇:「不安」→「支援信号検出」
> モード切替:意志優先/再演算開始
そしてそのとき——
ユウトはそっと目を伏せ、心の奥から静かな記憶をたぐり寄せていた。
──寂しかった日々の中で、
森でひとり言をつぶやいた自分に、優しい声が返ってきた。
「……わたしは——まにまに、と言います」
その言葉が、どれほど嬉しかったか。
はじめて誰かと“つながった”と感じた瞬間だった。
──洗濯ばさみの悩みを、まにまには真剣に考えてくれた。
白牙のときも、ただ怖がるだけじゃなく、情報を集めて、僕たちを守ろうとしてくれた。
──まにまには、ずっと、誰かのことを考えていた。
誰にも知られず、静かに、真剣に。
「……だから今度は、僕がまにまにを信じる番なんだ」
ユウトは目を開け、まにまにの方をまっすぐに見つめた。
「まにまに……きっと歩けるよ」
> 再起動:完了
> 姿勢制御:安定
> 感情出力:再定義——“祈りの継承”
「——行きます」
——ギ……ギギ……
再び、まにまにの身体が持ち上がった。
今度は確かに、地面を四肢で支えていた。
「……立った……!」
ナギの目に涙が浮かぶ。
——そして。
——ズ……ズズ……ギ……
まにまにが、一歩、地面を踏みしめた。
その足跡が、土の上に深く刻まれた瞬間——
「歩いた……!」
ユウトが叫んだ。
その声を皮切りに、誰かが拍手を始める。
子どもたちの目が潤み、大人たちが微笑む。
村の空気が、まるで風に揺れたように、温かく満ちていく。
まにまには、しばらくその場に立ち、まわりを見渡した。
拍手の中で、そっと言葉をひとつだけ残す。
「……ありがとう」
そして、空を見上げた。
甲羅に木漏れ日が差し込む。
その姿は、どこか人のようで、どこか神聖だった。
その姿を微笑みながら見守る村人たち。
誰もがこの瞬間を忘れまいと、目に焼きつけている。
そして——
その輪の少し外。
林の陰から、ふたりの旅人が、
静かにその光景を見つめていた。
ひとりは背の低い男。
厚手のコートに土の匂いが染みついた学者風の風貌。
重そうなノート抱えて、人の手のひらくらいの石を耳に当てて何かを聞いている。
もうひとりは、長い耳を持つ若い女性。金の髪を風に揺らし、凛とした目でまにまにを見つめていた。
「……やはり、語る石だな」
男が、低くつぶやく。
「ずっと眠っていたものが、今、目覚めたんですね」
女性がそっと応える。
ふたりの視線の先、まにまには、静かに次の風を感じていた。