表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/12

追跡開始

あの朝から、すでに二日が過ぎていた。


トマス・ベインは、小さな作業机に身を屈め、黙々と書類に向かっていた。

かすれたペン先を走らせ、偽造した許可証に最後の署名をなぞる。


指先は冷たく、肩はひどくこわばっていた。

焦りは、とうに限界を超えている。

だが──一文字でもミスをすれば、すべてが水の泡だ。

それだけは絶対に許せなかった。


(……三日。三日程度の遅れなら、まだ追いつける……はずだ。)


自分に言い聞かせながら、ペンを置く。


書類を乾かし、封印用の古いスタンプを押す。

中央管理局の紋章──本物と見紛う精緻な銀色が浮かび上がった。


「……できた。」


声は、かすれていた。


──リサ。


名を呼びかけそうになり、トマスは唇を噛んだ。


ずっと、妹分みたいな存在だと思っていた。

生意気で、頑固で、でも眩しいくらいまっすぐな彼女を。

困った顔で世話を焼きながら、少し誇らしくも感じていた。


けれど、彼女が危険な道に踏み出したと知ったとき。

そして、今こうして、必死で書類を偽造している自分に気づいたとき──


(──違う。)


胸の奥にあるのは、ただの兄のような情ではなかった。

彼女を、失いたくない。

その思いだけが、燃えるように胸にあった。


トマスは机から立ち上がった。

まだ終わっていない。

上司への許可取りが残っている。


港湾局の事務所に向かうと、薄暗い部屋の奥で、上司のカルロスが煙草をくわえていた。


「……何だ、トマスか。こんな朝っぱらから。」


トマスは、事前に用意していた台詞を冷静に口にする。


「はい。〈セイル河〉方面で水質調査の追加指示が出ました。中央管理局からの応援要請ということで……。」


カルロスは煙を吐き、眉をしかめた。


「今かよ。あっちは雨季だろ。」


「それでも、です。小規模な問題が出てるそうです。……俺一人で十分ですが。」


そう言いながら、偽造した応援要請書を差し出した。


カルロスは訝しげにそれをめくり、しばらく煙をくゆらせながら考え込む。

やがて、面倒くさそうに吐き捨てた。


「……まぁ、いい。あっちは今、まともに連絡も取れねえしな。」


トマスは、胸の奥でそっと息を吐いた。


「許可を、いただけますか。」


「ああ、好きにしろ。ただし、戻ったらきっちり報告書を出せよ。」


「承知しました。」


トマスは深く頭を下げた。


──これで、町を出られる。


馬屋へ駆け込むと、マルクが用意してくれていた栗毛の若駒が待っていた。

力強く、荒れた道にも耐えられる馬だ。


鞍に飛び乗り、手綱を握りしめる。

冷たい風が、顔を叩く。


リサの顔が脳裏に浮かんだ。

笑っている顔。怒っている顔。

それから──あの夜、ひどく真剣な眼差しで、自分に何かを伝えようとした表情。


(待ってろ、リサ。)


今度こそ、失わないために。


トマスは馬腹を蹴った。


蹄の音が、港町アレンの石畳に響き渡る。

北東へ。

セイル河を目指して──彼女を追って。


馬蹄が土を蹴るたび、ぬかるみが跳ねた。

トマスはマントの裾を気にする暇もなく、〈セイル河〉沿いの街道を急いでいた。


途中、いくつかの小さな村を訪ね、さりげなくリサの聞き込みをしていく。

「若い女?……ああ、そういえば見たな」

「川のほうへ歩いてたよ。何か探してるようだったな」


断片的な情報を拾いながら、トマスは確信を深めていった。

リサは間違いなく、あの夜、自分が恐れていた方角へ向かったのだ。


(待ってろよ……リサ)


胸が締め付けられる。

ただの妹分だと思っていた。

真面目で、意地っ張りで、でも、まっすぐなその姿が、いつしか心の支えになっていたことに、今さら気づく。


(お願いだから、無事でいてくれ──)


村をいくつか越えたときだった。

突然、リサの情報が途絶えた。


トマスの背筋が冷たくなる。


(消えた……?)


急ぎ馬を走らせ、一つ前の村へと引き返す。

リサの姿は、どこにもない。


不吉な予感が、胸を締め付けた。


トマスは手綱を強く引き、川辺へと向かう。


──そして、見つけた。


彼女のイヤリングだ。

母親の形見で、リサと妹が一つずつ分けていたものだと、覚えている。


地面に落ちた、かすかな足跡。

踏み荒らされた草。

それに、何かを引きずったような、深く抉れた土の跡。


(リサ……!)


直感的に、トマスは馬を降り、跡を追って森へと駆け込んだ。

冷たい風が、木々を揺らす。

視界はすぐに悪くなり、霧が立ち込め始める。


それでも、彼はひたすら走った。

思考より先に、体が動いた。


だが──


どれほど追っただろう。

ふと気づくと、跡はぷつりと途絶えていた。

どこにも、引きずられた痕跡はない。


「……くそっ!」


トマスは拳で木を叩いた。

冷たい痛みが手に走る。


(なんで……考えなしに飛び込んだんだ……)


焦りに任せた行動を悔いた。

馬は置き去り、地図も方角もわからない。


そして何より、リサのことが、たまらなく心配だった。


あたりは、じわじわと闇に包まれ始める。

夜の森は、別世界だ。

どこかで、獣の唸るような声が響いた。


──ガサリ、と。


茂みが揺れる。

振り返った瞬間、トマスはそれを見た。


鋭い牙をむき、低くうなる灰色のオオカミ。

目が、ぎらぎらと光っている。


「……チッ」


トマスはすぐさま背を向け、駆け出した。

後ろで、オオカミたちが吠え、森をかき分けて追ってくる。


闇の中、木々の間を縫うように走る。

枝が顔を叩き、地面が滑る。


息が切れる。

心臓が喉から飛び出しそうだった。


それでも、リサの名前だけが、トマスを走らせた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ