追跡開始
あの朝から、すでに二日が過ぎていた。
トマス・ベインは、小さな作業机に身を屈め、黙々と書類に向かっていた。
かすれたペン先を走らせ、偽造した許可証に最後の署名をなぞる。
指先は冷たく、肩はひどくこわばっていた。
焦りは、とうに限界を超えている。
だが──一文字でもミスをすれば、すべてが水の泡だ。
それだけは絶対に許せなかった。
(……三日。三日程度の遅れなら、まだ追いつける……はずだ。)
自分に言い聞かせながら、ペンを置く。
書類を乾かし、封印用の古いスタンプを押す。
中央管理局の紋章──本物と見紛う精緻な銀色が浮かび上がった。
「……できた。」
声は、かすれていた。
──リサ。
名を呼びかけそうになり、トマスは唇を噛んだ。
ずっと、妹分みたいな存在だと思っていた。
生意気で、頑固で、でも眩しいくらいまっすぐな彼女を。
困った顔で世話を焼きながら、少し誇らしくも感じていた。
けれど、彼女が危険な道に踏み出したと知ったとき。
そして、今こうして、必死で書類を偽造している自分に気づいたとき──
(──違う。)
胸の奥にあるのは、ただの兄のような情ではなかった。
彼女を、失いたくない。
その思いだけが、燃えるように胸にあった。
トマスは机から立ち上がった。
まだ終わっていない。
上司への許可取りが残っている。
港湾局の事務所に向かうと、薄暗い部屋の奥で、上司のカルロスが煙草をくわえていた。
「……何だ、トマスか。こんな朝っぱらから。」
トマスは、事前に用意していた台詞を冷静に口にする。
「はい。〈セイル河〉方面で水質調査の追加指示が出ました。中央管理局からの応援要請ということで……。」
カルロスは煙を吐き、眉をしかめた。
「今かよ。あっちは雨季だろ。」
「それでも、です。小規模な問題が出てるそうです。……俺一人で十分ですが。」
そう言いながら、偽造した応援要請書を差し出した。
カルロスは訝しげにそれをめくり、しばらく煙をくゆらせながら考え込む。
やがて、面倒くさそうに吐き捨てた。
「……まぁ、いい。あっちは今、まともに連絡も取れねえしな。」
トマスは、胸の奥でそっと息を吐いた。
「許可を、いただけますか。」
「ああ、好きにしろ。ただし、戻ったらきっちり報告書を出せよ。」
「承知しました。」
トマスは深く頭を下げた。
──これで、町を出られる。
馬屋へ駆け込むと、マルクが用意してくれていた栗毛の若駒が待っていた。
力強く、荒れた道にも耐えられる馬だ。
鞍に飛び乗り、手綱を握りしめる。
冷たい風が、顔を叩く。
リサの顔が脳裏に浮かんだ。
笑っている顔。怒っている顔。
それから──あの夜、ひどく真剣な眼差しで、自分に何かを伝えようとした表情。
(待ってろ、リサ。)
今度こそ、失わないために。
トマスは馬腹を蹴った。
蹄の音が、港町アレンの石畳に響き渡る。
北東へ。
セイル河を目指して──彼女を追って。
馬蹄が土を蹴るたび、ぬかるみが跳ねた。
トマスはマントの裾を気にする暇もなく、〈セイル河〉沿いの街道を急いでいた。
途中、いくつかの小さな村を訪ね、さりげなくリサの聞き込みをしていく。
「若い女?……ああ、そういえば見たな」
「川のほうへ歩いてたよ。何か探してるようだったな」
断片的な情報を拾いながら、トマスは確信を深めていった。
リサは間違いなく、あの夜、自分が恐れていた方角へ向かったのだ。
(待ってろよ……リサ)
胸が締め付けられる。
ただの妹分だと思っていた。
真面目で、意地っ張りで、でも、まっすぐなその姿が、いつしか心の支えになっていたことに、今さら気づく。
(お願いだから、無事でいてくれ──)
村をいくつか越えたときだった。
突然、リサの情報が途絶えた。
トマスの背筋が冷たくなる。
(消えた……?)
急ぎ馬を走らせ、一つ前の村へと引き返す。
リサの姿は、どこにもない。
不吉な予感が、胸を締め付けた。
トマスは手綱を強く引き、川辺へと向かう。
──そして、見つけた。
彼女のイヤリングだ。
母親の形見で、リサと妹が一つずつ分けていたものだと、覚えている。
地面に落ちた、かすかな足跡。
踏み荒らされた草。
それに、何かを引きずったような、深く抉れた土の跡。
(リサ……!)
直感的に、トマスは馬を降り、跡を追って森へと駆け込んだ。
冷たい風が、木々を揺らす。
視界はすぐに悪くなり、霧が立ち込め始める。
それでも、彼はひたすら走った。
思考より先に、体が動いた。
だが──
どれほど追っただろう。
ふと気づくと、跡はぷつりと途絶えていた。
どこにも、引きずられた痕跡はない。
「……くそっ!」
トマスは拳で木を叩いた。
冷たい痛みが手に走る。
(なんで……考えなしに飛び込んだんだ……)
焦りに任せた行動を悔いた。
馬は置き去り、地図も方角もわからない。
そして何より、リサのことが、たまらなく心配だった。
あたりは、じわじわと闇に包まれ始める。
夜の森は、別世界だ。
どこかで、獣の唸るような声が響いた。
──ガサリ、と。
茂みが揺れる。
振り返った瞬間、トマスはそれを見た。
鋭い牙をむき、低くうなる灰色のオオカミ。
目が、ぎらぎらと光っている。
「……チッ」
トマスはすぐさま背を向け、駆け出した。
後ろで、オオカミたちが吠え、森をかき分けて追ってくる。
闇の中、木々の間を縫うように走る。
枝が顔を叩き、地面が滑る。
息が切れる。
心臓が喉から飛び出しそうだった。
それでも、リサの名前だけが、トマスを走らせた。