【リサ視点】奇跡を疑う罪
あの夜から、どれほど歩いただろうか。
重い靴音を、湿った土が吸い込んでいく。
リサ・クレインは、くたびれたマントの裾を引きずりながら、〈セイル河〉沿いの小道を歩いていた。
空気は湿り、川の水は澄んでいる。
普通の人なら、気づきもしない。
市場では、まだ川魚が売られ、子供たちは水辺ではしゃいでいる。
誰も、中央湖に異変が起きているなどとは思っていない。
けれど──トマスの資料を見る限り、水質に変化があるのは間違いない。
奇跡の源。
命の水。
この国の土台すら支えてきた、絶対の存在。
それが、もし……。
リサは、胸元の布袋をぎゅっと握った。
中には、水質検査用の簡易試薬と、わずかな銀貨。
それだけを頼りに、彼女は歩き続けていた。
(……私は、見過ごせない。)
冷たい霧が、足元を覆い始める。
雨が降る前に、次の村へ辿り着かなければ。
疲労と焦りが、リサの背を押していた。
小さな村の外れに、ひっそりと水場があった。
昼下がり。
村人たちは家に引っ込み、広場も静まりかえっている。
リサは、誰にも気づかれぬよう、水場にしゃがみこんだ。
腰の袋から、試薬の小瓶を取り出す。
そっと、水をすくい、数滴垂らした。
──じわり、と。
試薬の色が、ほんのわずかに濁った紫色に変わる。
リサは、息を呑んだ。
(やっぱり……。)
普通なら、透明な青に染まるはずだった。
わずかだが、異常反応が出ている。
リサは震える指先で、瓶を布で包み、急いで袋にしまった。
──だが。
水場の奥、古びた木立の影。
一対の視線が、じっと彼女を見つめていた。
黒衣をまとった男。
男は音もなく身を翻し、森の中へと消えた。
獲物に気づかれぬよう、確実に、しかし急ぎながら。
"奇跡の源"を疑う者。
それはこの国において、許されざる大罪だった。
リサは、水場を離れた。
村外れの小道を、急ぐでもなく、しかし確実な足取りで進んでいく。
霧が、じわじわと濃くなり、視界を奪っていく。
背後に潜む気配に、リサは気づかなかった。
リサは、次の村に向かう途中、小さな支流を見つけた。
木々に囲まれた人けのない場所。
ここなら、誰にも見られず水質調査ができる。
リサは、ふたたび試薬を取り出し、水をすくう。
ひどく慎重に。
誰にも見つからないように。
──だが、その様子もすべて、密偵の目に焼き付けられていた。
リサが試薬を垂らす。
またも、わずかに紫色に濁る。
リサは、小さく肩を震わせ、素早く荷物をまとめた。
だが、次の瞬間。
──かすかな足音。
リサは、背後を振り返った。
「──っ……!」
抵抗する間もなかった。
意識が、闇に引きずり込まれる。
地面に崩れ落ちる直前、リサはかすかに思った。
(……だめだ、まだ……確かめてない……)