雨の湖、沈む鼓動
夜の港に、湿った潮風が吹き込んでいた。
古びた食堂の個室で、三人は静かにスープをすすりながら、言葉を選んでいた。
トマス・ベインは、窓の外に目を向ける。
そこには──かすんだ空の向こうに思い描かれる、あの湖の姿があった。
中央湖。
世界の心臓。
無限に続く雨の源。
大陸の中央に広がる、その広大な湖は、はるか昔から人々に「命の源」として崇められてきた。
湖の中央には、天から巨大な水の柱が降り注いでいる。
それは、まるで天空に開いた裂け目から流れ出す滝のようだった。
その飛沫が絶え間ない霧となり、大陸一帯に降り注ぐ雨を生んでいた。
湖は、溢れることも、枯れることもない。
どれだけ雨が降ろうと、湖面は穏やかにたゆたい、静かに複数の大河を生み出している。
その川は、大地を潤し、川を下れば、汚染された下流の水も、海の沿岸までも清めてきた。
人々はそれを「奇跡」と呼び、中央湖を神の御業だと信じた。
──信じるしかなかった。
だが。
トマスは、ゆっくりと目を伏せる。
湖の水は、すでに……。
彼は、帳面を指で叩きながら口を開いた。
「……海だけじゃないんだ。
湖も、汚れてる。俺たちが思ってる以上に、深く。」
リサ・クレインが、スプーンを止めた。
エネルギッシュな彼女の瞳から、わずかに色が引いていく。
「……中央湖が、ですか?」
マルク・ハインズも、顔をしかめた。
「冗談じゃねえな」と呟く声は低く、重い。
トマスはうなずいた。
「川の水質が、海へ流れ出る前から異常を示してる。
計測機器が検出できるかできないかってレベルだった。けど、微細な汚染が、確実に増えてる。
湖から流れ出す時点で、すでに清らかじゃなくなってるんだ。」
リサが苦しげに息を飲んだ。
「でも、そんな……あそこは……。
あの光も、雨も、ずっと変わらなかったはずなのに……。」
トマスは、机の上に広げた地図を指差した。
中央湖を起点に、そこから放射状に広がる川の網。
だが、その一本一本が、わずかに、じわじわと、病んでいる。
「外洋の異変、確かに気づいてた。
でも、もしかしたら……それは、もっと根本から始まってる。
──中央湖そのものが、崩れ始めてるのかもしれない。」
マルクが低く呻くように言った。
「……世界の心臓が、腐ってきてるってことか。」
重苦しい沈黙が流れた。
古びた航海図が、風にあおられてかすかに揺れた。
リサは、拳を握りしめながら、かすれた声で問う。
「もし……湖が本当にだめになったら、私たちは、どうなるんでしょうか。」
トマスは答えなかった。
答えられるはずもなかった。
ただ、どこまでも続く雨の音が、暗い夜を叩き続けていた。
──そして、その雨は、もう、清らかではないのかもしれなかった。
リサ・クレインは、固く結んだ唇を開いた。
「じゃあ……私たちにできることは、ないんですか?」
声は小さかったが、その奥に、燃えるような決意がにじんでいた。
彼女は目を伏せ、震える拳を机の上に置いたまま続ける。
「このまま見てるだけなんて、いやです。
このまま、全部壊れていくのを……何もしないで、待つなんて──。」
トマスは、何も言えなかった。
頭では分かっている。
リサの言う通りだ。
だけど──。
中央湖までは、ここから馬車で一か月。
そこに至る道は過酷で、しかも、王国の認可がなければ湖へ立ち入ることすらできない。
認可が降りるのは、厳選された王国直属の技術者や聖職者のみ。
一般の民間人に許可が下りることなど、まずありえなかった。
「……難しい。」
トマスは、搾り出すように言った。
「下手に動けば、目をつけられる。
湖に近づこうとする者は……昔から、消されるって噂もある。」
マルク・ハインズが、どっかりと背もたれに体をあずけた。
無精髭を指でこすり、苦い顔をする。
「リサ、俺には無理だ。」
声は低く、断ち切るようだった。
「俺には、家族がいる。
嫁と、まだ小せぇガキもいる。
……目をつけられたら、それだけじゃすまねえ。
連中は、家ごと潰すぞ。」
リサは、痛々しそうに顔をゆがめた。
「でも……!」
「わかってる。」
マルクは、力なく手を振った。
「気持ちはわかるよ。
けどな、勇ましい言葉だけじゃ、家族は守れねえ。」
静かな沈黙が、また落ちた。
窓の外では、港の灯りがぼんやり揺れ、
錆びたクレーンが風に軋む音だけが聞こえていた。
──国に逆らった者は、どうなるか。
トマス・ベインは、知っていた。
忘れることのできない記憶だった。
子供の頃。
ある朝、目が覚めたときには、両親は忽然と姿を消していた。
理由を尋ねても、祖父は頑なに口を閉ざし、ただ一言だけ、低く言った。
「国に、逆らっちゃだめだ。」
それ以上は何も教えてもらえなかった。
何をしたのかも、どこへ行ったのかも──。
だが、それだけで充分だった。
世界のしくみを、痛いほど思い知らされた。
(あの時も……誰も助けてはくれなかった。)
トマスは、ゆっくりと資料を閉じた。
冷たくなった酒に口をつけ、喉に流し込む。
「……考えよう。」
トマスは低く言った。
「今は、動く時じゃない。だが、目を背けもしない。少なくとも──目の前で起きてることを、見続けよう。」
リサは、悔しそうに唇を噛みながらもうなずいた。
マルクも、黙ったまま頷いた。
そして三人は、港の夜に静かに沈んでいった。
世界の雨に濡れながら。