表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/12

静かな異変

港の一角にある、古びた食堂。

壁には色あせた航海図が掛かり、木製の柱には、長年の潮風に晒された深い傷が刻まれている。

夜の帳が降り、外は冷たい海風が吹き荒れていた。


トマス・ベインは、リサ・クレインとマルク・ハインズを誘い、静かな個室で簡素な夕食を囲んでいた。

机の上には煮込みスープと固いパン、そして地元産の粗い酒が並んでいる。


「この店、初めて入りました!」

リサがにこにこと笑い、スプーンを握りしめる。

彼女は小柄な体にエネルギーを詰め込んだような女性で、目を輝かせながら新しい場所に胸を躍らせていた。


「昔からある、港の連中向けの場所さ。」

マルクはそう言うと、大きな体を椅子に沈め、無造作にパンをちぎる。

無愛想に見えるが、素朴で温かい心を持つ男だった。

その太い指には、数えきれないほどの網の跡と、小さな傷痕が刻まれている。


気軽な世間話がしばらく続いた。

リサは最近の港の噂話を面白おかしく話し、マルクはそれに時折ぼそっと突っ込みを入れる。

笑い声が静かに個室に満ち、まるでここだけ時がゆったりと流れているようだった。


──だが、トマスは内心で焦りを隠しきれなかった。

今日、こうして二人を呼び出したこと自体、本当はためらいがあった。

下手に騒げば、自分たちが妙な目で見られるかもしれない。

それでも──この異変を、一人で抱え続けるには限界があった。


酒を一口あおった後、トマスはついに声を潜めた。


「……海のことだ。」


二人の視線がトマスに向く。

リサは目を瞬かせ、マルクは眉をひそめた。


「最近、沖合で魚が減ってるって話、聞いたことないか?」

トマスは静かに尋ねた。


リサは肩をすくめる。

「まあ、乱獲とか、そんな話なら……別に珍しくないんじゃないですか? 学者たちも、昔から言ってますよね。」


マルクも無造作にスープをすすりながら、うなる。

「魚なんざ昔から増えたり減ったりだ。ちょっとした周期みたいなもんさ。」


──やはり、そうだ。

トマスは心の中でわずかに肩を落とした。

常識を覆す話を、すんなり受け入れてもらえるはずがない。


それでも、今夜ここで話さなければ、何かが取り返しのつかないことになる気がした。


トマスはゆっくりと懐から書類を取り出した。

ページの隅は擦り切れ、何度も指でなぞった跡が残っている。

そこには、彼が密かにまとめた異変の記録がびっしりと書き込まれていた。


「これを見てくれ。」


リサは興味半分で身を乗り出し、マルクは面倒くさそうに書類を手に取った。

最初、二人はどこか半笑いだった。

だが──めくるページが進むごとに、徐々にその表情が変わっていく。


魚の減少率が、単なる乱獲では説明できないほど急激であること。

特定の種類に偏らず、幅広い生物種に影響が出ていること。

外洋へ向かう水質サンプルが、目に見えないレベルで劣化している事実──。


リサはページをめくる指を止め、唇をきゅっと引き結んだ。

いつもの好奇心に満ちた目が、静かに揺れている。


マルクは書類から顔を上げ、低くつぶやいた。

「……冗談だろ。」


誰より現場を知る彼だからこそ、データが示す異常さを本能で理解していた。


「これ……ほんとに、間違いないんですか?」

リサが小さく尋ねた。

声には、かすかな震えがあった。


トマスは小さくうなずく。

「公式の発表じゃ隠されてる。でも、現場の数字は……嘘をつかない。

……世界は、静かに壊れ始めてる。」


マルクは大きな手で顔を覆った。

「……クソ。何で誰も、何も言わねぇんだ。」


トマスは帳面を握りしめた。

「気づいている者も、いるだろう。でも、見て見ぬふりをしている。

……もしくは、意図的に隠しているのかもしれない。」


答えのない重苦しい言葉が、個室に沈み込む。

古びた航海図の下で、三人はそれぞれ違う未来を思い描きながら、沈黙した。


外では、港の遠くで、錆びたクレーンが風にきしみながら揺れていた。

それは、まだ誰も気づかない、小さな崩壊の前兆だった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ