静かな異変
港の一角にある、古びた食堂。
壁には色あせた航海図が掛かり、木製の柱には、長年の潮風に晒された深い傷が刻まれている。
夜の帳が降り、外は冷たい海風が吹き荒れていた。
トマス・ベインは、リサ・クレインとマルク・ハインズを誘い、静かな個室で簡素な夕食を囲んでいた。
机の上には煮込みスープと固いパン、そして地元産の粗い酒が並んでいる。
「この店、初めて入りました!」
リサがにこにこと笑い、スプーンを握りしめる。
彼女は小柄な体にエネルギーを詰め込んだような女性で、目を輝かせながら新しい場所に胸を躍らせていた。
「昔からある、港の連中向けの場所さ。」
マルクはそう言うと、大きな体を椅子に沈め、無造作にパンをちぎる。
無愛想に見えるが、素朴で温かい心を持つ男だった。
その太い指には、数えきれないほどの網の跡と、小さな傷痕が刻まれている。
気軽な世間話がしばらく続いた。
リサは最近の港の噂話を面白おかしく話し、マルクはそれに時折ぼそっと突っ込みを入れる。
笑い声が静かに個室に満ち、まるでここだけ時がゆったりと流れているようだった。
──だが、トマスは内心で焦りを隠しきれなかった。
今日、こうして二人を呼び出したこと自体、本当はためらいがあった。
下手に騒げば、自分たちが妙な目で見られるかもしれない。
それでも──この異変を、一人で抱え続けるには限界があった。
酒を一口あおった後、トマスはついに声を潜めた。
「……海のことだ。」
二人の視線がトマスに向く。
リサは目を瞬かせ、マルクは眉をひそめた。
「最近、沖合で魚が減ってるって話、聞いたことないか?」
トマスは静かに尋ねた。
リサは肩をすくめる。
「まあ、乱獲とか、そんな話なら……別に珍しくないんじゃないですか? 学者たちも、昔から言ってますよね。」
マルクも無造作にスープをすすりながら、うなる。
「魚なんざ昔から増えたり減ったりだ。ちょっとした周期みたいなもんさ。」
──やはり、そうだ。
トマスは心の中でわずかに肩を落とした。
常識を覆す話を、すんなり受け入れてもらえるはずがない。
それでも、今夜ここで話さなければ、何かが取り返しのつかないことになる気がした。
トマスはゆっくりと懐から書類を取り出した。
ページの隅は擦り切れ、何度も指でなぞった跡が残っている。
そこには、彼が密かにまとめた異変の記録がびっしりと書き込まれていた。
「これを見てくれ。」
リサは興味半分で身を乗り出し、マルクは面倒くさそうに書類を手に取った。
最初、二人はどこか半笑いだった。
だが──めくるページが進むごとに、徐々にその表情が変わっていく。
魚の減少率が、単なる乱獲では説明できないほど急激であること。
特定の種類に偏らず、幅広い生物種に影響が出ていること。
外洋へ向かう水質サンプルが、目に見えないレベルで劣化している事実──。
リサはページをめくる指を止め、唇をきゅっと引き結んだ。
いつもの好奇心に満ちた目が、静かに揺れている。
マルクは書類から顔を上げ、低くつぶやいた。
「……冗談だろ。」
誰より現場を知る彼だからこそ、データが示す異常さを本能で理解していた。
「これ……ほんとに、間違いないんですか?」
リサが小さく尋ねた。
声には、かすかな震えがあった。
トマスは小さくうなずく。
「公式の発表じゃ隠されてる。でも、現場の数字は……嘘をつかない。
……世界は、静かに壊れ始めてる。」
マルクは大きな手で顔を覆った。
「……クソ。何で誰も、何も言わねぇんだ。」
トマスは帳面を握りしめた。
「気づいている者も、いるだろう。でも、見て見ぬふりをしている。
……もしくは、意図的に隠しているのかもしれない。」
答えのない重苦しい言葉が、個室に沈み込む。
古びた航海図の下で、三人はそれぞれ違う未来を思い描きながら、沈黙した。
外では、港の遠くで、錆びたクレーンが風にきしみながら揺れていた。
それは、まだ誰も気づかない、小さな崩壊の前兆だった。