違和感
トマス・ベインは、港湾管理局の小さな事務所で静かにデスクワークをしていた。
外には灰色の空が広がり、薄汚れた風が吹き込んでくる。
湿った空気が、机の上に置かれた紙の束を重たくしていた。
彼の目の前には、漁業関連の報告書や統計データが山積みになっていた。
その中でも、特に目を引くのは、年々提出される魚類収穫量の減少を示すデータだった。
「乱獲が原因だ」という学者たちの解釈を、当初はトマスも疑うことなく受け入れていた。
だが、彼の心に小さな違和感が芽生えたのは、祖父の言葉を聞いたあの日からだった。
トマスの祖父は、かつて漁師として海に生きた男だった。
寡黙で人付き合いは苦手だったが、子供の頃からトマスには不器用な優しさを見せてくれた。
彼は家にいる時、海にまつわる話をぽつりぽつりと語ってくれた。
だが、自分の漁のことや、仕事の苦労についてはほとんど話さなかった。
そんな祖父と昨年、久しぶりに再会したとき、彼は静かに語った。
「魚が減ったのは乱獲じゃない。爺さんの頃はもっと漁師がいたし、乱獲で特定の魚が減ったこともあった。だが、最近の減り方は違う。近場の魚は減っちゃいないが、沖合では極端に魚が減っている。種類を問わず、だ。」
祖父は悔しそうに、かすかに震える手を握りしめながら、遠くの海を見つめていた。
その言葉は、トマスの心に深く突き刺さった。
祖父は学問に通じているわけではなかったが、嘘や思いつきで物を言うような人ではなかった。
だからこそ、トマスは信じた。
──この違和感を、無視してはいけない。
祖父の言葉を聞いて以来、トマスの中にくすぶっていた疑念は、次第に無視できないものとなっていた。
データの上では、魚の減少は「乱獲による自然な結果」と片付けられている。
だが、祖父の観察、そしてトマス自身が港で感じる違和感──それらは、机上の理屈だけでは説明がつかなかった。
トマスは、勤務の合間を縫って密かに調査を始めた。
港湾局に保管されている過去の航海記録、水質検査の報告書、古い漁師たちの聞き取り──表向きは「趣味の資料整理」という名目で、誰にも気づかれないよう動いた。
最初は、目立った成果はなかった。
だが、断片的なデータを積み重ねていくうち、彼はある事実に気づく。
──中央湖から流れ出る川の水質が、数年前から微妙に変化している。
それは、公式には「問題ない」とされる程度のわずかな汚れだった。
しかし、中央湖から絶え間なく流れ出る澄んだ水が、汚染された川や海を押し流し、世界を守ってきた。
人々が好き勝手に廃棄物を川に投げ捨てても、大きな問題にならなかったのは、すべて湖の水が洗い流してくれるからであり、中央湖の浄化能力は神の聖なる恵みだと信じられていた。
──だが今、その浄化の力が、ほんの少しずつ、確実に弱まってきている。
トマスは息を呑んだ。
ほんのわずかな変化でも、長い時間をかければ大きな影響となる。
湖の力が衰えれば、汚染は押し流されることなく滞留し、やがて海全体を蝕んでいくだろう。
「もしかしたら、外洋の汚染は想像よりはるかに進んでいるのかもしれない。」
トマスは、初めて背筋に冷たいものが這い上がるのを感じた。
すでに、世界は静かに、音もなく、壊れ始めている。