風赦〜走馬の追憶〜
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私が……おそばに居なければ……わた……しが居なければ——。
「——当方滅亡……」
暗殺者が見下ろす先にある板床の血溜まりの中でそう一声放つと……。
男はそのまま事切れてしまったのであった。
ーー ーー
「ふ〜ん、めっさ良い城らしいじゃねぇか、さすがは資長だな」
その十一歳くらいの若君は、まだ幼さの残るその姿を大きく見せたいがためにうんと背筋を伸ばし、前を見たままそう言った。
「あんな草が伸び伸びぼーぼーの原っぱで何もない所にと思ったが……。その様に聞けば、たしかに江戸でその城を築くのは理にかなっているな。……やるではないか」
だが、褒めた割にはつまらなさそうな顔を作っている。
「お褒め頂きましたこと、恐悦至極に存じます」
穏やかな声で礼を言うと、その青年は聡明さをたたえているかのように揺れる切長の瞳を伏して片膝を折ると、ゆっくり頭を下げた。
その優雅な仕草が気に入らなかった若君は、真横に伸びていた木の枝を強引に一本折り取り、先をくわえてがりがりと噛んでいる。やはり斜め後ろにいる資長の方は見ないで言葉を続けた。
「お前はほんっと頭いいよな〜。賢いし、人がいいから女にもモテるし……。クソだな」
「ありがとうございます」
「ほざけ」
嫌味を言ったのに全く動じないどころか微笑ましげに自身を見て笑っている資長に、若君はついに噛んでいた枝をぶん投げた。
その飛んできた枝を顔の前で二本の指を使ってピシリと挟んで受け止めると、優しげな声で青年は口を開く。
「若君も聡明であられる」
「ほざけ、私は馬鹿の類だ」
「気概があって雄々しい気質であられるので頼もし」
「ほざけ、ただの我が強いわがままだって言われてんぞ」
「気品と教養があふれ出ております」
「ほざけ、それはお前の事だ」
一言一言に拳を添えてくる若君の返事をサッサと避けながら、資長はさらに笑む。
「そのような事……。そうそう、私など以前、鷹狩りの際に雨に見舞われ、蓑を借りようとした所にその農家の娘が山吹を差し出してきたので謎に思って城の年寄り(家来)へその事を話しました所、古歌を引用してこの家には蓑すらないと言っていたのだ。そんな事も知らぬのですかと言われ、顔から火が吹き出したものです。情けなし」
「私もそのような古歌、知らん」
すべてかわされた拳を収めて若君はふんと息をついてから、またしても横を向いて山の切り立った崖の上から町を見下ろしている。
やれやれといった顔で資長は立ち上がると、
「おい、立つんじゃねぇ。背が高くてムカつく」
その飛んできた言葉にまた片膝を折った。
しばらく無言で二人が眼下をのぞんでいると、さやさやと初夏の爽やかな風が頬に触れ、髪を揺らしながら通り過ぎてゆく。
「……若君」
ふいに資長が呼ぶ。
「何だよ」
いくらか落ち着いた声が返ってきたのでそのまま言葉を続けた。
「私のこの身は扇谷上杉の——ひいては若君のもの。私ごときが賢いと仰せならば、若君が成人した暁には存分にこの身をお使いくださいませ。その日まで、精進してお待ちしておりますので」
そうニコリと笑ってみたが、
「……自分より頭の悪いヤツじゃ、裏切るんじゃねぇの?」
またもや不機嫌が戻ってきた若君は前を見たままだった。
そよそよと吹き続ける風に、草がなびく。
さらりと小さくその音を聞いた時、資長が口を開いた。
「裏切りません」
妙に力強い声音に、若君はつい振り向く。
「……口先だけだ。先の事など分から——」
「決して」
いつものように悪態づいた言葉を、さらに力のこもった口調で遮られた。
物腰の柔らかいこの男にしては珍しい強気を感じて、若君は内心で動揺する。
「なぜそのように断言できる? お前ほどの者なら、自分より愚かな者などもどかしく思うであろうな」
「思いません」
またしてもキッパリと言い切られて、若君はますます戸惑う。
「だから! 何でそう断言できるのだ?」
「何故と言われましても——」
混乱してブチ切れてこられた事にも不思議な様子を見せて、資長は答えるのだった。
「その『愚か』とおっしゃる所も含めて、私は貴方様の全てを好ましく思うておりますゆえ」
「………………は?」
思いもよらなかった事を言われて、若君は目を丸くしてしまった。
「……いや、普通、そう言う所は疎ましいものだろう」
「そうでしょうか? よく言うではありませんか、『馬鹿な子ほど可愛——いえ、ゴホッ! グフッ!」
「聞こえたぞ! 本性をあらわしたな!」
資長の失言にすかさず拳を飛ばしたが、空振りに終わって若君は舌打ちをした。
「……ふん。まぁいい。本当にこの私をお前は裏切らないのだな?」
「はい」
「絶対だな?」
「必ず」
若君は片膝をついている資長の目の前に立つと、腕を組んで目いっぱいふんぞり返って言うのだった。
「なれば生涯、私たちの側に……いや、後ろについているのだぞ。……よいな」
承知。と頭を下げた資長の耳に、小さく声が降ってきた。
「……私も別に、お前の事わりと好きだし」
目を見開いて仰ぎ見ると、若君はバツの悪そうに、しかし顔をわずかに赤くして横を向いているのを見た。
ぱっと嬉しそうな笑顔を見せた資長が小憎たらしく感じて若君は蹴りを繰り出したが、やはりかわされてしまうのであった。
ーー ーー
……夢?
意識を取り戻した定正がうっすら目を開くと、広がる空がぼんやりと見えた。
「お、お気づきになられましたーーーー!」
「あぁ」
地に仰向けになって横たわっている自身に向かって口々に叫んでいる家来達の顔が、目の前で次々とひしめいてくる。
「——」
一体何が? そう問いたかったが、身体中の激痛で口元すら動かせなかった。
——苦しい……。駄目だこれは。死ぬな、私は。
達観したかのように悟ると、定正は先ほど見た夢を再度思い返してみる。
(随分と昔の事なのに、実に鮮明な……。結局わたしは最期まで道灌を殺した事を悔やみながら死ぬのか)
他に悔やむ事などいくらでもありそうなものをと内心で苦笑してしまう。
(あの時に道灌は……資長は私を裏切るなどないと断言していた。それなのに私は……。そう、アイツが! あの顕定が! 必ず裏切ると方々から唆してきたからだ! あのような言に惑わされなければ資長の暗殺を命じる事は無かった筈だ!)
これまでに幾度となく襲ってきた憎しみの炎がまた心を燃やしてくる。
今までどれほどに顕定を恨めしく思うた事か。
しかし今回は……、何故だか違うとも定正は思い至ったのだった。
(いや、裏切りを恐れたのではない……私は知っていた。分かっていたのだ、資長が私を裏切る事など絶対にあり得ないと)
後に耳にした話では、道灌はさまざまな者から謀反を起こそうといった誘いを受けたが、私は彼の方の家臣でありそれが変わる事など一切無し、という様に全く心が揺らぐ事なく突っぱねていたと聞く。
(それ程の忠誠心をあの男に感じていた筈だった……。そして……器量も凄かった)
道灌は合戦、築城の名が高く、その名は都にまできこえており、時の将軍からは文雅の才を認められて謁見まで許されていた。
清々しい人柄で社交性もあり、人気もあるので広く人から慕われており、もはや何をしても花がある人物であった。
そんな出来すぎた家臣であったが為に、彼の名声が定正の耳に届くたびに、自身がとんでもなく小さい人間だと感じて焦燥した。道灌さえその気になれば、関東の王にすらなれるであろうと。
そしてそれは——。
(嫉み……。これが道灌を害した一の理由……。そうなのだ、羨ましかったのだ、私はあの男の持つ力量が! 才覚が!)
またあの頃の自身はだいぶ血迷っていた。このような乱世であるがゆえの苦悩もまた多く凄まじいものであったが為に、狂うが如く視野が狭くなっていた。
(今にして思えば、この資長を生かすか殺すかの選択が、我が命運の分水嶺となっていたのであろう。もしあの時に勢いで資長の暗殺を命じていなければ……、共に生きていれば、地獄の中をあゆむ事もなく今頃はこのように馬鹿な死に方はしなかった……)
道灌が亡くなってからの数年間というものは、主だった家臣達に次々と去られた挙句に、新しい敵も増えてゆき、あんなにも憎んでいた仇敵と手を携える羽目になったり、戦ばかりで日に日に疲弊していき——。
気がつけばもはや誰を信じれば良いのか分からなく、時折り強い孤独を感じたり、いたたまれなかったりもした。
かの者が生きていれば、もっと上手くやれたのであろうなと後悔ばかりが募っていったものだった。
(それにもし、同じように地獄の道を辿ったとしても、資長がいればこれほどに苦しむ事も、孤独に悩む事もなかったかもしれぬ……)
あの日、道灌さえいなくなれば気持ちが晴れるに違いないと思っていたのに、いざ、上意討ちを果たしたと報告を聞いた時には、胸の内が真っ黒に塗りたくられたような息苦しさを覚え、後には止まることのない涙だけが続いていたのだった。
(最期まで女々しいことよ)
どうやら自身もこれまでのようで、いつの間にか全身の感覚が無くなっており、か細かった呼吸も、もはや尽きそうであった。
今際の言葉が、もうこれまでに何度つぶやいたか分からないものである事に内心で少々自嘲してしまいながら、定正は目を閉じてゆくのだった。
「ゆるせ……資長。私は、お前を……」
事切れる直前、そよりと吹いた風が定正の頬を撫でる。
そして耳の奥では、
『その『愚か』とおっしゃる所も含めて、私は貴方様の全てを好ましく思うておりますゆえ』
資長の声が響いたのであった。
最期までお読みくださりまして、ありがとうございました。