亜空間
しかし、近付いてよく眼を凝らすとそこは漆黒の闇そのものでは無く、その下方に所々ぼんやりと蒼白い光が現れては消えてゆくのが見える。
そして右側に目を向けると、前方が蒼く透明な屋根に覆われた、白く美しい外観を持つ流線形の小型船が、その淡い光の中に浮かんでいる。その先端には蒼く澄んだ光を放つランタンが付けられていた。
祖父に促されて乗りこんでみると、停泊している船に乗った時感じるような浮き沈みが無いことに違和感を覚えたが、それを思案する間もなく船はそのまま、エンジン音すら響かせず滑るように進み始めた。
この空間は無風状態ではあるようだが、空気抵抗によるささやかな風が冷たさを伴って肌を掠めていく。
周りは真の闇である事を示すかのように、純黒の空間がどこまでも果てしなく広がっていた。
近くに揺らめくランタンのような灯りと、遠く揺らめくほんのささやかな蒼白い光が存在しなければ、まるで闇そのものに取り込まれてしまうような不安に襲われていたかも知れない程だ。
見上げても、天上周りを推し測るしるべは無い。見上げれば当然のようにそこにある月明かりや星空もありはしないからだ。地球なら、よほどの人里離れた山奥だろうと夜が闇であるとはいえ、天候による影響さえなければ見上げた先には星のきらめき、月明かりが必ずあるものだし、目を閉じてさえ光の明滅を感じることの出来る景色になれた者達ならば、この漆黒は恐怖の象徴になりうるだろう。
だが、渡琉に恐れという感情は浮かんで来なかった。その果てを想像することすら叶わぬほど広大な目の前に広がる世界は、夜光虫のようなはかなげな光が、川面のようにたゆたう深く澄んだ暗闇に浮かんでは消えていき、その様はとても幻想的でまさしく”異界”と呼ぶに相応しい美しさだったからだ。
しかしそこはまた、川と呼ぶには水面の揺らぎも無く、川特有な流れという動きすらない。ただ船の動きから平面というわけでも、全く微動だにしない大地のようでもないことは解ったが、薄青いランタンの灯りしか光源のないこちら側から見ているせいか、波立つことのない水面らしいそれは……硝子のように澄んでいて絶景そのもので見飽きることが無い。
その蒼白い光をよく見ると大小の球体に近い形で緩やかに動いており、プリズムのように様々な色を含んだ光に包まれていて、まるで夜空が反転し、星の瞬きを眺めているかのようでもあった。
「渡琉、お前は縁側で話を聞かせていた頃と、変わらない表情をするな?
どうやらへたな前置きはいらんようだ。
ここは異界同士を繋いでいる空間でな? 我々は”亜空間”と呼んでいる。 私達貴船家に連なる者達は皆……日本人では無く、異界から日本へ移り住んだ者達だ……」
音の無い常闇の世界で渡琉は聴いていた。祖父から語られる夢物語では無い、実在する一族の物語を……
異界の名は”マラディーク”、貴船の前身となる一族を”渡り”と言った。
豊かな大自然を象徴する、緑の木々と豊富な水源により、肥沃な大地を有する大陸が幾つもあり、自然がもたらす色彩が実に美しい世界であった。
風を操る”操主”と呼ばれる長達のもと、人々は多少の小競り合いをのぞいて、穏やかで平和な日々を過ごしていた。それぞれの土地で自然の造形美を生かした町や村などを形成していても、種族は一つだけであったし、操主以外にも渡りとしての能力を人々も使う事が出来た。特に連絡と移動手段に長けたその能力は生活にとっても必要不可欠で、その恩恵は常に平等であったから、他者からの奪い合いや戦争なども起きなかった。
人々は”分相応”ということを身に刻んでおり、この世界は文明も発展しすぎる事なく劣ってもいない、環境も穏やかで肥沃な大地は豊富な食糧を与えてくれた。それゆえに物や情報が溢れ過ぎることは無く、判断に迷うことも少ないため程々の満足感は、人々に安らぎを与え永遠とも呼べる平和を築いていた。
だが、渡り達はその平和に甘んずる事無く、マラディークからは亜空間内への移動が可能だったため、代々その内部の変化や動向を注視し見守るという役割を担ってきた。
ところが、果てしない程広い亜空間を、一人、或いは少人数で永きに亘り調査を続ける内、亜空間に見慣れぬ大小様々な円環が現れはじめた。やがてそれが、それぞれの異界で”召喚”というものが頻繁に行われたことによる弊害の結果であることが解ってきたのだった。
”召喚”とは本来、人や国家機関などの間で行われて来たような意味合いのものであり、それが他の異界から強制的に人々などを呼び寄せるものでは無かったのだが、それぞれが似た名称(国や身分の高い者からの命令のような印象を与える)を付ける事で、それがあたかも国家の一大事業であるかのような制度へと移行させてしまったものが数多くあった。
しかもその召喚による恩恵は多大なものがあったらしく、自国には無かった力や情報がもたらされ、それに味を占めたものか、異界の違いこそあれど、それぞれの異界は執拗なまでにそれを繰り返すに至ったようだった。
その円環は後に”クレビスホール”と名付けられる事になったが、その数は増え続け、直接異界へと赴き調査を続ける内、召喚という魔法や鉱物などの媒体が、所謂エネルギーの集束機のような役割を果たし、亜空間内に穴を空け、他の異界へと繋がったものであるらしい事も解ってきた。
その穴、クレビスホールに干渉する事が出来た渡り達が、内部事情を調査し始めると、各異界は繰り返される召喚により、強制的に召喚された者達や召喚の際に巻き込まれた魂が転生者となり、その一部の転生者による過干渉などの影響によって、それぞれの異界において、その世界そのもののバランスが崩れ始めており、このまま放置すればやがては崩壊の危機に瀕する異界が出始める可能性が高く、その事を愁いた渡り達は、クレビスホールを塞ぐべく巨大な飛空挺を造り、亜空間内へ向かう準備を着々と進めていたのだった。
ところがそんなある日の事……
何の前触れもないまま、マラディークは突然大地が割れ地響きと共に崩壊し始め、人々の大半はそれと同時に起こった逆巻く強風によって空へと投げ出され、辛うじて飛空挺へと避難し助かった人々もいたのだが、あろうことか次の瞬間、飛空挺もろとも亜空間へと放り出されてしまったのだった。
それと同時にマラディークとの繋がりは完全に断たれ、その後も故郷の行く末を知る術は無く、人々は途方にくれるしかなかった。
人々と共に放り出された飛空挺は、幸いな事に細かな損傷を受けただけで、住居としての役割も備えていたため、少々手狭ではあるが投げ出された千数百人程の人々を収容することが出来た。しかし、亜空間は光源も僅かで陽も当たらない事に加え、眼下に見える物は水では無く深刻な食糧問題も浮上しつつあり、渡り達は既に空いていたクレビスホールへと赴き、それらの問題を解決しつつ、新しい故郷となる異界を探索して行くこととなった。
だが、当然大勢の移住はそれぞれの異界に混乱を招くため、召喚が行われていない異界(召喚された側にも道筋としてのクレビスホールが空く)を選び、数百人程がまとまりそれぞれの異界へと向かい始めた。
そして渡守をリーダーとする者達が故郷としてえらんだのが、地球であり日本だった。
その当時、地球は第二次世界大戦後の混乱期であったが、その混乱こそが渡守達にとっての幸運へと繋がることとなった。クレビスホールから現在の頂舟村付近に出た渡守達ではあったが、外見こそ渡りの能力によって日本人に近い状態ではあったものの、服装までは変えられず、男女の違いはあれど、所謂、装飾性の高いサーコートのような揃いの服装をしており、怪しいことこの上ない集団だった。
ところが、後の頂舟村となる周辺の大地主は少々変わった人物で、渡守達に遭遇した時もその姿を不審に思うどころか、諸手を挙げて歓迎の意を示してくれたのだ。
聞くところによると、当主はファンタジーというものが大好きであったようで、渡守達に会えた事をいたく喜び、かいつまんで伝えた亜空間での出来事をかけらも疑うことなく家
族としても受け入れてくれ、戦争で身内を失っていたこともあったからか、自分の身内として諸々の手続きや住まいとしての村まで造り、知る限りの情報さえもを与えてくれたのだった。
そしてその後、渡守達は当初の目的であった異界の崩壊を防ぐために引き続き、それぞれの異界へと渡り、召喚や転生で異世界に渡った者達を元の世界に返すことによってクレビスホールを塞ぐことが出来ることを突き止め、それを使命としていったのである。
反転した鮮やかな星空を眺めながら、渡琉は幼い頃から聞かされていた物語に妙に納得がいく気がした。その物語は創作では無く、祖父が実際に体験し見聞きしたものだったのだから。
余計な詮索や疑問に対する質問は必要無かった。それは渡琉自身がこれからリアルに実践として得られるものだと思ったからだ。
祖父の方に目を向けると、祖父は何やら感慨深げに息を吐いた。
「お前と、こうしてこの場所に来られるとは思ってもみなかったよ。
細かい事はその都度話をするし、都次からも説明があるだろうからな。 さて、そろそろ”パルヴァンティ”の円環が見えて来る頃だろう」
祖父が向けた視線の先、相変わらずの暗闇だが何やら薄ぼんやりと淡く円を描いた光が見えた。目の端に映るランタン、そこにはどうやら砂時計が付けられていたようで、キラキラと時を告げる銀色の砂粒が役目を終えて滑り落ちて行くのが見えた。
「渡琉……ありがとうな?」
その言葉に含まれているだろう様々な祖父の思い……その意味に、渡琉は黙って笑みを返した。