頂舟村
渡琉は高校卒業を機に祖父である渡守に呼ばれた。
渡琉は卒業後、父親の経営する総合商社フロウトに就職する事が決まっていた。配属部署についてはまだ聞かされていなかったし、祖父はフロウトの会長でもあるため、その事や就職するにあたっての心得などを聞かされるのだろうと思っていた。
それでもほんの少し、その事に対する違和感が無かった訳ではない……
なぜなら、渡琉は元々大学へ進学するつもりは無く、高校入学前の春休みから、フロウトの研修先へと、春、夏、冬の長期休暇期間中通い続けており、当然卒業と同時期に出社するものだと思っていたからだ。
渡琉が通っていた高校は進学校では無かったものの、殆どの同級生が進学を決めており、一年のは、まだ入学したての気楽さと見知らぬ者同士だからなのか、既に進路を就職に決めている事に対し”親のすねをかじれるやつはいいよなぁ”などと揶揄してくる者もいたが、やがてお互いに気心が知れてくると、大学受験と同じようなものだと認識してくれる友人達がいてくれたこともあり、二年になる頃には陰口を言う者などほとんどいなくなっていた。
渡琉自身友達と過ごすのは楽しかったから、土日休みには普通に遊びへと出掛けたし、フロウトの研修はコミュニケーション力も養われるためか、逆に渡琉を取り巻く者達は増えて行ったのだった。
渡琉は頭に浮かんだ疑問をを振り払いすぐに思い直した。今はもう研修段階では無く、正社員として仕事に従事するのだ。むしろ祖父に呼び出されたことに別の高揚感を感じていた。きっと祖父から直接学ぶべき事があるに違いないのだろうと。
会長として、フロウトに関連する事柄だけではなく多方面にも精通し、正に文武両道であった祖父の事を、渡琉は心から尊敬しており、おぼろげに将来が見え始めた中学二、三年生辺りからフロウトへの就職を視野に入れ始めたのも、少しでも祖父と共に仕事をし、役立ちたいとの思いがきっかけだった。
それだけでは無く、日常生活でも祖父の存在は渡琉に大きな影響を与えていた。幼い頃から春夏秋冬……四季の訪れる度に貴船家の故郷である頂舟村を訪れていた渡琉に、祖父はその都度リアルな心躍るおとぎ話や冒険譚を聞かせてくれたのだ。
やがて、それが現実のものでは無いと理解出来る年頃になってきてからも、時折自分の方からその話題をふったりなどして、続きを聞かせて欲しいと頼んでもいたため、高校生になってもその世界観に対して興味を失ってしまうことは無かった。それどころか、現実でも色々な体験をしてみたいからとアウトドアにはまり、そのための武道も習い、様々なサバイバル知識を体験と共に習得していった程だ。
そして今日は、久し振りに尊敬する祖父に会う事から服装にも気合いを入れた。
ラウンドカラーのワイシャツに細身のネクタイ、濃紺のブレザーにチノパン、素足にローファーと、敢えてリクルートスーツにしなかったのは、面と向かって祖父への尊敬を表すには、ほんの少し気恥ずかしさがあったからだった。
都心の郊外にある自宅から頂舟村奥地にある貴船家の屋敷まで、今回の道程は長い。
しかし、就職祝いだと祖父に買って貰ったランドクルーザーでの初ドライブだった事もあり、渡琉は終始心軽やかに車を走らせる事が出来たおかげで、高速を二時間、インターを降りてから山道をひた走りここまで三時間という距離も、思ったほど長くは感じなかった。やがて山道に連なる木立から、眼下に広がる集落が見えて来た。
村と呼ぶには遥かに広い敷地には、整備された道路と都市部と変わらぬ近代的な建物がそこかしこに点在している。本家の屋敷に来た折に何度も訪れてはいるが、のどかな田舎の風景とは一線を画すような集落がここ頂舟村だった。最新設備を備えた病院、映画館もある商業施設、その他公共施設なども充実し十分な環境が整えられている。
ここに、頂舟村という名前が付いているのは、数百人程度の人口によるところなのだと以前に聞いたことがあった。
村を通り過ぎその奥まった高台へ向かうと、武家屋敷かと見まごう程立派な門構えの屋敷が見えて来る。
そこへと続く緩やかな坂道を登り切ると、駐車場とは思えぬほどに広大な門前の敷地へ適当に車を止め、渡琉はその場へと降り立った。
柔らかな陽射しが心地良い、懐かしい清涼感を伴った澄んだ空気を思い切り吸い込む。
眼の前にそそり立つ、新緑と深緑のコントラストが美しい峰々をたたえて並び立つ、大まかに見渡せる三山周辺と、頂舟村を含めたその土地全てが貴船家の敷地だった。
今は開け放たれている重厚さのある門をくぐり、巨岩や庭木、春らしく色とりどりに色づいた花々などを配した庭先を横目に玄関へと足を進めると、奥の方から見慣れた人物が近付いて来るのが見えた。
貴船家当主、貴船渡守祖父の立ち居振る舞いはとても80近い老人とは思えぬほどかくしゃくとしていて、そこに老いの二文字を見つけることは出来ない。
そのせいか、ありふれた無地のネルシャツを肘まで捲り、ジーパンを穿いているだけという服装にもかかわらず、洒落て見えるのは今に始まったことでは無い。そして、その表情の中に、幾筋かの皺を見ることは出来ても、柔和な顔立ちに似合わぬ優しさの奥に秘められた眼光の力強さは、まるで歴戦をくぐりぬけた強者のようだった。
相変わらず勝てる気がしないと渡琉は思った。180㎝を超える身長、無駄なく鍛えられた体躯、あと僅かと言えど身長以外、未だその全てに追い付けない。
渡琉にとってその事が悔しくはあったが、それと同時に、いつか追い付き追い抜ける事への期待感にわくわくしている自分がいるのもまた事実だった。
「爺さま……相変わらずで嬉しいよ。 それにしてもさ、就職が決まってすぐに呼び出しってのはどういう訳? 俺の運転技術を試すため……なんてことはないよな?」
祖父は、子どもがいたずらを企む時のような意味深な笑顔を向けて、渡琉の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「それも……あるかもしれんな?
だがまあ、長旅で疲れただろう。どうだ?少し縁側でのんびりせんか?」
相変わらず高級旅館並みに広々とした二間続きの大広間をいくつも通り過ぎ、窓が開け放たれた畳2畳分はある広縁に出ると、やがて目の前に見渡すかぎりの絶景が広がっている。
頂舟村の近隣に村は無く、あっても遥か山向こう。村を含めた近隣の殆どが貴船家の所有であり村民もほぼ一族が占めているため、ここを訪れるのは関係者以外めったにいないのだが、久し振りに村を訪れたりこの屋敷に初めて足を踏み入れたりした人達、その殆どがこの光景を目にする度、その口をあんぐりと開けたまま暫し呆けるのが常だった。
海は無いが、一見すると誰しもが頭をよぎる風景と、目の前にあるこの光景が重なって見えることだろう。
そう、海沿いに鎮座しているあの神社かと……
正確にはあの神社ではなく、平安時代の寝殿造りを模したものらしいが、見間違うのも無理はない。神殿は流れ造りの切妻屋根が優美な曲線を描き、柱を含む本殿部分は重厚な屋根以外、真っ白な漆喰とのコントラストが美しい、まばゆいばかりの朱色に染められていたのだから。
そして、借景に相応しく背後にそびえ立つ山の緑、空の青さとゆったりと流れゆく雲の白さが風景画のように相まって、荘厳とも呼べる景色、それに加えて手前に配置された千坪ほどある庭、そこには川の本流から直接引き込んだ支流となる川が波模様を描くように流れ、水面が煌びやかな光を放っている。その川には本殿と同じ朱色の橋が三方にわたって架けられ、周りに彩りを添えている樹木や花々とともにそのさまを眺めていると、まるで遠い時代に誘われてゆくような錯覚を覚えてしまうほどだ。
これは先代の当主が由緒正しい家柄という格式を持たせるためと、建物を寝殿では無く神殿として奉ることで、外部の干渉から村を守る目的もあったからだという事だ。
そして、ここはかつて幼い頃、ことある毎に祖父が語ってくれた異世界の夢物語。その世界に心躍らせながら聴き入っていた、渡琉お気に入りの場所でもある。
「どうだ渡琉、私と共に仕事をしてみる気はあるか?」
なんの心づもりも無く唐突な申し出ではあったが、祖父の言葉に渡琉は一瞬心臓が跳ね上がった気がした。心の奥底で常日頃出来るならと願ってはいた。しかし、それが実現したとしても、早くて数年後か或いは、夢だけに終わるだろうと、胸の内に留めておくだけの……あくまでそれは”希望”だった。
それでもまさか、祖父自身の口からその言葉を聞かされるとは予想外の出来事だったが、渡琉はためらうことも無く返事を返していた。
「解った! もちろんやるよ!」
二つ返事の答えは祖父にとっても予想外だったのか、少し呆気に取られている様子ではあったが、すぐに何かを決意したかのように目を閉じ、再び目を開けたかと思うと身体ごと渡琉の方へ向き直った。
「そうか……では、早速本題に入ろう。
渡琉、仕事先は”異界”だ。 お前に何度も話していた”異世界”という事になる。仕事の内容は異界に向かう準備をしながら説明しよう。
ところで渡琉、今何か聞いておきたいことはあるか?」
全身から言い知れぬ何かが湧き上がるのを感じながら、渡琉は大げさなほどに首を振った。
「無いよ! あるわけ無いだろ! 望んだことが全て叶うわけじゃないことは知ってる。だけど爺さまが叶うって言ってくれた。それだけで十分だよ。俺……ずっと思ってたから。
本当は入社したら、爺さまの元で働きたいって」
渡守は嬉しそうに声をあげて笑った。
「疑問の一つも出てこないとは……全くどこまで。
嬉しくはあるが、そんなにあっさりと信じていいのか?」
「もちろん疑うさ。この話を聞かされたのが爺さま以外だったらな? そもそも爺さまが俺をからかったりするのは遊んでる時だけだったし、爺さまが”仕事”と口にした以上、そのことで嘘なんか吐くはずないだろ?」
子どもの頃からずっとその背中を見ていた。祖父は遊んでくれるときも子どもだからと必
要以上に甘やかしたりせず、注意する時や話をする際は常に一人の人間として向き合ってくれ、遊びや山登りなどをする時などは、自分自身も子どもに返ったかのように振る舞い、飽きるまで一緒に遊んでくれたものだ。
異界の話をする時も、微にいたり細に亘り、手振り身振りで語るその様にはいつも引き込まれた。
まるで……自分自身がその場にいるかのように。
祖父の仕事に関しては直接見る機会こそ少なかったが、既にフロウトで会長になってはいたものの、新入社員であろうとベテランであろうと態度を変えることなく、短い時間ながら常に的確な指示を出し、リーダーに相応しい態度を崩さない様子を何度か見掛けた事があった。そんな祖父に対して彼らはいつも尊敬の眼差しを向けて挨拶をしていた。
そして、武道においては元々合気道をたしなんでいたのだが、年齢を重ねる毎に空手、剣道、護身術などの技術を習得、それぞれから自分にふさわしいものを取り入れ、やがて自身の武道として確立させてしまったほどだった。
大好きだった祖父は渡琉にとって、やがてその背中を追うべき尊敬する存在へと変わって行ったのだったから、それが”異界”へ行くなどとあり得ないことであったとしても、そこに”疑う”と言う選択肢は生まれようがなかったのだ。
「渡琉、お前にならと思ってはいたが済まなかった。私はお前に対する認識を改めねばならんようだ」
その理由を告げぬまま立ち上がった祖父は庭へと降り立つ、そして神殿に連なる左右の左手に見える回廊へと向かい、そのまま奥へと進んで行った。
澄んだ空気と静けさの中に様々な鳥のさえずりと、微かな川のせせらぎが心地よく響き、渡琉はその音に耳を傾けながら、朱塗りの柱から見え隠れする庭の風景に心和ませていたが、祖父の歩みが止まったことで前方の扉が目の端に映り、渡琉はハッとして立ち止まった。
本殿と居並ぶ、年月を重ねてくすんだ木の扉、かんぬきを外してそれを開けた祖父に続いて入ってみると、思いのほか中は薄暗く、神社仏閣特有の格天井付近から漏れる陽射しが、かろうじてぼんやりと周りの光景を認識させた。
そこは格天井を含め総合体育館位はあるだろうと思われる、広々とした空間が広がっていた。
暗さに目が慣れた頃、右手奥にある、この場に相応しいとは言い難い金属製の扉がスッと開いた。その奥はと見ると、かなり明るいその壁面に、50㎝四方ほどのモニターらしき物がいくつか見てとれる。
そして、そこから姿を現したのは、貴船本家に仕え執事のような役割を担っている貴舟都次その人だった。30代である彼は、筋肉質ではあるがどちらかというと細身な印象を与える体つきで、身長は自分達と同じ位、オールバック気味の髪に黒縁眼鏡、涼やかな目元と相反するように、彼が醸し出す雰囲気、それが無意識にもただならぬ威圧感を放ってしまうという不思議なオーラを持つ男だ。もちろん渡琉は慣れてしまっているが、この男が交渉の場に立ったなら、それだけで相手はいいように手玉に取られてしまうだろうと想像出来る。
都次はどうやら作業中だったらしく、スーツの上着を脱いだだけの服装でワイシャツの袖をまくり上げていた。そしてそこから覗く両腕には、外した所を見掛けた事の無い、特徴的な薄手の黒い長手袋が嵌められている。
「渡琉様、お久しぶりでございます。
……やはり、予想通りでございましたね? 渡守様?」
丁寧に会釈を済ませ、彼は祖父に向かって何故か得意げに微笑んで見せた。
「わかった、わかった。 私の負けだ」
祖父はその顔に苦笑を浮かべながら両手を挙げ、短くため息を吐いて肩をすくめた。
「お孫様という認識に囚われていた証拠でございますよ?
わたくしなど、渡琉様を将来有望な方と、常日頃から色眼鏡なく見守らせていただいていますからね?
そのお答えは予想の範疇でした」
そのやりとりは主従のそれでは無い。だが、幼い頃から都次の事を見知っている渡琉からすれば、二人の関係は主従である以前に深い信頼で結ばれていることを肌で感じ取っていたため、むしろ懐かしいと思える光景だった。
いつの間にか壁際に移動していた都次がスイッチのような物を押すと、辺りはほんのりとオレンジ色の光に包まれ、周りの光景がはっきりと見渡せるようになった。
その中で一際渡琉の目を引いたのは、神殿とは反対側の正面にその姿を浮かび上がらせた、高さ5メートル程のアーチ型をした大きな扉だった。
古代遺跡の扉かと見まごう程に重厚で、深い飴色に変色し、細やかな蔓草模様が施された扉を目にした途端、渡琉の記憶が過去の自分へと遡る……
そう……渡琉は以前、確かにこの扉を目にしたことがあったのだ。
それは多分、小学校に上がって間もなくの頃だった。なぜ自分がこの場にいたのか理由は思い出せなかったが、その時は確か扉の色が今とは違っていたように思う。
薄暗い空間に浮かび上がるそれは……地の底から湧き上がるかのように揺らめきながら模様を描いていき、赤黒く光る血のような筋が扉を埋め尽くして行った。そして、その背後で子どもの悲鳴と泣き声が聞こえていたような記憶があった。
「……様、それでは早速あちらに向かわれますか? 」
都次の声に我に返った渡琉は改めて周りの様子を確認した。よく見ると都次が出て来た自動ドアの丁度反対側にも同じようなドアがあり、背後にある神殿も、部屋らしき木戸があるのは一階部分のみで、構造はしっかりしているようだが、見た目に反してその部屋も狭いようであるらしく、なぜか映画のオープンセットを彷彿とさせるものだったが、幼かったせいもあるのか、目の前にある扉以外のものをそれ以上思い出すことは出来なかった。
渡琉は、ひょっとするとこの扉が”異界”へと通じていて、表側を神殿に見立てていることを考えると、それはもしかしたら、この場所をカモフラージュする為でもあるのだろうか?と考えを巡らせた。
「爺さま、俺……あの扉に見覚えがあるんだけど…」
「なるほど、ちょっとした騒ぎだったから記憶にも残るか。まあ、あの扉を開けばはっきりと思い出すかも知れんな?
渡琉、これから異界に行くわけだが、何か、それ以外に別の上着があったら用意しておいてくれ」
祖父はそう言って渡琉を右手のドアの方へと促した。
中に入ると、そこは先程の空間とは打って変わり、ドアの隙間から見えたモニターなどはほんの一部だったようで、その光景はまるでSF映画で見た管制室のような様相を呈していた。
10以上ある30インチ程のモニターに映し出されている画面の幾つかには、映像では無く代わる代わる地図や天気図、気温などのようなものが表示されていた。
その横手上部には、開閉扉の付いた40㎝程のボックスが20位あり透明ではないためはっきりとはしないが、何か鳥のようなシルエットが見てとれた。聞いてみると、中にいるのは探索用ロボット”カラク”という名のウグイスがいるのだと言う。
それを見た渡琉は、ほんの少し息を呑む……
そのボックスそれぞれにはその下部にランプが付いているのだが、その一つが点滅し始めると、ボックス表面に毛細血管のような模様が現れ、その色はというとランプと共に、心をえぐる暗赤色……血の色だったからだ。
それが……蛍のように淡くはかない絵画的色合いなら少しは癒されるだろうが、中身はかわいらしいウグイスだと言うのに、いささか製作者の意図を図りかねながらも気を取り直して下の部分はと見ると、それは格納庫だという事で、小さな物が幾つかと、その隣には車庫ほどの大きさがあるものもあった。
呆気に取られながらも興味深く室内を見回す渡琉をよそに、都次はカウンターにある制御盤のようなものを操作しモニターを確認し始めた。
「問題は無いようです。
それでは、小型を停泊させておきますね?」
祖父に促されるまま部屋を出て、扉の前に立った渡琉は持って来ていた荷物の中からマントを取り出し着ていた服の上からそれを羽織った。
「渡琉? ……問題は無いんだが、それはお前の普段着なのか?」
いつの間にか着替えていた祖父の言葉に、渡琉はそのまま今の言葉を返したいと思った。
渡琉が着ているのは、フード付きのダメージマント、色もいかにも使い古したかのような焦げ茶色で、靴は短めで同じような色合いのブーツに履き替えた。
一方の祖父はと言えば、ダークグレーの長髪を革紐で緩く束ね、ネルの長袖シャツに革のベスト、小物やズボン、靴に至るまで一切の装飾や現代的な金具は使われていない。全体に使い込まれた年月を感じさせるブラウン系のアースカラーでまとめられたコーディネートは自分と比べるべくもなく、これが異世界ならば高ランクの冒険者に見える出で立ちだ。
そこに敢えてツッコミどころを探すとしたなら、しめ縄状のロープを斜交いに担ぎ、腰には銃こそ装備していないが分厚い布製ガンベルトをしている事ぐらいだ。しかしそれさえもアクセサリーの一部にしか見えないのだから、渡琉としては脱帽するしかない。
「普段着っていうよりアウトドア用かな?新しいけどわざとダメージ加工してある物なんだけど、これで大丈夫か? 」
「ああ、問題ない。気付いてるようだが、今回訪れる異界の文化水準は、こちらで言うところの明治時代あたりだからな? 友人に関しては何を着ても問題ないが、周りには旅人で通しているから、余り違和感のある物は持ち込めんのだ」
いきなり古代遺跡とか中世都市などに行く事は無いだろうと、自分の予想が外れていなかった事に渡琉は内心ほっとしていた。異界に行くことを聞いた渡琉は、幸い着替えを多めに持って来ていたし、元々アウトドア用は装飾が少ない事もあり、マントに合うようファスナーやアルミ金具、化学繊維、プリント加工製品などを避けて服装を決めていたのだった。
準備が整い扉の前に立つと、祖父から扉に触れてみるようにと言われた。
手の平を近づけると、ひんやりとした感触と年月を経た滑らかさとが心地よく伝わってきた。
すると同時に、下の方から這い上る生き物のように赤黒い何かが、蔓草模様を辿るように全体を埋め尽くして行くのが見えた。
そう……あの時渡琉は背後の悲鳴をものともせず、この光景に目を輝かせていたのだった。
わくわくが止まらなかった。この沸き立つ嬉しさを誰かに伝えたかった。
「ねえ見て見て、すっごく綺麗だよ! 異世界の扉みたい!」
そう言って後ろを振り返った渡琉を待っていたのは、泣き叫ぶ兄と姉を抱き締めながら、知らない感情を乗せた冷ややかな眼差しを向ける父親の姿だった。その様子に渡琉は、子ども心に言い知れぬ恐怖のようなものが全身を覆い尽くしていくのを感じながら、呆けたようにその場に立ち尽くしていたのだった。
父の眼差しに何故恐怖したのか?今にして思えば、それはおおよそ肉親から向けられる事はないであろう感情の片鱗、それをその眼差しから感じ取ってしまったからだったように思う。何故ならそれ以前には、自分に向けられる笑顔や叱る時の真剣な表情以外に、そのように負の感情を乗せた視線を向けられたことが無かったからなのかも知れない。
そう言えば、父の視線……それに関連した記憶が渡琉にはもう一つあった。
事件や事故と言った出来事はそうそう遭遇するものでは無いが、いつだったかこの時点より以前、たまたま母と外出した先で渡琉はその事件とやらに遭遇してしまった。その時は母が自分の顔を覆うように抱きかかえ、直ぐにその場を後にしたようで殆ど記憶に残ってはおらず、何か恐い事があったようだという印象しか無かったため、そんな事はとうの昔に忘れていた。
しかし、父の眼差しによってその時の記憶が呼び戻され、サイレンや衝撃音と共に響き渡る叫び声と共に、様々な負の感情に塗れた視線や言動、それらに容赦なく晒されていたであろうその場面を思い出してしまったらしい。それは自分に向けられているわけではなかったようだが、初めて体験する訳の分からぬ恐ろしさは、何かのきっかけで蘇ってしまう程、心を深く傷つける出来事だったようだ。
その経験があった事で、父親から向けられたあの眼差しが、事件現場の人々が向けていたであろう視線と同じものだったと唐突に理解してしまったからなのかも知れない。
扉の前では祖父が自分を抱き締めてくれて、何故か何度も謝られたような記憶がある。
18になった今ならその眼差しに言葉を付けられる。 おそらく”失望と憐憫”なのではないだろうかと……
正解ではないかも知れないがあながち外れてもいないだろうと渡琉は思っている。それを確かめる術は今のところ無かったが。
すっかり忘れてはいたのだが、それから意図せずとも父との距離は離れて行ったように思う。そうして無意識に避けていたのが、渡琉だけではなかったからだろう……
今は、さすがに扉の変化に眼を輝かせることはないが、どうやらこの扉に変化を持たせられるのは異界への鍵として、その力を受け継ぐ者だけだと祖父は説明してくれた。
重厚な扉はその外見に似合わず、やがて音も無く開いて行った。
そして、そこに広がっていたのは予想だにしない、果てしなく”闇”そのものと言うべき空間だった。
渡琉は息を呑む……
想像を遥かに超えてくるこの光景。今まで自分が蓄えて来た情報など砂粒の一欠片でしかなかったのだと思い知らされはしたが、その脳裏に悲観的な思いが浮かんでくることはついぞ無かった。
縁側で聞いた夢物語、リアルではあったがそれはあくまでも想像の世界、しかし今それが目の前に広がっているのだ。身震いするほどに心が躍りだし、自然と笑顔が溢れた。
祖父の方を振り返ると、満足そうに笑いながら頷きを返してくれていた。
そして渡琉は、闇の世界へゆっくりと手を伸ばす……