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君だけに……と貴方は言った

作者: 悠木 源基

 17,000文字と長めの短編です。


「君だけに話すんだよ」

 

 と貴方は言った。だから自分は貴方にとって特別な存在なのだと思った。

 私はその思いだけを胸に頑張っていた。どんなに貴方に素っ気無くされても、どんなに周りから嫌味を言われたり意地悪をされても、貴方が色々なご令嬢と浮き名を流しても。

 彼が本当に信頼しているのは私だけだと思い込んでいたから。

 

 そう。貴方の家の主催で催された夜会で、貴方が庭園の茂みに隠れて、女性にこう囁くのを聞くまでは。

 

「僕は実の母から愛されずに育ったんだ。だからこの屋敷には辛い思い出しかないんだ。

 だからこうして君との幸せな時を過ごすことによって、辛い思い出から幸せな想い出に変えたいんだ」

 

「あら? でも貴方には婚約者様がいらっしゃるでしょう? 彼女との幸せな思い出がお有りになるでしょう?」

 

「あはは、まさか!

 君だって知っているだろう? 僕の婚約者はあのケイトリンだよ。作られた笑顔を貼り付けて、一度たりとも心からの笑顔を見せない。

 そんな淑女仮面の彼女と一緒にいて幸せな思い出ができるわけないじゃないか」

 

「まあ! それではケイトリン様と婚約を解消されるおつもりなの?」

 

「そうしたいのはやまやまなのだが、彼女は母のお気に入りなので、それはできないんだ」

 

「それでは侯爵様にお願いすればいいのでないですか?」

 

「父は母にベタ惚れでね。僕の意見なんかきいてくれないんだ。幼い頃からずっとね。

 僕はずっとこの家では孤独だったんだ。こんなこと我がウエリントン侯爵家の恥になってしまうから、君だけに話すんだけどね」

 

 その後貴方があの噂の方と何をしていたのかは知らない。私は背中からこの屋敷の侍女頭に抱かれて、その場を離れたから。

 

 

 ウエリントン侯爵家の嫡男であるダニエル様と婚約して五年。元々私達は身分違いだったし、これが仮初の婚約であることはわかっていた。

 それでも婚約関係が続いているうちはより良い関係で過ごしたい。愛されなくてもせめて好意を持ってもらいたい、そう思って努力をしてきたつもりだった。だから、

 

「君だけに話すんだよ」

 

 と、ダニエル様から将来の夢を教えてもらった時はもう嬉しくて幸せだった。

 彼の唯一の愛する女性ではなくても、心許せる友人の一人として認識してもらえたような気がして。

 しかしそれは私の勝手な思い込みだった。

 私は淑女としてアルカイックスマイルを浮かべるのに必死で、素直な笑顔をダニエル様に向けられなかった。

 きっと私は愛らしさのかけらもない冷たい女だと思われていたのだろう。それを実際に耳にして、私は激しいショックを受けた。

 

 周りから女のくせに冷静沈着で可愛げがないと言われ続けてきた私だったのに、こんなに乙女脳だったのね。

 私はマリラさんの胸の中で、初めて感情を晒して泣きながら、心の中でそう思ったのだった。

 

 そしてその日から私はこれまで以上に、ウエリントン侯爵夫人のナンシー様からの後継者教育に、真剣に取り組むようになったのだった。

 

 

 ✽✽✽✽✽

 

 

 学園の卒業式があと三ヶ月に迫ったある日のこと、いつものようにウエリントン侯爵夫人の元に通っていた私は、珍しくダニエル様から声をかけられた。

 

「大事な話があるので、居間に来てくれないか?」

 

 大事な話と聞いて私はピンときた。とうとう婚約破棄されるのかしら。

 正直不安に思っていたのだ。二年前に彼の本音を聞いてから、いつそれを言い渡されるのかとずっとドキドキしていたのだ。

 それなのに一向に話が出なかったので、もしかしたら卒業式とか、卒業パーティーの衆人環視の中で宣言されるのかしら。それだけは勘弁して欲しいなと思っていた。

 けれどどうやらそれは杞憂に終わりそうだ。

 

 いくら脳内お花畑になっていたとしても、名門侯爵家の嫡男であり、生徒会長だ。さすがにそんな恥ずかしい真似はしなさそうだ。

 まあ、ダニエル様はそもそも八方美人で私以外には愛想が良いし、世間体を気にするタイプだったから、自分の有責になるようなことはしないだろうとは思ってはいたが。

 

 ソファに腰を下ろすと、ダニエルは開口一番にこう言った。

 

「なぜ君は卒業パーティー用のドレスをまだ注文しないんだ? 

 早くデザインを決めないと、間に合わなくなるのではないか?」

 

 予想外の言葉に私は首を捻った。

 

「ドレスですか? 

 ドレスなら先月までに要望を伝えて、既に制作は始まっていますけれど?」

 

「何を言っている?

 昨日トノハタン洋裁店から、君と面会したいと何度オルガー子爵家を訪問しても、用はないと追い払われて困っていると苦情が届いたぞ」

 

 ダニエル様は相変わらず、私にだけは不機嫌な感情を隠さずに言った。

 

「追い払ったなんて人聞きが悪いですわ。うちではもう他所に依頼をしているので、結構ですとお断りしただけですのに」

 

「なぜ他所に頼むのだ。我がウエリントン侯爵家はトノハタン洋裁店に依頼することに決まっている。このことは君だって知っているだろう。これまで君へ贈ったドレスは全てあそこで作っていたのだから」

 

「ええ。でも今回トノハタン洋裁店はカリーナ様のドレスをお作りになると聞いたので、お忙しいだろうと遠慮したのですわ」

 

 カリーナ様とは二年前の夜会でダニエル様と密会していた男爵令嬢だ。今でもダニエル様の取り巻きのお一人だ。

 彼にとってカリーナ様が何番目に位置する彼女なのかは知らないが、高位貴族御用達のトノハタン洋裁店に口利きをしたのはダニエル様だと聞いている。

 彼女とデザインかぶりでもしたら嫌なので、私は我がオルガー子爵家が懇意にしているハイドロン洋裁店にドレスを発注したのだ。

 

「カリーナ嬢に嫉妬したのか? 珍しいな、君がスネてそんなことをするなんて」

 

 なぜかダニエル様の不機嫌な顔が見たことのないニヤニヤした顔に変わっていた。

 嫉妬? 何故今さら私が?

 

「嫌がらせをしたつもりはありませんわ。以前から私は、卒業式パーティーのドレスは子爵家で作るので、ご用意して頂かなくても結構ですと申し上げていましたよね?」

 

「卒業パーティーのドレスを婚約者が贈るのは当然だろう? それなのになぜ不要などと言うのだ」

 

「学園を卒業する最後のドレスくらい自分の好きなものを着て、良い思い出を作りたいからですわ」

 

 私がこう言うと、ダニエルは眉を釣り上げた。

 

「それはどういう意味だ! 今まで僕が贈ったドレスが気に入らなかったというのか!

 どれも最高級品の素材を使い、最新式のデザインで、皆の評価も高かったではないか!

 それに君に良く似合っていたじゃないか!」

 

 私に似合っていた?

 ダニエルのその言葉に私は正直驚いた。私はこれまでドレス姿を彼に褒められたことなどなかったからだ。

 確かにこれまでダニエル様は、義務的に私をエスコートして会場入りすると、最低限ファーストダンスの相手をしてくれた。

 しかしそれを終えるとすぐさま、私をおいて友人や知人(ご令嬢方)の下へ行ってしまい、その後私はいつも一人壁の花だった。

 そして多くの女性方からの嘲りの言葉を浴びせられていた。

 

「いくらダニエル様のお色のドレスを強請っても、結局相手にされないのでは惨めよね。

 衣装だけが立派でも、それを着こなせないなんて、勿体ないですわね。宝の持ち腐れですわね」

 

 と。

 確かに昔はダニエル様の色のドレスを着ることが嬉しかったし、誇りに思っていた。

 しかし彼の本音を聞いてしまってからは、この色のドレスを身に着けるのは苦痛以外の何物でもなかった。

 それ故に私は、ダニエル様の髪の色である金色や、瞳と同じ濃紺の色のドレスや小物などを欲しがったことはない。

 いや、元々何一つ彼にねだったことなんてない。それなのになぜこんな言い方をされるのかわからなかった。

 

 私は彼女達が嫌いだ。しかし今ではその彼女達よりダニエル様が憎かった。

 私が周りから虐められて惨めな思いをすることがわかっていながら、嫌がらせで自分色のドレスを作って私に贈ってきたのだから。

 

 私のことをまともに見ることもしなかったのに、よく似合っていただなんて、そんな白々しいことが言えたものだわ。

 

「頂いたドレスはどれも素晴らしい物でした。ですが、私には分不相応なものでしたので、ご令嬢方に毎回宝の持ち腐れだと揶揄されてきました。

 ですから、学園生活の最後くらい自分に似合う分相応なドレスを着たいのです」

 

 私がこう言うと、ダニエル様は愕然としていた。

 

「君にあのドレスが似合わない、相応しくないとなどとふざけたことを言ったのは誰だ?」

 

 未だかつて見たことのない険しい形相でダニエルが私に迫ってきたので、私は思わず目を見張った。

 

「誰って、貴男の知人のご令嬢方ですわ」

 

「なっ!」

 

「この際ですからお聞きしますが、なぜ嫌がらせのように貴方の色味のドレスや飾りを私に身に着けさせようとなさったのですか?」

 

「嫌がらせとはなんだ。婚約者同士が相手の色に合わせるのは当たり前だろう?」

 

「ですが、貴方は私の髪の色である黒を身に着けたことはありませんよね? 瞳の茶色も。

 どちらかといえばフォーマルな色で、普通なら選び易い色でしたのに、わざわざ珍しい色合いのタキシードばかりお召になっていましたよね?

 その度にそこまで私をお嫌いなのかと落ち込みましたよ」

 

「違う。そんなつもりではなかった。女性に比べると男性の衣装は地味過ぎる。

 だから、紳士服も色々な色使いをしたものを流行らせれば、きっと衣料業界も活気づくに違いない。

 そのためのその広告塔になって欲しいと、王太子殿下に依頼されたからだ」

 

 思いも寄らなかったダニエルの説明に、私は喫驚して押し黙った。

 確かにダニエル様は社交界一と言われるほど容姿端麗の人気者だから、立っているだけで目立つだろう。

 しかも多くの人々と触れ合えば、その衣装の宣伝効果は抜群だ。

 

 そういえば、ここ数年男性の衣装もカラフルになり、パートナーと衣装を合わせるのが大変になったというご令嬢達の話をずいぶん聞くようになっていた。

 まさかそれが王太子殿下とダニエル様の仕込みだとは思わなかったわ。

 そんな政治的な思惑があったとは想像すらしていなかった。

 なぜそれを教えてくれなかったのだろう。教えてもらえていたら、私はあんなに悩む必要はなかったし、心無い言葉に傷付くこともなかったのに。

 結局彼は、私にそれをわざわざ説明する必要性がないと判断したのだな。

 それだけの価値しか私にはなかった、ということなのだろう。

 

「教えていただけて長年のモヤモヤが消えました。ありがとうございます。

 ついでにスッキリして卒業を迎えたいのでお願いがあります」

 

「ケイトが僕にお願いするなんて珍しいね。僕にできることなら何でもきくよ」

 

 言質を取りました。

 

「それでは婚約を解消してください。そうすればお互いにスッキリと卒業することができますよ」

 

 私の方から婚約の解消を申し入れをすると、ダニエル様は瞠目した。

 そして信じられないという顔をして私を見た。まさか私から先に言い出すとは思わなかった?

 

「婚約解消がご不満でしたら破棄でも構いません。

 しかし、私が嫉妬で貴方の知人の皆様に暴力や虐めをしたなんて、身に覚えのない罪で断罪するような真似だけは絶対にしないで下さいね」

 

「婚約は解消も破棄もしない。するつもりもない」

 

「なぜですか?」

 

「なぜ? それはこっちが聞きたい。何故僕が君と婚約破棄しなければならないんだ?」

 

 ダニエル様は眉間に深いシワを作り、本気で分からないという顔で言った。

 それで私の方が驚いてしまった。彼は貴族としての義務はちゃんと認識していて、私と婚約を解消するつもりはなかったのだとわかったからだ。

 しかし、私の方はこの状態には耐えられない。何せダニエル様と違ってこちらはエセ子爵令嬢なのだから。

 私は実の両親のように愛し合える人と結婚したい。

 

「ダニエル様は私のことを嫌っていらっしゃるので、てっきり婚約破棄をしたがっているのだと、勝手に解釈していました。誠に申し訳ありませんでした。

 では改めて今後、私との婚約解消について考えて頂きたいと思います」

 

 私はこうお願いしたのだが、ダニエル様は私と婚約を解消するつもりはないの一点張りだ。婚約破棄や解消をする必要性が全く思い浮かばないと。

 ダニエル様はこれまで私以外にも多くの女性の知人を作り、彼女達と様々な浮名を流してきたというのに。

 

 ところが実際ダニエル様は、本当に彼女達とは知人として付き合ってきただけで、浮気に当たるような真似をした覚えは一切ないと言い張った。

 確かに宣伝活動のために、多くの人々と触れ合っていたのだとするならば、それは浮気とは呼べないかもしれない。

 

 しかもナンシー夫人の商会は紳士服も取り扱っていて、ダニエル様のおかげで売り上げが相当伸びたのだとしたら、私は文句を言えない。

 いやむしろ感謝しなければならないところだろう。

 何だかんだ母親の不満を言いながらも、ダニエル様はその実、母親思いなのだということが分かった。

 

 

 とはいえ、ダニエル様はただの知人に「君だけに話すんだよ」なんて言える軽い人だったということも分かった。

 そんな軽い言葉に浮かれていたなんて、なんて私はおめでたいのだろう。

 それに比べて侍女頭のマリラさんはさすがだわ。昔ダニエル様から、

 

「マリラ、僕ねマリラのことが一番好きだよ。お母様よりね。だからマリラだけに秘密を話すよ」

 

 と言われても、マリラさんは他の侍女達のように舞い上がったりしなかったというから。

 もっともその場面をダニエル様のお母様である侯爵夫人に見られていたので、冷や汗をかいて、舞い上がるどころではなったそうだが。

 

 そう。ダニエル様はその愛らしい容姿と仕草で誰からも愛されていたというのに、それでもまだ愛され足りないと、さらなる愛情を求める強欲さを持つ子供だったらしい。

 だからこそ実の母親であるナンシー夫人が、孤児院の子供達の面倒を見ることに不満を持っていたらしい。赤の他人よりも実の子である自分をもっと愛せと。

 

 ところがナンシー夫人はその孤児院の一人の女の子に関心を抱いた。そしてその子に将来性があると見込んで自身の後継者にしようとした。

 ナンシー夫人は彼女の個人資産で商会を作って手広く商売をしていたが、それが予想以上に規模が大きくなり過ぎてしまった。

 それ故一代限りでやめてしまうわけにはいかなくなった。

 しかし嫡男のダニエル様がどんなに優秀でも、侯爵家の領地経営と商会の両方の責任者になるのは無理だ。

 だから、商会の後継者になる子を早くから教育しておこうと思ったそうだ。 

 

 ナンシー夫人は実父と継母に蔑ろにされて育ったという。

 その上格上の侯爵家と縁続きになりたい成金の子爵だった父によって、愛人を何人も持つ男に何も知らされずに嫁がされた。

 

 愛情に飢えていたナンシー夫人は早く家から出たいとずっと願っていた。そしてたとえ政略結婚であっても、夫に尽くし良い妻になって、いずれ愛してもらいたいと夢見ていたそうだ。

 

 だからこそ、夫のために持参金で商売を始め、少しでも傾きかけたウエリントン侯爵家を立て直そうと努めた。

 その結果立ち上げた商会の運営が順調に伸びて、かなりの利益をあげるようになって、すぐに侯爵家はその威信を取り戻した。

 そしてその後間もなく夫人は身籠って、跡取りになる嫡男のダニエルを授かった。

 ナンシー夫人は、夢だった幸せをようやく手に入れたと思ったそうだ。

 結婚当初はよそよそしかった年上の夫である侯爵も、嫡男のダニエル様が生まれてからはまるで人が変わったように、妻のナンシー夫人を溺愛するようになっていたからだ。

 

 しかし、夫人の幸せは長く続かなかったという。ダニエル様が生まれた一年後に、侯爵の愛人だったという女性二人が、それぞれ女の子の手を引いて屋敷に現れたからである。

 

 侯爵は若い頃から相当な遊び人だったそうだ。特に市井の女性と遊ぶのが好きで、堅苦しい貴族令嬢との結婚を嫌がっていたらしい。

 しかし、貴族の令嬢を妻に迎えなければ後継者から外すと言われて、仕方なく形だけの結婚をすることにした。

 とはいえ、相手は気位の高い高位貴族ではなく、素直で自分の言いなりになる下位の女性がいいと彼は思ったようだ。

 しかも金があって持参金を沢山用意できるような。

 

 そして偶然にも彼にとって都合のいい縁談が持ち込まれた。それがナンシー夫人との婚約だった。

 彼女は儚げな美人だった。しかも、従順で健気に尽くしてくるので、侯爵は妻に不満はなかった。いや、そこそこ気に入っていた。

 

 しかもこの妻は父親譲りの商売の才能があったようで、商会を興すとあっという間に成功して、家に大金を入れてくれるようになった。

 あれよあれよというまに、妻は傾きかけた侯爵家を建て直してくれた。その上、目に入れても痛くないほどの愛らしい息子を産んでくれた。

 侯爵は次第に妻であるナンシー夫人を溺愛するようになっていったと、マリラさんは言っていた。

 

 しかしそうなると、侯爵は二人の愛人と娘達が邪魔になってきた。

 妻に結婚前から愛人を囲っていたことがバレて、万が一出て行かれては大変だ。彼は急いで二人の愛人と手を切った。

 しかしそれが却って仇になった。夫が留守中に愛人二人が連れ立って屋敷にやって来て、夫人に養育費と手切れ金の増額を要求してきたからである。

 

 寝耳に水だった夫人がどれほどショックを受けたかは想像に難くない。

 

 両親に愛されず、夫にも裏切られたナンシー夫人には息子だけが生きるすべとなった。

 ところがその愛すべき息子のダニエルは、母親だけに拘るタイプではなく、誰にでも愛想を振りまくような子供だった。

 

 確かに息子も母を愛してはいただろう。しかし自分の要求に応じてくれる相手なら誰でもよかった。

 つまり彼女の息子ダニエルは、母親であるナンシー夫人だけを必要としていたわけではなかったのだ。

 それは仕方のないことで、ダニエルが悪かったわけではない。

 むしろ子育てを自らしない一般的な貴族の婦人だったなら、そんな子供の方が却って都合が良かっただろう。

 しかし肉親の愛に飢えていたナンシー夫人にとって、自分が必要とされていないように思えて、その絶望感は大きいものだったという。

 息子にとって自分など、いてもいなくてもいい存在のように思えて。

 

 そんな傷心な奥様を見ているのが辛かった侍女マリラは、彼女に孤児院の奉仕活動を勧めた。少しでも気晴らしになればいいと考えたからだ。

 そしてそれは思ったより効果があった。

 夫人はその後積極的に孤児達に関わり、一人一人に細やかな愛情を注いだ。それによって、子供達からも心からの笑顔という見返りを得ることができたのだ。

 

 

 その内に彼女の中からは、身内から愛されたいという欲望が消え去り、血縁に関係なく、人と人との結び付きに重きを置くようになっていった。

 そしてそんな彼女の姿勢が、商売の方にも相乗効果をもたらすようになっていったのだという。

 

 

 ✽✽✽

 

 

 私は王都の中でも一番の貧民街にある古い教会に付随する孤児院で育った。

 両親は八百屋をしていたが、六歳の時に火事で死んだ。隣の料理屋からのもらい火だった。

 私は両親とぼろアパートの三階に住んでいた。火は下から迫ってきて逃げ場所がなかった。

 すると近所の人達が下で毛布を広げて飛び降りろと言った。

 父は怖がって嫌がる私を抱き上げて、小窓から私を投げ落とした。

 

「愛してるわ、ケイト!」

 

「生き抜け! ケイト!」

 

 それが両親の最期の言葉だった。

 

 私だけ助かった。独りぼっちになって、いっそ両親と共に死んでいればと何度思ったことだろうか。それでも両親の最期の言葉を思い出して自分を奮い立たせた。

 

 私が身を寄せたのは、伝統だけはあるが、今ではすっかり貧民街になってしまった、王都の古い通りにある教会の付属の孤児院だった。

 しかしそこで暮らし始めて一年が過ぎた頃から、最悪だった孤児院の環境が少しずつ改善されていった。

 なんでもとある侯爵夫人が定期的に寄付をして下さるからだそうだ。

 私達は皆その侯爵夫人に感謝をしていた。いつか、その夫人に会って感謝の言葉を告げたいと私は思っていた。

 

 そして、それは思いがけない形で実現した。

 ある日私は、シスター達の会話を偶然に聞いてしまったのだ。

 奉仕活動で私達に色々と勉強を教えて下さるウエリントン侯爵夫人こそが、毎月孤児院に寄付して下さっている方なのだということを。

 

 高位貴族のご夫人でありながら、寄付だけでなく、自ら奉仕活動をなさっているなんて、なんて素晴らしい方なのだろう。私はすぐにその方の虜になってしまった。

 私は夫人から色々なことを教えてもらった。知らないことを知るということが、これほど楽しいものだとは思わなかった。

 

 そして私が八歳になった時、私を引き取りたいと申し出てくれたご夫妻が現れた。しかもなんとその方々は平民ではなく子爵家の当主ご夫妻だった。

 何故お貴族様が平民の孤児である私を養子にしたいのか、不思議でしかなかった。

 すると二つ年上のベスが言った。

 

「それはあんたを政略結婚の駒にしたいのよ。あんた可愛い顔しているから。

 きっと十五になったらあんたは、高位貴族の後妻にでもさせられるのよ。お爺さんみたいな年の人と」

 

 なるほど、と私は思った。だからシスターにこう言った。

 

「私は亡くなった両親のように愛する人と貧しくても幸せな結婚をしたいです。お爺さんの後妻になんてなりたくないです。

 ですからその養子のお話は断って下さい。お願いします」

 

 するとシスターは目をまんまるに見開いていた後、フッと笑ってこう言った。

 

「確かにオルガー子爵家の養子になったら、ある方のご子息様と婚約することになるでしょう。

 しかしお相手は高位貴族のお爺さんなどではなくて、貴女と同じ年のご子息様だと思いますよ。

 しかもその方は、まるで絵本の中に出てくる王子様みたいに綺麗な方だと思いますよ」

 

 そしてその一週間後の日曜日、私はウエリントン侯爵夫人に連れられて教会にやってきた少年を見た。

 金色のフワフワ癖っ毛に、エメラルドグリーンの瞳をしたとても愛らしい少年を。まるで天使の絵のように綺麗だった。

 夫人に甘えるように、体を密着させて座っているその少年は、母親の愛に包まれてとても幸せそうだった。

 その少年の姿を羨ましいと思うと同時に、その輝くばかりの愛らしい姿に私は一目惚れしてしまった。

 もしあの少年の側にいられたら、私も幸せになれるのではないか、そんな幻想を抱いた。

 もちろんその時はまだ、その天使が自分の婚約者になるなんて夢にも思っていなかったけれど。

 

 

 

 ✽✽✽

 

 

 

 私との婚約破棄を頑なに認めないダニエル様に、私はこう言った。

 

「ダニエル様は何か思い違いをなさっているのではありませんか?」

 

「思い違い?」

 

「はい。私と結婚しなければ、貴方はお母様の商会を引き継ぐことができないのではないかと。

 確かに私は、夫人の商会を守るために貴方の婚約者になり、そのための教育を受けてきたわけですから。

 でも、ご心配されなくても商会は貴方のものですよ。夫人のお子様はダニエル様お一人なのですから」

 

「確かに母上の子は僕だけだが、母上は僕より君を大切にしていた。だから君に商会を譲りたくて、最初は君を我が家の養子にしようとしたのだろう? 

 それを父上と僕が反対したから、今度は知人のオルガー子爵家に養子縁組を依頼してまで、僕の婚約者にしたんだ。君への思い入れは尋常じゃないよ」

 

 ダニエル様の言葉に私は喫驚した。ナンシー夫人が私を養子にしようとしていたなんて初耳だったからだ。

 それを聞いて、何故最初の顔合わせの時から、ダニエル様が酷く不機嫌だったのか、その理由がわかった。

 

 母親が自分よりも他人である私を可愛がり、しかも養子にしたいと言い出したので、母親を取られるような気がしたのだろう。

 つまり、彼は嫉妬心から私を嫌っていたのだろう。

 

 しかしナンシー夫人は、まあこれは適切な表現ではないけれど、自分の趣味でしている慈善活動の継続のために、商会の仕事をしていた。

 しかしそのために侯爵家に迷惑をかけるのは嫌だったそうだ。特に愛する一人息子のダニエル様に負担をかけるのは避けたい、そう夫人は私に語っていた。

 

 だからこそ夫人は早くから後継者となる人物を探していたのだ。そして最終的に私にその白羽の矢を立てたのだ。


 私は元々商売人の娘で幼い頃から計算ができたし、商売に関心を持っていたから。

 それに孤児院育ちで孤児院を大切に思っている私なら、私利私欲なしに福祉活動のため、商会、並びにそこで働ける人間を守ってくれるに違いない。そう夫人は考えられたのだと思う。

 

 しかし、ただの孤児を大きな商会の責任者に抜擢することは世間的に無理がある。

 特に夫人は自分の実家に口を出されたくなかった。彼らは欲深くてろくでなしの人間ばかりなので、商会には絶対に関わらせたくなかったのだそうだ。

 

 それに孤児院で私一人だけに特別な教育を施すのは無理だったに違いない。そんなことをしたら差別行為になり、孤児院の規律が乱れてしまうから。

 そこで、ナンシー様は私を養子に迎えようとなさったのだろう。私はそれを今の今まで知らなかったのだが。

 

 ところが、ご家族に反対されたので、一旦オルガー子爵家の養子にしてご子息の婚約者にすることで、夫人は私に後継者教育をしやすい環境を作ったのだろう。

 オルガー子爵家はウエリントン侯爵家の親戚筋であり、以前水害で大きな被害が出た時に、夫人から援助を受けたことがあった。その恩が返せると快く養子の件を引き受けてくれたのだ。

 子爵夫妻は私が貴族として生きていけるように、厳しく指導した。私は何度も逃げ出そうとしたが、孤児院の仲間の役に立つ人間になるのだと、その度にどうにか思い留まった。

 そして時間の経過と供に、彼らの厳しさの中に二人の愛情を感じ取るようになっていった。

 気付くと彼らはまるで祖父母のような慈愛のこもった目で私を見ていたからだ。

 

「こんな無駄なことをなぜやらなければいけないんだと思っているだろう?

 だがな、学んだことや身に付けたものが無駄になることはない。

 誰だって未来はわからない。だからこそ、学べる時に色々学んでおけ。いつかきっと役に立つだろう」

 

 義父のこの言葉は私の生きる上での指針となっている。

 だから、カモフラージュの婚約だって前向きに努力していたのだ。その努力が無駄になることはないと。

 

 しかし、どうやらダニエル様の方は、私達の婚約が偽りのものだとは知らなかったようだ。 

 だからいつもあんなに不満そうだったのかと、私はようやく理解した。

 

 そこで私はダニエル様に、そもそもこの婚約はカモフラージュだと思うと話した。

 

「ナンシー夫人は商会の実質的な経営者にするための教育を私に施すために、仮に貴方の婚約者にしたのだと思いますよ。

 そもそも侯爵家の嫡男であるダニエル様の妻に、平民、しかも孤児の私が選ばれるはずがないではないですか。

 最初から教育さえ済めば私は婚約を解消されて、侯爵家の商会を支える雇われ責任者となる予定だったのだと思います。

 そうでなければ、侯爵様までこの婚約を容認される筈がないですから。

 私は先日無事に商会の後継者としての勉強を修了いたしました。これでいつでもダニエル様の補助をできるようになりました。

 ですから仕事上のお付き合いは諦めて頂くしかありませんが、私生活においてダニエル様が嫌いな私といやいや生活を共にする必要はないのです。

 ですから婚約解消をしても何も問題はありません。

 どうかたくさんいる知人の中から本当にお好きな方と婚約を結び直して下さい」

 

「僕は君と婚約を解消する気はない」

 

「何をそう意固地になっているのですか?」

 

「意固地になっているわけじゃない」

 

「それでは何故ですか?」

 

 不毛なやり取りが続いてさすがにうんざりとしてきた私が声を荒げると、何故かダニエル様は顔を赤らめてモジモジし始めた。

 あまりの挙動不審な様子に引き気味にその返事を待っていると、なんとダニエル様は予想外の台詞を吐いた。

 

「それは……ケイトリン、君を僕が愛しているからだ」

 

「はぁ〜?!」

 

 そのせいで私は、またもや淑女としてはあるまじき大声を張り上げて絶句したのだった。


 ✽✽✽✽✽

 

 

 私とダニエル様が顔合わせをしたのは、私がオルガー子爵家の養子になってから二年後の十歳の時だった。

 その時ダニエル様が酷く不機嫌だったのは、夫人が侯爵家の養子にしようとしていた孤児が私だと気付いたからだそうだ。

 私はオルガー子爵家に引き取られてから、それはそれは厳しい淑女教育を受けた。

 だから当時の自分はすっかり令嬢に成り切れていたつもりだったのだが、さすが本物の高位貴族のご令息だ。二年くらいの付け焼き刃の所作では騙せなかったようだ。

 

 自分の養子にできないのなら、息子の婚約者にするつもりなのか? そこまでしてもこの少女を娘にしたいのか? そんなに大切なのか?

 

 ダニエル様は酷くショックを受けた。そしてそれと同時に私に激しく嫉妬をしたのだそうだ。

 もちろん私もそのことに気付いていた。だって私が夫人と話をしていると、いつもダニエル様は私のことを睨みつけていたもの。

 ところがなんと二年くらい前からは、ダニエル様は私ではなく、今度は母親であるナンシー夫人に対して嫉妬するようになったのだという。

 その理由は、それまで自分に夢中だったはずの私が急に素っ気なくなり、夫人とばかり仲良くするようになったからだそうだ。

 

 ダニエル様によると、最初は私に関心など全くなかったのに、学園に通うようになった頃から、次第に私のことが気になり出していたのだという。

 仲間達が私を話題にする度にムカムカしてきて、私を人目に晒したくないと思うようになった。

 だから私に地味な格好をするように要求してきたらしい。

 

「お前のようなエセ令嬢が派手な格好をすると下品になる。分相応に目立たない服装をしていろ!」

 

 確かに彼はそう言ったわ。そのくせパーティーの前に自分色のドレスや飾りを贈ってきたので、私はとても困惑したのだ。でもそれは、どうやら他のご令息方に対する牽制だったようだ。

 

「ご令息方への牽制ですって! 

 そのせいで私はご令嬢方から嫉妬されて、様々な嫌がらせを受けたのですよ! 酷いですわ!」

 

 私がカーッとなってこう言うと、ダニエル樣は深々と頭を下げた。

 

「君が嫌がらせを受けているのはわかっていた。だから、それを止めさせるために、僕は君のことなんてなんとも思っていない振りをし続けていたんだ。

 でもそのことで君に嫌われたのだから、本末転倒だった。本当に愚かだった。僕はずっと後悔していたんだ。だから今日は全てを告白して許しを請うて、君とやり直したいと思ったんだ。

 でも、まさか君が婚約解消まで考えていたなんて思いもしなかった。

 本当にすまなかった。君に許してもらえるまで結婚式は延期してもいい。だけど、婚約だけは解消するつもりはない。

 頼む、ケイトリン。もう一度やり直す機会を僕に与えてくれ」

 

 ダニエル様は今まであんなに偉そうにしていたのに、信じられないくらい真摯な態度で謝罪の言葉を述べ、やり直しを求めてきた。

 それにしてもダニエル様のこれまでの私への冷たい態度は、思春期特有の拗らせだったのか。

 彼の話を聞いて私は半ば呆れて反論する気も起きなかった。しかしそれでもどうしても納得できないというか、矛盾に感じることがあった。だから私はこうダニエル様に尋ねた。

 

「よしんば貴方が私を愛しているという言葉が本当だとするならば、貴方ってずいぶんと自虐的な性格をなさっているのですね?」

 

「自虐的?」

 

 言われた意味がわからない、というようにダニエル様が首を捻ったので、私は彼が二年前にカリーナ嬢に語った台詞を発した。

 

「カリーナ嬢、この屋敷には辛い思い出しかない。

 そして僕の婚約者はあのケイトリンだよ。作られた笑顔を貼り付けて、一度たりとも心からの笑顔を見せない。

 そんな淑女仮面の彼女と一緒にいて、幸せな思い出ができたわけがないだろう。

 だからこそ、こうして君との幸せな時を過ごすことによって、辛い思い出を幸せな想い出に変えたいんだ」

 

 それを聞いたダニエルが顔面蒼白になった。

 

「私といると幸せな気分にはなれないのでしょう? それなのにそんな私と結婚したいだなんて、貴方ってマゾなのですか?」

 

 私の言葉で、どうして自分が避けられるようになったのか、どうして私の熱が冷めたのか、ダニエルはそれをようやく理解したらしい。

 彼はフラフラと立ち上がると、私の前で土下座をした。

 

「あの言葉を聞いたのか。酷いことを言った。さぞかし辛い思いをしたことだろう。本当に申し訳なかった。

 あの時僕は王命で、カリーナ嬢を王太子殿下から引き離すために、彼女の関心を自分に向けさせようとしていたんだ。

 そのために君と僕が不仲であることを信じ込ませようとしたんだ。

 彼女は情が深い女性らしくて、不幸な男を見ると慰めてやりたくなる性分らしくて。

 

 王太子殿下の婚約者は隣の大国の王女でとにかく気位が高くて高飛車な方だろう? しかも五つ年上。

 いくら優秀な殿下でも王女にはやられっぱなしでかなり精神をやられていて、つい男爵令嬢に甘えてしまったらしいのだ。

 だけど、そんなことが隣国にバレたら外交上大問題になるだろう?

 それで二人を別れさせろと陛下から命じられたんだ」

 

 また王家? 国王も王太子もなんでダニエル様ばかり利用するの?

 自分達でどうにかしなさいよ! 他に人材はいないの?

 

 あっ、いないわね……

 

 王太子殿下の側近候補だった令息達は皆、学園時代に色々悪さをして退学になって、みんな廃嫡されていたのだ。

 酒に喧嘩に博打と女性問題、エトセトラ。

 それで二学年下で才気煥発な上に眉目秀麗なダニエル様に目を付け、彼頼みになっていたというわけなのね。

 

 道理でいつも忙しくしていて、お茶会もデートもドタキャンしてきたわけね。

 生徒会に王太子殿下のおもりに尻拭い、そんな中でも首位を取り続けたダニエル様って本当に凄い方だわ。

 

 それにしても、私と逢う時にいつもダニエル様が不機嫌そうだったわけがようやくわかった。

 彼は王家の命令で絶えずご令嬢達に作り笑顔を浮かべ続けていたのだ。ダニエル様はいつも疲れ切っていたのだろう。

 だから私生活でまで愛想を振りまく気力など、彼にはなかったのだ。

 

 バラバラだったパズルのピースが次々とはまっていく感じがした。

 しかし、まだ定位置の定まらないピースが二枚残っていた。

 

「それではあのカリーナ嬢へのドレスの件はどういうことでしょう?

 何故ダニエル様が彼女のためにドレスを作って差し上げているのですか?」

 

「僕がカリーナ嬢にドレスを作ってあげるわけがないだろう。

 確かにトノハタン洋裁店に依頼したのは僕だが、本当の発注者は王太子殿下なんだ。まさか殿下の名前を出すわけにはいかないだろう?」

 

「王太子殿下は隣国の王女殿下と結婚された後も、カリーナ嬢とお付き合いをしていたのですか?

 ダニエル様に散々迷惑をかけたというのに」

 

 私が驚いてそう言うと、ダニエル様は首を横に振ってそれを否定した。

 

「二人は二年前にきちんと別れたよ。ただ一番辛い時に支えてもらっておきながら、一方的に縁を切ったことに対して、殿下は後ろめたい気持ちを持っていたらしいんだ。

 それで何か償いたいと殿下がカリーナ嬢に言ったらしいのだが、彼女はそんなことは望んでいないと断ったそうだ。

 しかしそれではどうしても自分の気が済まないと殿下がしつこく言ったので、殿下の気が済むのならと、彼女は二年後の卒業パーティーに着るドレスを希望したそうだ。

 どうせそのうち忘れるだろうと思って」

 

 気が済まないのなら、自分の力でどうにかすればいいのに、それさえダニエル様に頼むなんて、なんて図々しい人なの。

 私の中で王家、特に王太子殿下の評価はダダ下がりだ。できれば今後関わりたくないし、ダニエル様にもお付き合いしてもらいたくはないわね。もちろんそんなことは言えないけれど。

 

「ケイトリン、僕が愛しているのは君だけなんだよ。信じて欲しい」

 

 とダニエル様からこう懇願されたので私はこう言った。

 

「貴方の『君だけ』は信じられません。貴方は私だけではなく誰に対してもそう言っていますからね。鳥の羽根よりも軽い言葉ですわ」

 

「軽い?『君だけ』って言葉は女性にとってはとても重い言葉だと聞いたんだけど。

 そもそも女性を誘惑する方法なんて知らないから、陛下には何度も依頼を断ったんだよ。

 そうしたら自分の父親に教えを請えと言われたんだ。父と陛下は学園時代の悪友だったらしい。

『君だけ』って言葉も、こう言えば秘密を誰にも漏らされる心配がないし、女性との親密度を高める効果があると父に勧められたから使ったんだ」

 

 ダニエル様の女殺しテクニックは侯爵様直伝だったのか。ええ、確かにそう言われて喜ばない女性はいないだろう。しかし、

 

「確かに効果はあるでしょうね。

 だからこそ、誰彼構わず『君だけだよ』という言葉を使う男なんて、信じてはいけないサイテー男。つまり遊び人だと皆に認識されるのですよ。

 たとえ女性が喜んだとしても、それは最初だけでしょうね。自分以外の女性にもその言葉を使っているのを聞いたら、その時点で愛情は冷めます」

 

「えっ?」

 

「『君だけ』って言葉は女性にとってはとても重い言葉だからこそ、本当に愛する女性にしか使ってはいけないんです。

 私は貴方が私以外の女性にもそう言っていたのを知っています。

 カリーナ嬢や知人のご令嬢方だけでなく、貴方はこの屋敷にいらっしゃる使用人の皆様にもそう仰っていたのでしょう?

 マリラさんもナンシー夫人が近くにいらしたのにダニエル様にそう言われて、冷や汗をかいたそうですよ。

 ダニエル様の言葉を聞いた夫人はショックを受けて暫く寝込んだそうですし」

 

「知らなかった……」

 

 ぼう然としているダニエル様をその場に残して、私はウエリントン侯爵家を後にしたのだった。

 

 

 

 そしてその後、私は卒業式の前日までずっと、ダニエル様の謝罪と復縁要求をずっと聞き続けることになった。

 

「ケイトリン、これからは何よりも君を優先します。これからも君をずっと愛し続けます。一生側にいて下さい」

 

「侯爵様は貴方が学園を卒業したら貴方に爵位を譲り、ナンシー夫人の仕事をサポートをしながら贖罪を続けていきたいそうです。

 過去の浮気だけではなく、息子に女性を誘惑するテクニックを指導したことを知って、ナンシー様はこれまでにないくらい激怒されていますからね。

 ですからこれからダニエル様は、お一人で領地経営をすることになり、とてもお忙しくなることでしょう。

 その上ダニエル様が王太子殿下の側近になったら、ますますお忙しくなって、これまで以上にお会いすることができなくなるのは間違いありません。

 私は夫と滅多に逢えない、そんな寂しい結婚生活には堪えられそうにないので、どうか婚約は解消して下さい。

 侯爵様とナンシー様からはダニエル様との結婚は好きにしていいと言って頂いています」

 

「婚約は絶対に解消はしない。それにこれからは貴方を絶対に淋しい思いはさせない」

 

「どうやって?」

 

「今日王太子殿下の側近になるのを辞退してきた。これ以上王家の私的な我儘には付き合ってはいられないから。

 それと貴女は僕のことを八方美人だと思っているみたいだけれど、それは子供の頃の話だから誤解しないでくれ。

 学園で社交的に振る舞っていたのは貴族としての務めと、王家の命令だったからだ。そのことはわかって欲しい」

 

「頭では理解しています。でも、私の貴方への愛情はカリーナ嬢との会話を聞いた時に消えてしまいました。

 それが王家から与えられた任務だったと聞かされても、今さらどうしようもないのです」

 

「わかってる。それはそれまでに貴女の信頼を勝ち取る努力をしなかった僕自身のせいだから。でも僕はケイトリンを諦めたくない。

 これからは領地経営だけでなく、商会や慈善活動にも励むつもりだよ。

 そうすれば貴女と逢う時間が増えるからね。そして再び僕への愛情の火を貴女の心に灯してみせるよ」

 

 そして結局のところ、私はダニエル様に根負けしてしまった。

 だって、消えてしまったとダニエル様には言ったけれど、それは嘘だったのだから。

 彼への思いはあの日から二年以上経った今でも、心の中で燻り続けて消えることはなかった。

 初恋って本当にしつこいわ。そう小さく呟きながら、私はダニエル様にエスコートされて、卒業パーティー会場へ足を踏み入れた。

 

 大勢の同級生だけでなく、ダニエル様まで私の見慣れぬ姿に目を見張っていた。

 そう。私はいつも、高価ではあるがシンプルなデザインのシャンパンゴールドか濃いブルーのドレスを着ていた。

 しかし今日の私は、可愛らしい薄いピンク色のフワフワのドレス姿だったのだから。

 

「ケイトリン、あなたにはやっぱりフワフワのピンク色の服が似合うわね。まるでお花の精みたい。可愛いわ」

 

「綺麗で可愛い花には悪い虫が近寄ってくる。だから気をつけないとだめだぞ」

 

「大丈夫よ。この子はしっかり者だから」

 

 お母さん、お父さん、ごめんなさい。あなた達の娘は悪い虫に捕まってしまいました。でも毒はなさそうなので安心して下さい。

 燃え盛る炎の中で、私を命がけで守ってくれてありがとう。おかげで私は今、沢山の人に助けられ愛されてとても幸せです。

 

 私の髪にはブルーの髪飾り、首元には金色のネックレス、そして左手には金と銀の指輪が光り輝いています。

 それらの装飾品はまるで、私の隣に立つ人物の独占欲の表れのようで恥ずかしいです。

 けれども、それらはピンクのドレスにとても似合ってはいるので、まあいいかな、と私は思っています。


 

 

 

 ウエリントン侯爵夫人のナンシーは、ケイトリンを実の娘のように思っていた。だから、カモフラージュではなく、実の息子と本当に結婚して欲しいと思っていた。

 しかし、本人達の意志を無視して強制するつもりはなかったので、自然の流れに任せていた。

 ところが二人はいつまで経ってもギクシャクしていたので、相性が悪いのかと半ば二人の結婚を諦めていた。

 夫人は夫が王命を受けて、息子ダニエルに王太子の尻拭いをさせていたことを知らなかったのだ。そしてそのせいで二人がすれ違っていたことも。

 後になって息子からそれを聞かされた夫人は、当然激怒した。その怒りは夫に愛人と娘がいると知った時以上だった。


 ちなみに彼の愛人や娘達はナンシーに親身に面倒をみてもらい、立派に独立して暮らしていた。そして、侯爵を軽蔑して完全に縁を切っていた。

 今の夫には妻に見捨てられたら、相手をしてくれる身近な人間はいなかった。

 夫はただひれ伏して妻に許しを請い続けた。そんな彼の状況を把握していない親族や周りの貴族達は、ダニエルとケイトリンの結婚は身分違いだ、と異議を申し立てる者が跡を絶たなかった。

 若い娘を持つ貴族達の多くが、侯爵令息で眉目秀麗、その上王家からの覚えめでたいダニエルと、縁を結びたいと思っていたからだ。

 しかし侯爵は、息子の結婚に口をはさむ余裕など、全く持ち合わせてはいなかったのだった。


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