君と、もう一度
──────私、死んだら猫になるから。
妻は若いころ、そう言っていた。妻自身が猫アレルギーで猫と一緒に暮らすことは叶わなかったのだ。
どちらが先に死ぬか、という話題になった時に妻はそう言った。僕より先に死んで、猫になってまた会いにくると。そんなことを、黒のネクタイを緩めながら思い出していた。
夫婦仲は終始円満だったと思う。派手な喧嘩や言い争いなどはしなかった。子どもにはふたり恵まれ、ふたりともに独立し、また新婚の時のように夫婦だけの暮らしに戻った矢先だった。妻は、僕より先に死ぬと言っていたことを現実のことにしてしまった。
幸いなことに互いに大きな病気もなく、体力の衰えや生活習慣病に気を付けようと言い合っていた。なのに、一台の車がそんなささやかな願いをあっさりと奪ってしまった。
事故と危篤の報せを受けてから、最後を看取り、葬儀、初七日、49日、一周忌、相手側との裁判、示談、三回忌……あっという間の日々だった。
これからも妻とふたりで暮らすつもりだった家。子どもふたりが巣立って広くなった家が、増々広くなってしまった。そこかしこに妻の気配が染み着いている。妻は僕よりもこの家の主だったのだ。
冷蔵庫を開けて、まとめて買い置きしておいた麦茶のペットボトルを取り出す。妻はいつも冷蔵庫の扉側に、毎朝煎れた麦茶を冷やしておいてくれた。豆腐が好きな妻は毎日味噌汁に入れるための豆腐をいつも決まった場所に置いていた。たまごかけご飯が好きな妻は、たまごを切らしたこともない。勤めていた僕の弁当のために毎日たまごを焼いていた。
それが、今はない。
麦茶も、豆腐も、たまごも……冷蔵庫ひとつ開けるだけで、妻の存在を探してしまう。妻の気配を感じてしまう。不意に胸を突き刺す哀しさが襲うのはこんな時だ。僕の生活は、僕の日常は、全て妻ありきだったのだ。家族と云うものはみんなそうなのかもしれないが、妻が居てくれていたからこそ、僕は快適な生活を送れていた。
子育ても参加した方だとは思う。子どもたちが幼いころ、休みの日には必ず相手をしていたし、妻の体調が優れない時は下手くそながらも食事の用意をしたり、風呂の世話、寝かし付けなどもした。妻のようには到底及ばなかっただろうけれども。
麦茶をコップに注ぐのも面倒で、ペットボトルに口を着けて直接飲む。妻は麦茶を買うことは滅多にしなかった。どこかに出かける時も、自分で煎れた麦茶を小さな水筒に入れて持って行っていた。妻はコーヒーも紅茶も好きで、僕にも必ず淹れてくれた。僕の好みをすぐに把握して、絶妙な甘さ加減で用意してくれた。僕より僕のことに詳しかった。
冷蔵庫の中は何もない。部屋は汚くなってきている。だけど気力が湧かない。三回忌が終わったこの日、僕はやっぱり何も出来なかった。
妻が恋しいとか、もう一度会いたいとか、そんなレベルじゃない。妻は僕の一部だった。妻が居なければ、僕は僕として居られない。妻の存在は、僕と云う人間の根本に根付いた必要不可欠な大切なものだった。
妻にとっての僕も、そんな存在となり得ていただろうか? 答えはもう、返ってこない。
この先僕は、妻という大切なひとが欠けたままで何年生きなければいけないのだろうか。
ポストに回覧板が入っていた。犬猫の譲渡会があるという。猫。妻は死んだら猫になると言っていたけれど、猫になれたのだろうか。猫になって、僕のところに戻ってくるか、子どもたちのところに行くと言っていた。色々な本を読んでいた、本好きの妻らしい発想だ。
そんなことを信じたわけではないけれど、時間を持て余しているのも事実で、近所で開催されるその譲渡会というのに行ってみることにした。
譲渡会は結構賑わっていた。そこでふと気付く。僕は、猫を飼うのか? 一番根本的なことだ。僕は別に猫アレルギーではないけれど、特別猫が好きというわけでもない。そもそも一度も生き物を飼ったことがない。そんな初老の男が気安く譲渡会などに顔を出していいものなのか。
そんなことをグダグダと考えているうちに、譲渡会を開催しているボランティアスタッフに声を掛けられてしまった。飼えるかどうか判らないと正直に伝えると、ここに居る子たちの顔を見ていくだけでもいいと、笑顔で返された。すぐに踵を反すことも躊躇われて、取り敢えず一周することにした。
様々な成長過程の猫たちがケージに入れられている。ケージから出して抱っこしている来場者もいる。ああやって飼えるかどうか確かめているのだろうか。ここに居る猫たちはみんな心に傷を負った猫たちなのだろうか。一緒に居たら、傷は薄くなるんだろうか。
見ていても、眉間に消えない皺が刻まれた僕のような年寄りは猫も嫌なのだろう。ケージの中で興味ないとばかりにそっぽを向く。思わず妻との出会いを思い出した。年上の部下として入社した僕に、年下の上司の妻は最初つっけんどんだった。その態度がやっと和らいだのは出会って3年ほど経ってからだった。
気が付くと、僕は真剣にゲージの猫たちを見つめていた。ねぇ、君はどこに居るの? 猫になってまた僕の元に戻ってきてくれるんだろう?
この日、僕は妻を探しだせなかった。
この譲渡会を境に、僕はネットで検索して移動可能な譲渡会に足繁く通うようになった。
妻のファンタジーな言葉を信じたわけではないけれど、何もしないで過ごす毎日が耐えられなかったのだ。それにもしこのまま何もしないでいたら、死んだあとあの世で妻に叱られてしまう。死後の世界と云うのがあればの話だけど。
猫にも好みがあるのだろう。全般的に僕には興味がないようだ。僕と猫とは相性が悪いのだろうか。譲渡会に行くのも10回目を越えるころになるとそう感じられて、僅かに落ち込む。
妻も最初のころは気難しかったな。笑えば可愛いのに、と良く思ったものだ。笑えば可愛い。僕以外のひとには笑い掛けているのに。僕にも笑って欲しい、と思うようになったのはいつのころだっただろう。
僕に横顔を見せる猫たちに、妻との思い出が重なる。
臆病で、優柔不断な僕は、告白も、プロポーズも妻主体にさせてしまった。だから、今度こそ、僕が妻を探しだしたいんだ。
ねぇ、君はどこに居るの?
* * * *
やっと、見付けた。やっと出会えた。その日は運命の日だったんだろう。
僕の思い込みかもしれない。妻が猫に生まれ変わるなんて、結局のところ夢物語だ。妻を喪った僕が見ている現実逃避かも。それでもいい。
僕を見つめてくる小さな目。妻は、人の目を見つめるひとだった。付き合い始めのころ、妻の大きな目に見つめられて密かに動揺していたものだ。みんな僕を見ないなか、僕を見つめてきた小さな子猫。
ねぇ、君はこんな小さな子猫になったの?
声に出さずに呟いてみると、子猫はみゃぁと鳴いた。そのタイミングの良さに、笑えた。ボランティアスタッフに尋ねてみると、この子猫は約生後1ヶ月らしい。そんなに小さいんだ。1ヶ月前にやっと生まれたんだ。
待ち合わせに遅刻したことのない妻にしては、珍しく大遅刻だな。僕はもう1年近く、君を探していたんだから。
様々なチェックと、書類にサインをして、やっと子猫を家に迎えることになった。家に連れ帰ると、子猫は部屋を入念にチェックした。気が済むまでチェックするといい。妻を探し始める前に比べて、家の状態は大分回復した。部屋も掃除するようになったし、冷蔵庫の中も補充して拙いながらも自炊するようになった。いつ妻を連れ帰っても大丈夫なように。
子猫は台所のチェックもしていた。あらかた点検も終わり、少し落ち着くかと見ていたら、子猫はある場所で立ち止まった。それは妻がいつも座っていた場所───台所に向かいやすい、台所に一番近いダイニングテーブルの椅子だった。子猫は椅子を見上げて立ち止まり、物言いたげに僕を見る。座りたいのか? 落ちないように椅子の中央に乗せ、僕もその場に腰を下ろす。子猫は満足そうに僕を見たあと、そこで丸くなった。
しばらくしたら満足したのか、みゃぁみゃぁと鳴いて僕を呼ぶ。小さな温もりを壊さないように、落とさないように抱き抱える。暖かい……と感じた瞬間、不意に鼻の奥がツンとした。
妻が居なくなってしまってから、この家の温もりはなくなってしまった。僕以外の温もりを喪った。妻の席だったこの椅子も、僕以外の温もりが移ることはないと思っていたのに───今日から、この子猫が暖めてくれる。
妻が、猫になってまた暖めてくれるんだ。
そう感じて、涙が止まらなかった。止めることは出来なかった。妻は、僕との約束を絶対に忘れたりしなかったから───……
子猫は黒猫だった。成長していくにつれ、部分的に白い毛になった。人間でいう前髪の部分と、耳の部分……猫の顔でいうと目の横辺り。その部分が白くなった。妻は、その部分に集中していた白髪を気にしていたのだ。わざわざそんなところを再現しなくてもいいのに。そう言うと、妻はみゃぁみゃぁと何か不服を申し立てていた。
本当に君は、戻ってきたんだね。
冷え性だった妻は、毎晩僕にくっついて寝ていた。ベッドの中で冷えきった妻の足を当てられた時はその冷たさにいつも驚いていた。僕の熱はあっという間に奪われ、一度下がってしまった熱はなかなか回復しなかったものだけど、いつの間にか寝入っていた。黒猫になった妻は、いつものように僕と壁に挟まれて寝ている。冷え性は少しは改善されたようだけど、相変わらず僕にくっついて寝る。
僕の毎日の生活は、妻が戻ってきてくれてようやく元通りになってきた。
僕は妻より先に死ぬつもりだった。僕の方が5つも年上なんだから。なのに、妻の方が先に逝ってしまった。僕が死ぬ一日前に死にたいと言っていた君。寂しがり屋の君は、僕に置いていかれることを本当に嫌がっていたね。
だけど、知らなかっただろう。僕だって君と同じくらい寂しがり屋なんだ。君には悪いけど、絶対に僕の方が先に逝くと思って安心していたんだ。僕だって君に置いていかれることは絶対に嫌だったんだ。
君はきっと判っていたんだろう。僕より僕のことに詳しい君だもの。君を喪ったあとの僕がいかに駄目な人間になるかを。だから自分の好きな姿になって、戻ってきてくれたんだね。真実がどうあれ、君の言葉が今の僕の支えだよ。
そんなことをつらつらと話しながら黒猫を膝に乗せ、背を撫でると妻はいつも小さく返事をしてくれる。
ねぇ、今度こそ、僕は君に置いていかれずに済むのかな。勝手な話しだけど、僕は二度も君に置いていかれるのは嫌なんだ。僕が逝ったあと、君が寂しくないように、君のことは子どもたちにお願いしておくから。
そうして、もし叶うなら───お願いを聞いてもらえるのなら。生まれ変わったら、また僕と出会ってくれないかな。僕は君なしでは生きていられないんだ。
そう言うと、妻は尻尾で僕の手を優しく叩いてくる。二又に分かれた珍しい尻尾で。
まるで───はいはい、判ったわよ。全くしょうがないひとね───そう、妻が良く言っていたように。
耳に良く馴染んでいた、妻の声が聞こえた気がした───……