離縁した王女
500年の歴史と広大な領土、高い文化水準で栄華を誇っていたハリシム王国。
しかしここ百年の間に、国土の殆ど失い、領地は次々と独立されて歴史と文化遺産だけが残る小国となってしまった。
そんなハリシム王国は隣国の貴族や王族と婚姻する事で何とか生き延びてきた。
第三王女に生まれた私も三年前に21歳で隣国のミシム王国の第二王子、タランと結婚した。
ミシム王国は元々我が国の貴族が治める領地だった。
しかし独立の機運が高まり、ミシムの領主はハリシム王国に金を支払う事で独立した歴史を持っていた。
そんなミシム王国も現在は落ちぶれてしまい、国内産業は畜産と農業、あとは料理くらいしか名物が無い。
貴族すら畜産や耕地をする有り様、そんな貧乏国のミシムから来た王子と結婚。
私に拒否権は無く、正に絶望の結婚生活となった。
初めてタランと会ったのすら、結婚式の前日。
タランは貴族でありながら筋骨隆々な大男で精悍な容姿をしていたが、口数も少なく、私の好みでは無かった。
なにより没落した元々は我が国の一領地、愛せる筈も無かった。
タランは私の父である国王から爵位を賜り、新しく子爵家の当主となった。
更に王都から程近い土地と屋敷を与えられた。
私が不自由な生活を送らないで済む様にとの配慮だったのだろう。
タランは母国から苗を送って貰い、農業に力を入れ始めた。
時には自ら鍬を握り、領民と汗を掻くタラン。
とても貴族とは思えない振る舞いに、私は父上を通じ、何度も苦言を伝えて貰おうとしたが、結局父上は聞き入れてくれなかった。
諦めた私はタランの不在を利用し、領地を度々離れる様になった。
その間は王都にある兄の屋敷で過ごし、タランが戻ると領地に帰る日々。
こうする事で何とか精神の安定をはかっていた。
「アリシア、サリウムから手紙が来たぞ」
「サリウム様から?」
いつもの様に王都にある兄上の屋敷で寛いでいると、手紙を差し出された。
懐かしい名前に胸が躍る。
サリウム様は隣の大国、ヨマレイチ帝国の公爵。
現皇帝陛下の甥に当たられ、我が国に10年前まで留学しておられた。
同世代の兄上は王立学校の親友で、王宮に何度も顔を出されていた。
私はどれだけ胸を焦がした事か、現在も兄上と交流があり、手紙のやり取りをしていた。
「見ても宜しいので?」
「もちろんだ」
急いでサリウム様の手紙を広げる。
サリウム様は私の理想。
脳裏に浮かぶ細身の身体と美しい碧眼の眼差し、忘れる事の無い彼の姿。
筋肉質で、茶色い瞳のタランとは比べるだけ無駄であった。
「これは...」
手紙に書かれていたのはサリウム様の奥様が亡くなり、傷心に沈む彼の近況だった。
まだサリウム様は34歳、なんてお労しいの...
「ヨマレイチ帝国と更に固い友好関係を築くチャンスだ」
「兄上?」
それはどういう意味だろう?
「アリシア、サリウムの後添えになれ」
「は?」
なんて事を言うのだ。
サリウム様と結婚出来るならしたいが、私はタランの妻。
正当な理由無しに離縁は出来ない。
「私に任せよ、ミシム如き弱国に何が出来ようか」
兄上は元々ミシム王国のタランと私が結婚する事に反対だった。
『アリシアにはもっと良い話が』
何度も父上に言ってくれたが、
『これ以上反対するなら貴様の王位継承権を剥奪する』
そう父上から言われ、諦めた経緯があった。
「今度は大丈夫だ、父上に邪魔はさせない。それよりアリシア...」
兄上が何を言わんとするか、もちろん分かった。
「はい、私は今も...」
「アリシアでかした。加えてお前の美貌ならばサリウムは飛び付くぞ。
早速手紙を書こう」
兄上はサリウム様に手紙を書く事を約束してくれた。
これでようやく幸せになれる。
私は領地に戻らず、そのまま兄上の屋敷で過ごした。
「アリシア、参りました」
「入れ」
一ヶ月後、父上から王宮に来る様連絡が来た。
呼び出されたのは父上の私室。
部屋に父上しか居なかった。
「アリシア、お前は領地に帰らないで、ずっと王都に滞在していたのか」
「はい、もう戻らぬ所存です」
「お前は...」
射貫く様な父上の視線に怯む事無く、見詰め返す。
もう怖くない、なぜならサリウム様から兄上の元に手紙が届いたのだ。
私を後添えにしたいと。
おそらく、ヨマレイチ帝国からも父上の元に同様の手紙が届いたのだろう。
大国であるヨマレイチ帝国の申し出を断る事は不可能と分かったのだ。
「サリウムと結婚するつもりか?」
「はい」
「ではタランと...」
「離婚致します」
ようやく言えた。
少なくとも、三年前に言えたら良かったのだ。
タランも愛の無い結婚生活はつまらなかっただろうに。
私も無駄な時間を過ごしてしまった。
「本当に良いのか?」
「もちろんですわ。
タランと婚姻していたとはいえ政略結婚、しかも三年間ずっと白い婚姻でした」
「...なに?」
おや知らなかったのか。
私はタランと一度も身体を合わした事が無い。
何が悲しくて、土臭い男と。
「何を驚いていますの?
そもそもミシム王国と我が国では釣り合いは取れませんでした。
サリウム様との婚姻は良かったではありませぬか」
「アリシア...ではタランとは一度も」
「ええ口づけも式での一度限り、後は寝所すら別でしたから」
まだ信じられないのか。
本当は口づけさえも穢らわしい記憶なのだ。
初めての唇を、あの男に...
「そうか...だからタランはアッサリと」
「何か?」
「タランにヨマレイチ帝国の事を伝えたのだ、公爵家がアリシアを後添いにと話が来ておると」
「あら、もう言いましたの?」
「先日ちょうど王宮にタランが参ったのだ」
なんだ、手間が省けたわ。
「それでタランは何と?」
「お前の幸せを祈ると...近日中にこの国を去るとな...」
「なるほど、で?」
まあ了承するしか無かっただろう。
この国を去るとは大丈夫なのだろうか?
ミシム王国に帰っても居場所は無いだろうに。
「アリシア、何も感じぬか?」
「何をです?」
「曲がりなりにも夫婦では無いか、タランに情は感じぬのか?」
「そんな物、最初から一度も有りませぬ」
「分かった...もう下がってよい」
「失礼します、一度領地に戻り私物を集めて参ります」
そうと決まれば話は早い。
荷物をまとめ、兄上の屋敷に届けねば。
領地の屋敷には色々気に入りの物があるのだ。宝石や、食器等が。
「ただいま帰りました」
三か月振りに戻った領地。
屋敷に入った私を執事長のハリスが迎えた。
「おかえりなさいませ、アリシア様」
頭を下げるハリスだが、何か屋敷が変だ。
それは一体なんだと言われても、説明出来ない。
「どうかされましたか?」
「いいえ、タランは?」
居るなら最後に別れの挨拶くらいはしておこう。
一応は夫婦だった訳だし。
「タラン様は先日退去されました」
「はあ?」
「もうここに居る意味が無いと、私物を全部引き上げ、従者を連れて」
「なんですって?」
予想外だ。
まさかタランは私に挨拶も無しで出ていくとは、随分と甘く見られた物だ。
「まあ良いわ疲れたから、マッサージを頼むわミレットを呼びなさい」
とにかく落ち着こう。
馬車移動で身体が強張っている。
メイドのミレットはマッサージが上手い。
あれ程の技術を持った人間は王都にも居なかった。
彼女は是非ヨマレイチ帝国へ連れて行こう。
「ミレットはもう居りません」
「なぜ?」
「ミレットはタラン様がミシム王国からの連れて来た人間ですゆえ」
「はあ?」
「ですからミレットはタランが連れて来たと」
「ふざけないで!」
溜め息で二回も同じ事をハリスに怒鳴る。
不敬では無いか!
「そうであったとしても、ミレットは屋敷で雇っていた人間でしょ?
夫人である私に何の断りもなく!」
「アリシア様はタラン様と離縁されました。
許可は必要ないかと」
「...もう良いわ」
後で覚えてなさい。
ハリスは父上が用意してくれた人間だ。
ただでは済ませない。
「食事になさいますか?」
「そうね」
怒ったらお腹が空いてしまった。
先に食事を取ろう。
「不味い...」
スープを口に運び、余りの味に思わず吐き出す。
これは一体なんだ?
何の味もしないでは無いか。
「ちょっと、何よこれは!
料理長を呼びなさい!!」
「...は」
ハリスは調理場に料理長を呼びに行く。
間もなく料理長がやって来た。
「お呼びでしょうか?」
「なにこの料理は?
味が何にもしないじゃない!!」
「タラン様が全て食材と調味料を引き上げましたからです」
「ふざけるな!」
またしてもタランの仕業か!
「まさかアリシア様がお戻りになるとは、申し訳ございません」
全く悪びれない態度の料理長、薄ら笑いまで浮かべていた。
「父上に報告します!」
「どうぞ」
「え?」
なぜ?父上が怖くないの?
「タラン様が陛下に許可を取ったと、
私はもうここの人間では無いので、アリシア様も子爵家の妻では無い、そう申されました」
「...狭量な男ね、もう良いわ下げて」
「はい」
手際よく食器を下げる使用人。
みな無表情で、私を見ようともしない。
「ちょっと待ちなさい」
「なんでしょうか?」
「いつもの食器は?」
下げる食器がいつもの物では無い。
何の装飾もされて無いじゃないか。
「タラン様が引き上げました」
「また?」
「はい、食器だけではありません、調度品も、全部タラン様がお買い求めになられた物全て」
「...それも?」
「陛下の許可は取ったと」
まさかタランが、そこまでしなくても良いでは無いか。
寝室に行くとベッド等、僅かな家具以外全て消えていた。
「ベッドはプレゼントだそうです」
呆然とする私の後ろでハリスが呟く。
これ程の屈辱を味わわせてくれたのだ。
絶対に許さない、サリウムと結婚したら、直ぐミシム王国に言ってやる。
タランの身柄を寄越せと...
激しい怒りと空腹、殆ど眠れないまま一夜を過ごした。
「帰ります馬車を」
翌朝屋敷にあった私物を鞄に詰め終わり、馬車を用意させた。
「畏まりました」
ハリス以外姿が見えない。
他に全く人の気配が無いのだ。
「随分静かね」
「昨夜を以て、子爵家の使用人は全て辞めました」
「辞めた?」
「はい、皆タラン様に付いて行くと」
「......」
つまり、そういう事か...最初からタランは私を完全に陥れようと。
「...殺す」
「物騒ですな」
「貴方もよ、せいぜいお逃げなさい」
「聞かなかった事に致します」
「フン!」
強がっても無駄だ。
ヨマレイチ帝国を敵に回したのだ、絶対に逃がすものか。
怒りに震えながら王都へと引き上げた。
「これは一体?」
兄上の屋敷へ入ろうとする私を門番が止める。
門は厳重に封鎖されており、幾重にも針金が巻かれていた。
「第二王子は謹慎です」
「謹慎?兄上は何をしたの?」
「...詳しくは陛下に」
門番に聞いても理由を教えてくれない。
しかし大変な事が起きているのは分かった。
「父上!!」
「来たか...」
王宮に入り、玉座に座る父上を呼ぶ。
静かな目をした父上は私を一瞥し、溜め息を吐いた。
「なぜ兄上が謹慎なのです?」
「国王の私に黙ってお前の離縁を決め、サリウムに差し出したのだ。
当然であろう」
「しかしそれは私の幸せを願って」
「国の幸せを祈り、国民の安寧を願うのが貴族の務めであろうが!!」
「...父上」
生まれて初めて怒鳴られ、身体がすくむ。
一体何が起きたというのか?
「当然の結果なのだ」
「何がです...」
「一国の王子に、その様な扱いをすれば当然であろう?」
「王子と言っても、たかがミシム王国ではありませぬか」
「馬鹿者!!」
「ヒィ!」
またしても響く父上の怒鳴り声。
周りにいる貴族達から侮蔑の視線が私へと向けられた。
「ミシム王国は我が国を通じ、ヨマレイチ帝国へ良質な農産物や加工品を輸出しておった...」
「それが?」
それがなんだと言うのだ。
たかが農作物、そんな物くらい、どこでも取れるではないか。
「タランは我が国を通じて交易を広げていたのだ。
ミシム王国の良質な作物をな。
我が国は多大な税収が失われてしまった」
「だから...」
一体それがなんなの?
本当に意味が分からない。
農作物の税収なんか大した金額じゃ無いでしょ?
「世界から尊ばれる品質、最早ミシム王国の名声は揺るがぬ。
お前がタランにした事は世界に知られ、我が国の信用は失墜したのだ」
「嘘...」
そんな...それじゃ復讐なんて出来ないじゃない。
「ふざけないで!!」
「どこへ行く?」
「ミシム王国よ!タランに言ってやる!」
「咎はお前の方だぞ」
「はあ?」
なぜ私に咎があるの?
タランは私を、いやハリシム王国を利用したのに?
「夫であるタランを見下し、操を立て、ミシム王国を侮ったのはアリシアの方であろう」
「それのどこがいけませんの?
ミシム王国が我が国を利用した事は明白でしょ?」
「タランは我が国に新しい農業を根付かせようとした。
新種の苗を植え、治水を進めた。
領民は皆タランを慕っておった。
見下したお前の言う事等、誰が信じる?」
「あぁ...」
「いやタランは分かっていたのだろうな、だからお前の非道を隠し、夫婦仲は良好だと...」
「タラン...」
どこまでがタランの真意だったのか?
私は一度もタランと向き合って来なかった。
一体彼は三年の間、何を考えていたんだろう?
「い...今からでもタランに謝れば」
「謝って何とする?
お前はサリウムと結婚すると、馬鹿者を通じて国内外に発表したではないか」
「ですが...私が言えばタランとて、我が国の信用を」
「無駄だ、もう謝罪の段階を既に終えておる。
一応ミシム王国から、我が国には恩義はあるのでお前のした事は問わぬと言っておるが、どこまで信用して良いか...」
「分かりました...」
全てはミシム王国、いやタランの胸一つという事なのか。
信用を失ったハリシム王国の未来は、ヨマレイチ帝国のサリウム様に嫁ぐ私に掛かっているのだ。
「それとアリシア」
「はい...」
「サリウムには前妻との間に嫡子が居るので、お前がいくら正妻に座ろうが、公爵家は自由にならぬぞ」
「...な?」
「知らなかった様だな」
そんな事すら知らなかった。
でもチャンスはある。
私が子を成せば、まだ力を得るチャンスが...
「サリウムには5人も側妾が居る、子供は全部で14人だ。
今更新たな子を成すか」
「話が違う!!」
妾が居るなんて兄上から一言も聞いて無かった!
「隠しておったのだ、妹を差し出して金銭を得ておった。
わが息子ながらあさましい男よ」
「あ...兄上が」
「昔からサリウムはお前を気に入っていたらしい」
「父上!私はサリウムとは」
10年以上前から?私が十代前半から狙っていたの?
嫌だ!そんな好色な人間となんか!
「断れぬぞ」
「...なぜです?」
「今度はヨマレイチ帝国に泥を塗るつもりか?
我が国を滅ぼす気か?」
「わ...私は」
「以上だ、アリシアの婚姻はヨマレイチ帝国で来月執り行われる。
それまでお前を監視下に置かせて貰う」
「うぅ...」
こうして逃げる事も出来ぬまま、私はサリウム様と式を挙げるまで軟禁される事となった。
せめてもの救いは、サリウム様が初恋の相手だという事だけだった。
「ようこそアリシア」
「ど...どなたでしょうか?」
「私だよ、サリウムだ」
「サリウム様...?」
ヨマレイチ帝国で見た物は、禿げ上がった頭皮の肥大した身体を震わせながら好色な笑みを浮かべる男だった。
「嬉しいよ、まさかアリシアが私を待っていたとはな、それも清い身体で」
「ヒッィィ!」
「今日は寝かさぬぞ」
私の尻を撫で回しながらサリウムが耳元で囁く。
ここで意識を失ってしまい、淡い初恋は砕け散ったのであった。
翌年、ヨマレイチ帝国にミシム王国の使者がやって来ると聞いた。
身重の身体になっていたが、私は公爵夫人。
公務を果たすため、帝城で夫と共に使者を迎えた。
「この度は、我がミシム王国と交易を締結頂きありがとうございます」
「うむ、宜しく頼む」
『タラン...』
使者はタランだった。
一年ぶりに会うタラン。
変わらぬ引き締まった身体、口には立派な髭を蓄え、思わず目を奪われてしまう。
「タラン殿は奥方と?」
サリウムがタランと親しげに話す。
彼はタランが私の元夫だと知らない。
いや完全に忘れているのだろう。
「はい最近結婚しまして、この度同行致しましております」
タランが私に気づいていない筈は無い。
しかし、うっすらとした笑みを浮かべるだけで、私に一切視線を合わせようとしない。
「ほう、なんでも幼馴染みとか」
「ええ、苦しい時も支えてくれた大切な人です」
『誰?』
タランにそんな人がいたの?
聞いた事無いわ!!
「紹介して下さいますか?」
「畏まりました」
タランは後ろを振り返る。
一人の正装した貴婦人が歩み出てタランの隣に並ぶ。
なんて美しい女性だろう、溢れる気品に皆圧倒されている。
しかし、どこかで...
「タランの妻ミレットと申します」
「あぁ!」
そうだミレットだ!
メイドとしてタランの側にずっと居たのか!
「どうしたアリシア?」
サリウムが私を心配そうに見るが、それどころでは無い。
「アリシア様、余り興奮されてはお身体に障ります」
ミレットは私の身体に触る。
この手つき、間違い無い。
「ありがとね、アリシア」
「な!!」
そっと囁くミレットの言葉に私は全て仕組まれていたと知った。
全てはタランの思う壺であったと。