雷電 デブ戦と陰口をたたかれた機体
実戦投入です。
雷電投入後の戦争の流れもさらっと。派手かな。
文字数が多くなってしまいました。もっと簡易にするべきだったかなとも思います。
十四試局戦の量産試作が始まった昭和18年4月は厳しい戦局になっていた。
ガダルカナルでは大量の血と鉄を失い追い出され、4月18日には母艦搭乗員まで投入した[い号作戦]の激励と陣頭指揮に向かった連合艦隊司令長官山本五十六戦死と慌ただしい戦場だった。
その[い号作戦]も人と物の補給能力が続かず中途半端に終わった。また、貴重な母艦搭乗員多数と多くの機体を失い、一時的に機動部隊の能力を激減させ、ミッドウェー以降の損失をようやく回復した機動部隊はまた弱体化した。
試製雷電が最前線に投入されたのは、そんな状況下の昭和18年7月のラバウルとブインである。
国内での練成が終わりいくつかの飛行隊が最前線へと向かった。その内、二個飛行隊に試製雷電が配備されていた。
四三四空と四三六空は、要地防衛を基本とする基地航空隊で試製雷電が主力だ。配備先は四三四空がラバウル。四三六空がブインだった。
各々定数48機の航空隊だが、試製雷電28機、零戦8機、月光8機、一式陸攻2機で編成されていた。月光は斜銃装備の夜間戦闘機であり、対大型機専用であった。
一式陸攻2機は長距離迎撃実験用に機載電探を搭載。零戦8機は護衛のためだ。基本的に基地防衛には参加しないことになっている。基本的にはだが。この部隊は最新型機装備の実験部隊でも有った。月光は昼間空襲時、空中退避が基本である。
つまり昼間迎撃に使えるのは半分強の28機でしか無かった。しかも新型機の常で稼働率は零戦と較べると良くない。現地で嫌な顔をされたのは当然だった。
「アレが噂の太戦か。デブで十分じゃ無いか」
「面と向かって言うと怒るからな。デブは」
早くもデブ戦と呼ばれてしまう。使い方が悪かったせいだが、コレは酷い。傍目には太い艦戦だから、デブに見えるのだろう。
四三四空が配備された翌日夜。ラバウルに夜間空襲があった。月光は二式陸偵改造機も含め11機が稼働状態にあり、稼働全機出撃だった。また、事前に電探で察知されていたので空中迎撃指揮を試験的に執るとして一式陸攻2機と護衛の零戦4機が上がった。護衛の零戦は8機だが、夜間飛行で編隊飛行はおろか戦闘までこなせる猛者は4人だった。貴重な人材である。
その日、ラバウルにやって来た10機の爆撃機は不運だった。新型夜間戦闘機が増援で来ているとも知らず、のこのこやって来た。
夜間、灯火管制されている基地への夜間爆撃など、直接的な戦果は期待されていない。命中させるよりも、眠らせないという嫌がらせのための爆撃だ。基地付近に来たら適当にばらまいて帰る。ソレで任務終了だ。最近は新型機のせいで多少損害はあるが、命中させなくてもいい分、他に較べれば気楽な任務だった。レーダーで探知されているのは分かっているが、高度の把握が上手く行かないのか侵入高度を都度変更すれば被害は軽減できた。今晩もソレをやったのだが。
『夜空一番より月光全機。敵機は高度4000だ。方位は地上指揮所に従え』
『月光一番了解』
今までラバウルで試験的に運用されていた斜銃装備の二式陸偵搭乗員も正確な高度の誘導に驚いている。
(行くか。四三四空の連中だけ美味しい思いじゃあな)
既に戦闘に備え翼端灯は消している。尾部の編隊灯だけが頼りだ。それさえもうっかりすると夜空の星々の中に紛れ込む。そうなると黒い塗装と相まって、僚機の存在が全く分からない。実に怖い。計器板を照らす照明はよほど近寄らないと分からない。
『ラバウルのフクロウ。夜空2番。下方機銃で攻撃されたい。高度を4500に取って進路を30度右に取られたし』
「フクロウ1了解」「フクロウ2了解」「フクロウ3了解」
出撃前に[夜空]という呼び出し符丁の指令には従うようしっかりと指示されている。
その日の夜。ラバウルの南で火の玉多数が観測された。
試製雷電の初陣は翌日の日中だった。ブインにやって来たボーイングとコンソリが相手だ。迎撃に上がれたのは28機中23機だが、ラバウルの月光と同じく一式陸攻の電探誘導で敵機後上方に占位。護衛のF4U、P-38を零戦が引きつけている間に優位からの攻撃を開始。その高速性能と九九式二号銃四丁の強武装が威力を発揮。零戦なら良くて2回の会敵機会を4回得ることが出来た。B-17を6機撃墜。B-24も5機撃墜。複数を撃破。
零戦隊も爆撃機を気にすること無く、対戦闘機戦闘に集中できたので複数の敵機を撃墜。意気上がった。
米軍爆撃対の全容は、B-17が12機、B-24が16機。護衛のP-38が24機。F4Uが16機だった。
記録によると、ガダルカナルに帰投出来たのは、B-17が4機、B-24が8機。P-38が15機。F4Uが11機だった。途中で不時着した機体も多かった。米軍爆撃隊はソロモン始まって以来の大打撃を受けた。
これだけの威力を発揮したのに、デブという陰口は変わらなかった。空戦訓練では、低空低速なら零戦絶対有利であり鼻が高いが、自由戦闘となると負けが込むから零戦乗りの悔し紛れの悪口だった。
この日以降増える損害に根を上げた米軍爆撃隊は夜間爆撃を中止。ラバウルもブインも朝まで眠ることが出来るようになった。また昼間爆撃も護衛機を増やすなどの対応を取った。しかし、複数の飛行場群で構成されるポートモレスビーと違いガダルカナルは一気に大量の航空機が発進できる飛行場では無かった。ガダルカナル島の南側に副飛行場を造り、戦闘機用として補助的に使用する。
消耗する一方の日本軍は四三四空と四三六空を始めとする航空隊の活躍により、一時的ながら戦力の消耗が減少する。
これにより日本軍は、体勢を多少立て直すことが出来た。あくまでも多少であるが、とても大きな多少だった。
陸軍はようやく長期持久でニューギニア北岸を守ることに変更。ラエは維持困難として放棄することとなった。
ウェワクを最前線として持久体制に入るようであった。
ニューギニア北岸を守ることはフィリピンを守ることになる。オーストラリアとニューギニアの間には大型船が安全に航行行可能な海峡が無かった。補給部隊と設営部隊の展開上、北岸から行かなければ陸伝いに航空路の設定が出来ず、アメリカ陸軍主体のフィリピン攻略が出来ないのだった。
ラエの放棄はラバウル防衛にも影響した。中継地や緊急着陸先としてのガビエンを主力飛行場まで強化する等を行った。
四三四空と四三六空は実働データを携えて本土に帰っていった。代わりの部隊が派遣されたが、さすがに実験部隊程の練度は無く消耗も激しかった。しかし雷電と月光の投入に空中指揮機が加わり、零戦がおおざっぱな指示で飛んでいた頃よりは抵抗が出来ていた。
様々な抵抗を試みた物の米軍の実力に押され続け、ブインが無力化されラエにも拠点と飛行場を構築されるなど、戦局は悪化する一方だった。
日本軍は、ラバウル放棄を決定。ブインを始めとするブーゲンビル島に残された人員の救出も含め、大規模な撤退作戦を敢行。
ようやく再建なった空母戦力を含む連合艦隊のほとんどが投入され、第三次ソロモン海戦、トラック島沖海戦など大中小の海戦が起こり、日本海軍は戦力をすり減らした。与えた損害は同等でも、持たざる物の財布はずいぶん軽くなってしまった。
そのおかげで、ラバウルとブーゲンビル島周辺に残された陸海軍人員は本土の土を踏むことが出来た。訓練された13万人以上の人材は、海軍の消耗を考えても貴重な物だった。
雷電登場以降、マリアナ防衛戦までに失われた主力艦(重巡以上)の最終戦役。
武蔵
第三次ソロモン海戦にて、アメリカ新鋭戦艦戦隊と交戦。沈没。
陸奥
第三次ソロモン海戦にて、アメリカ新鋭戦艦戦隊と交戦。轟沈。
熊野
第三次ソロモン海戦にてアメリカ巡洋艦戦隊と交戦。沈没。
第三次ソロモン海戦
ブイン周辺の兵力撤収の時間を作るためにガダルカナル飛行場を無力化しようと、ガダルカナル島砲撃に向かっていた大和、武蔵、長門、陸奥、伊勢、日向と、迎撃に向かったアイオワ、ニュージャージー、サウスダコタ、インディアナ、アラバマ、マサチューセッツとの夜戦。ノースカロライナとワシントンは大西洋配備だった。
アメリカ海軍機動部隊は、トラックを出た第一機動艦隊に釣り出されサンタイザベル島北方にいた。日本海軍が水上砲戦部隊だけでガダルカナル島に向かっているとの情報を得て、水上砲戦部隊を分離。航路の都合でマライタ島西を廻らざるを得ず、フロリダ諸島西を通過した時点で日本艦隊を発見。その時点でサボ島が邪魔で日本艦隊に追いつけないことから、サボ島東に決戦海面を求めた。
大和を始めとする艦隊はトラック出港後エンプレス・オーガスタ湾に潜んでいた。
アイオワ、サウスダコタ、アラバマを撃沈したが、武蔵は大破炎上。武蔵の電探が初期に被弾損傷。探照灯射撃にしたため砲撃が集中した。この頃の日本艦艇は、電探で距離を測距儀で方位を測定していた。武蔵は海岸にのし上げようとしたが届かず沈没。上部構造物だけを海面に出し着底した。
日本は戦術目標であるガダルカナル島飛行場砲撃が、敵艦隊との交戦に時間を取られ不十分に終わった。それでも大和、長門、伊勢、日向の巨弾は小型機の離着陸を8日間不能にした。米軍は放棄も考えたようだ。大型機が離着陸出来るようになったのは3週間後である。これは、一面荒れ地になってしまった上に、周辺に退避させておいたブルドーザーなどの建設重機が砲撃で使用不能になったからだった。その3週間は貴重だった。ほとんどの兵力の撤収に成功したのだ。ブインは即座に利用できないように徹底的に破壊した上に、いろいろなトラップを仕掛け少しでも敵の利用開始を遅らせようとした。結局アメリカ軍が基地を造ったのはタロキナだった。
戦後、オーストラリアの業者が武蔵を勝手に解体しようとして国際問題になった。後年、日本企業が浮揚しようとしたが損傷と経年による痛みが激しく断念。現地で解体し主要部分のみ原型で持ち帰り、復元した物が展示されている。周辺海域では、他にも幾多の海戦で海岸にのし上げようとした艦は多く、水深の浅い地点でダイビングスポットになっている。
扶桑
ニュージョージア島沖海戦にて、砲撃と魚雷を受け転覆沈没。
ニュージョージア島沖海戦
第三次ソロモン海戦の1ヶ月後。ブイン周辺の兵力撤収に成功した日本軍は、ラバウルがポートモレスビーとガダルカナル双方からの爆撃に悩まされている。もう日本軍ではポートモレスビーを黙らせることは出来なかった。そこでガダルカナル島飛行場を黙らせようと砲撃を試みた日本海軍水上砲戦部隊と、阻止しようとしたアメリカ海軍水上砲戦部隊との激突である。夜戦。
日本側の戦艦は、伊勢、日向、扶桑、山城。
アメリカ側戦艦は、マサチューセッツ、ワシントン、ノースカロライナ。
アメリカ側は機動部隊に随伴できる戦艦がなくなるとの理由で、日本側は新鋭戦艦の相手は無理があるという理由で、双方とも戦艦を保全しようと腰が引けた砲戦を行った。主役は水雷戦隊だった。双方の戦艦に魚雷が命中すると、ようやく近づいての砲戦になった。マサチューセッツを撃沈した。山城はこの時の損傷判定が中破で有ったが、主砲塔二基使用不能と二基のターレットが歪むなど修理に手間が掛かることが分かり柱島で係留されたまま終戦を迎える。
双方ニュージョージア島沖で分かれ、飛行場砲撃は失敗した。
金剛
トラック島沖海戦にて、敵機動部隊と交戦。航空攻撃で沈没。
飛鷹
トラック島沖海戦にて、敵機動部隊と交戦。航空攻撃で沈没。
摩耶
トラック島沖海戦にて、敵機動部隊と交戦。航空攻撃で沈没。
那智
トラック島沖海戦にて、敵機動部隊を夜襲。撃沈される。
鈴谷
トラック島沖海戦にて、敵機動部隊を夜襲。撃沈される。
長門
トラック島沖海戦にて、夜戦に参加。帰路、航空攻撃を受け沈没。
トラック島沖海戦
ラバウルを撤収しトラックに向かう輸送船団を狙ったアメリカ海軍機動部隊4群空母16隻と日本海軍主力艦隊の機動部隊同士にトラック島航空隊が加わった戦い。昼間航空戦に続き、損傷した艦艇を抱えるアメリカ海軍機動部隊を狙った夜戦という、二つの戦いの総称。航空戦力で優位に立つアメリカ海軍機動部隊と戦艦戦力で優位な日本海軍との戦い。
当時のアメリカ海軍機動部隊に配備されていた戦艦は、ニュージャージー、ノースカロライナの2隻で、インディアナとワシントンは損傷復旧のためハワイとサンディエゴのドックにいた。
日本側は、大和、長門、伊勢、日向、金剛、榛名。大和以外は最新鋭戦艦を相手するのに不安な面々である。数の上では2隻対6隻だった。
ラバウルの陸攻隊は、ラバウル撤収に先立つポートモレスビー飛行場無力化攻撃で疲弊(壊滅状態)しており、撤収先のトラックから空中指揮機しか参加していない。
トラックの戦闘機だけでは足らずマリアナの戦闘機隊まで集めて、辛うじて輸送船団を守り切ったものの、金剛沈没、飛鷹沈没、大鳳中破、瑞鶴小破という損害を受けた。日本海軍の攻撃は第一機動艦隊が1群を攻撃し、敵正規空母2隻に魚雷を命中させ速力低下(日本軍撤収後には洋上停止)という戦果を得た。他にインディペンデンス級2隻の飛行甲板を使用不能に追いやった。トラックの攻撃隊は他の2群を攻撃したが、ぶ厚い迎撃網に阻まれ戦果はほぼ無い。1群は未発見で日本軍は位置を知らなかった。
夜戦は、この2隻を狙って追いついた大和を始めとする日本海軍水上砲戦部隊とアメリカ海軍水上砲戦部隊との激突である。 空母ヨークタウンⅡとバンカーヒル、戦艦ニュージャージーとノースカロライナがこの夜戦で撃沈された。空母ヨークタウンⅡとバンカーヒルは昼間の空襲で航空魚雷を受け曳航され速力が出ない状態だった。この時点で、アメリカ海軍の作戦行動が出来る高速戦艦が無くなってしまった。
夜戦を終えてトラックに向かう日本艦隊を残り3群の機動部隊が攻撃するが、全戦闘機の傘で防衛。数隻失われたのみだった。
日本海軍の水上砲戦部隊が届いたのは、アメリカ海軍機動部隊の1群がトラック側に踏み込みすぎたからだった。後年、乗組員のみ救助して船は自沈させた方が良かったという意見が有るが、日本軍の攻撃による損傷が水線下のみだったこともあり戦線復帰が容易と見られていた事。日本軍の航空攻撃能力を失わせたと考えていた事。等からマーシャル経由でハワイまで回航可能と考えていたのでは無いかと言われる。
海軍はその残存戦力から、正面決戦などと言う妄言を吐く者はいなくなってしまった。
海軍の戦闘機は迎撃戦闘機である雷電が主力になり、要地防空能力は高くなっていった。昭和19年夏からは局地戦闘機紫電改の配備が始まり、対戦闘機任務は減っていく。
信濃として完成する予定だった第110号艦は資源として解体され、高品質な鉄の不足に悩む国内産業各所に配給された。他には伊吹、阿蘇、笠置、生駒、鞍馬が同様の憂き目に遭っている。工事を続行しても、竣工後慣熟期間が得られそうに無いと言う見通しからだった。
この鉄の量と関わっていた人材が他に回されたことで船舶生産量が少し回復している。松級駆逐艦と海防艦各種が量産され、本土沿岸のみならず、南方との通商路防衛に果たした役目は大きい。
昭和19年10月。マリアナ防衛戦が発生。主力空母や戦艦が沈められるなど一敗地にまみれる。マリアナ陥落。
アメリカ海軍機動部隊に与えた損害は、空母2隻撃破。巡洋艦1撃沈。駆逐艦2撃沈。
高雄
マリアナ防衛戦にて、敵機動部隊と交戦。航空攻撃で沈没。
翔鶴
マリアナ防衛戦にて、敵機動部隊と交戦。航空攻撃で沈没。
日向
マリアナ防衛戦にて、敵機動部隊と交戦。航空攻撃で沈没。
昭和19年11月。本土空襲。九州に南西からやって来た。機種はB-29。護衛無しであり、迎撃網の前に予想しただろう戦果を残すこと無く帰って行った。数回行われたが戦果よりも損害が多いのか中止になった。
昭和20年1月。マリアナからB-29襲来。護衛戦闘機無く、九州爆撃と同じ結果だった。ただ機数が多くなったため、かなりの空襲被害が発生した。
昭和20年2月。硫黄島の戦い。1ヶ月にわたる激戦の末、昭和20年3月に占領される。この頃よりB-29が侵入高度9000以上を取り、迎撃が難しくなってくる。
昭和20年4月になると、硫黄島から発進したP-38やP-51が護衛戦闘機に付くようになり、苦しくなってくる。雷電の空戦性能ではP-38はともかくP-51には高速空戦で対抗できなかった。疾風や紫電改も戦闘に参加するものの、相手の機数が多かった。迎撃できる機数は日本側が多いのだが、迎撃地点に集中できる機体数が少なかった。日本の端から端まで防衛地点が多かったためである。攻撃する方は場所を選べるが、守る方は選べないのだった。
昭和20年4月。台湾沖海戦に先立つ沖縄沖海戦で海空戦は優位(大本営発表)に進められたが、肝心の沖縄防衛はアメリカ海軍砲戦部隊の沖縄接近を許し、艦砲射撃で各地が大打撃を受け失敗した。沖縄の後方能力は大きく削がれた。
沖縄沖海戦と台湾沖海戦で一矢を報いた日本軍(大本営発表)であるが、囮として出撃した艦隊は叩き潰され、以降艦隊行動は取れなかった。この戦いで陸海とも熟練搭乗員の消耗が激しく、待ち構えての防衛戦といえども能動的な作戦は困難になった。
台湾沖海戦戦力
第一機動艦隊 旗艦 大和
第一戦隊 大和 伊勢
第三戦隊 榛名
第四戦隊 愛宕 鳥海
第五戦隊 羽黒 妙高 青葉
第八戦隊 利根 筑摩 最上
第一航空戦隊 大鳳 瑞鶴
第二航空戦隊 雲龍 天城
第三航空戦隊 隼鷹 瑞鳳
第四航空戦隊 千歳 千代田
軽巡 6隻
駆逐艦 32隻 船団護衛任務に就いていた松級10隻まで組み込んだ。
基地航空隊300機 本土より増援予定あり。
損傷復旧途中で出撃した艦が多い。
山城は第二次コロンバンガラ島沖海戦で中破。修理を諦め柱島に係留されている。
アメリカ海軍機動部隊 5群編成
戦艦 インディアナ ワシントン
空母 エセックス級11隻 エンタープライズ インディペンデンス級6隻
搭載機数 1300~1500機 日本側は400機程度
巡洋艦 28隻 戦艦が少ない分増量された。アラスカ級2隻含む。
駆逐艦 80隻
後方予備戦力
護衛空母 22隻 18隻は航空機補充用 500機搭載
巡洋艦 8隻
駆逐艦 36隻
アメリカ側が質量共に上回り、日本軍は押されるままだったというのが現実であった。
第一機動艦隊は当初マリアナ攻撃に見せかける欺瞞航路を取った後に反転。石垣島北方海域で待機。陸上機の攻勢で傷ついたアメリカ艦隊を攻撃するという筋書きだった。トラックの夢よもう一度だが、マリアナで不可能で有ると知らされにもかかわらず採用するのは、他に手段が無いからだった。
基地航空隊の攻勢は防御網を突破できず、昼夜にわたる攻撃でわずかに空母2隻撃破、巡洋艦1隻撃破、駆逐艦4隻撃破。駆逐艦1隻撃沈だった。空母2隻はエセックス級1隻インディペンデンス級1隻で飛行甲板が使用不能になり離脱している。
大本営発表は空母2隻撃沈、4隻撃破。巡洋艦4隻撃沈、3隻撃破、駆逐艦8隻撃沈、6隻撃破というものだった。
第一機動艦隊も攻撃を担当した基地航空隊もそんな戯言は信じておらず、せいぜいその半分だろうと考えていた。それさえも大きすぎる戦果だったが。
しかし、予定通り第一機動艦隊は出撃。後の攻撃を生き残った基地航空隊に託すのだった。
第一機動艦隊 残存艦
第一戦隊 伊勢
第四戦隊 愛宕
第五戦隊 妙高 青葉
第八戦隊 利根 筑摩
第二航空戦隊 雲龍 天城
第三航空戦隊 隼鷹
軽巡 3隻
駆逐艦 21隻
喪失
大和、榛名、鳥海、羽黒、最上、大鳳、瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田
軽巡3隻 駆逐艦10隻
航空機 500機以上 基地航空隊含む
アメリカ海軍機動部隊 損失
インディペンデンス級空母1隻 巡洋艦2隻 駆逐艦5隻
航空機200機以上
昭和20年6月の夜、東京大空襲。東京外周に環状に焼夷弾を投下して火災を起こし、逃げられないようにしてから中央に焼夷弾を降らせるという所業であった。
昭和20年8月1日、大日本帝国は連合国に対して無条件降伏をした。
終戦時
マレー半島他インドシナとインドネシアは維持。フィリピンはルソン島のみ維持。クラーク・イバ両飛行場は使用不能。ルソン島各地に分散された野戦飛行場で少数機の活動が終戦まで行われた。
ニューギニア北岸だがウェワクで激烈な戦いがあった他は、飛行場適地のみ占領し他は飛行場周辺の警備を強化して、残存日本軍は事実上用無しとして放置された。無視され残された日本軍将兵は飢餓と病気との闘いが終戦まで続いた。海岸を移動してせめて一撃をと意気込んでも、パトロールが厳しく米軍基地にたどり着く前に殲滅されている。消耗しきった海軍は、ブイン・ラバウル撤収のような事は出来なかった。
トラックも占領されていないが、マリアナ占領後に攻撃能力無しとして無視されていた。ここも飢餓に陥る。
米軍にとって、ニューギニア北岸もトラックも犠牲を払ってまで占領するだけの価値は無かったようである。
パラオも航空隊が撃滅された後は、要塞化された島は面倒とばかりに無視された。ニューギニアと違い備蓄物資が多かったが、兵員数も多く飢餓は有った。潜水艦による補給が実行されたが4回やって1回成功したのみで、以降輸送作戦は行われなかった。
南方からの資源輸送は、海上交通路の対潜哨戒網と防空網がかろうじて維持できたため、終戦直前まで損害は多いものの維持された。
大陸は、日本軍が中央奥地への侵攻を補給が続かないとして中止。踏み込みすぎたと思われる地点では転進までした。転進した地域は戦線面積全体の7割にも及ぶ。ぽっかり空いた軍事空白地帯の一部で国共合作が崩れ、再び内乱に近い形になった地域もあった。日本軍がわざと遺棄兵器を中華民国軍に残すなどした地域もあった。
満州は南方や支那戦線への兵力引き抜きが多くなかったこともあり、戦力は維持されていた。雷電や疾風などの新型機配備も順調だった。強化された防衛線に対してソ連が威力偵察した結果、侵攻をためらったようである。ただ、その戦闘機多数(総数200機前後)を本土防衛に何故当てなかったのかという的外れな発言も多い。
樺太や千島も同様であった。占守島とカムチャッカ半島の海峡越し砲撃戦は激烈だった。日本軍の撃ち負けだったが、海峡を越えての上陸は許していない。
雷電は、トラック攻防やマリアナ防衛戦、ニューギニア戦線やフィリピン戦に活躍し、本土防空では五式30ミリ機銃装備の三三型がB-29をまともに迎撃できる機体として、終戦の日昭和20年8月1日まで活躍した。
連合軍のコードネームはJACK。だが、ファットゼロとかファットジークとも呼ばれた。単純に太いゼロだが、凄いゼロと言う意味でも有った。大抵は太いゼロであったようだ。
雷電最終型の四五型は終戦前に少数試作された機体で、発動機に火星系列最強のハ42-53を搭載。
馬力増と重量増の対策に時間を取られ、7機が完成したのみである。3号機から7号機までの5機が海軍に引き渡され、横空で試験飛行を行っている。1機は現存し飛行可能である。
ハ42-53
空冷星形18気筒
離昇出力 2400馬力
1速公称出力 2200馬力/2500メートル
2速公称出力 2000馬力/5800メートル
3速公称出力 1800馬力/8600メートル
超高空対策として、2段2速過給器と排気タービン過給器の実用化が出来なかったがゆえの苦肉の策が3速過給器である。
インペラの大径化と高回転化が試された。空気圧縮による吸気温度の高温化には中間冷却器と水メタノール噴射装置で対応している。ただ、発動機が14気筒から18気筒になった事と過給器周りの複雑化により500kgほどの重量増加が有り、防弾板の板厚や面積の増加や座席後ろに燃費増加対策として300リットル防弾燃料タンクを設置するなどで重量バランス対策をしている。
他にも主翼面積の増加や降着装置の強化など有り、機体重量は自重で1トン近く増えた。主翼面積を増やしたにもかかわらず、翼面荷重は200kg/㎡を越える。着陸速度を抑えるためのフラップも、2段スロッテッドフラップや前縁スラットを採用しているが着陸速度は100ノットを大きく超え、舗装された滑走路でしか運用が出来なかった。海軍機にはつきものの三点着陸は厳禁で水平に着陸するよう求められたが、試作機の1機が高速で三点着陸をやってしまい、機体は大破した。搭乗員は救出されたが後に死亡した。
プロペラは二重反転プロペラが試された。結果は良好で有るものの量産困難とされ、若干大径化した幅広ブレードでさらに各部を強化した住友VDM4翅プロペラになった。着陸速度低下策やプロペラ後流のカウンタートルク対策、14気筒から18気筒に変えた事による冷却性能の不足対策が不十分なまま終戦を迎えた。
横空搭乗員の感想としては「対爆撃機専用だな。重くて鈍くなった。P-38ならやれるかも知れないが、P-51とF4Uを相手取るのは不味い」
横空に預けられた試作機が迎撃に参加し、F4U、P-51、B-29を撃墜したという噂が有るが、公式には確認されていない。
雷電四五型 J2M7
全幅 11.8メートル
全長 10.5メートル
全高 4.15メートル
自重 3.7トン
全備重量 4.6トン
発動機
ハ42-33 機械式燃料噴射装置 三速過給器
離昇出力 2400馬力
1速公称出力 2200馬力/2500メートル
2速公称出力 2000馬力/5800メートル
3速公称出力 1800馬力/8600メートル
最高速度 370ノット/高度8800メートル
上昇力 高度6000メートルまで6分12秒
実用上昇限度 11800メートル
航続距離 1200km(正規)1800km(増槽装備*推定)
武装
九九式二号五型20ミリ機銃4丁 装弾数各240発
または
五式三〇ミリ機銃2丁 装弾数150発
九九式二号五型20ミリ機銃2丁 装弾数240発
最高速度は横空試験機が公試状態で出したもの。
三菱が試作2号機を使った社内試験で出したのは390ノット/軽荷で高度不明
二重反転プロペラ装備だったと言われる。
雷電二一型 J2M3
全幅 10.8メートル
全長 9.95メートル
全高 3.85メートル
自重 2.68トン
全備重量 3.75トン
発動機
火星三四型 機械式燃料噴射装置
離昇出力 1800馬力
一速公称出力 1650馬力/高度2200メートル
二速公称出力 1500馬力/高度5800メートル
最高速度 330ノット/高度6000メートル
上昇力 高度6000メートルまで5分35秒
実用上昇限度 11300メートル
航続距離 1780km(正規)2380km(増槽装備)
武装
九九式二号四型20ミリ機銃4丁 装弾数各200発
生産機数 2756機 量産試作機含む。三菱と中島で生産された。
雷電三三型 J2M5
全幅 10.8メートル
全長 9.95メートル
全高 3.85メートル
自重 2.86トン
全備重量 3.92トン
発動機
火星四三型 機械式燃料噴射装置
水メタノール噴射装置
離昇出力 1900馬力
一速公称出力 1780馬力/高度2500メートル
二速公称出力 1630馬力/高度6600メートル
最高速度 330ノット/高度6900メートル
上昇力 高度6000メートルまで5分33秒
実用上昇限度 11400メートル
航続距離 1650km(正規)2260km(増槽装備)
武装
三三型
九九式二号四型20ミリ機銃4丁 装弾数各200発
三三型甲
五式30ミリ機銃2丁 装弾数120発
九九式二号四型20ミリ機銃2丁 装弾数200発
三三型甲になって、大型の五式30ミリ機銃が内側に装備されたことで、ようやく機銃の長さと言うか銃身の突き出しがおおよそ揃い、格好良くなったと言われた。三菱で生産された。火星四三型の生産台数が少なく、中島は終戦まで二一型を生産していた。
生産機数 三三型 236機
三三型甲 223機
試作型として二二型、三四型、四四型が有る。詳しい資料は大量には残っていない。
二二型は三二型のたたき台。成績良好を持って三二型が採用された。
三四型は火星18気筒板のハ-四二を搭載したが、重量バランスに無理があり試験飛行のみで終わっている。テストパイロット曰く「飛行中の前方視界は抜群」
四四型は、三四型の機体を大型化した物。飛行特性は概ね良好(無理なく飛べる程度)で四五型の開発が始まった。性能は三三型と変わらなかったようだ。
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