皇女様もエルフも鼻ふにょは出ません
昼下がり、第三皇女の専属メイドの執務室で。
「ルーシー、いつもありがとー」
例によって勉強をサボってうだうだしていたリーズリットが、ふいに感謝の言葉を口にした。
他意があったわけではなく、いっしょうけんめい書類仕事をしているルーシーを見ていたら気まぐれに思い浮かんだことだった。
「……なにを企んでおいでです?」
当然、ルーシーにとっては寝耳に水であり、さっさと水を抜かなければ気になってしょうがない。
「ぅええぇん、日頃の感謝を伝えただけで疑いの眼差しを向けられたぁ! わたしの侍女、心が貧しすぎてむしろ可愛そう!」
「リズ様と感謝には、関連性が皆無なのですよ」
両手で顔を覆ってむせび泣くリーズリット。
そんな主人に対して、ルーシーは冷ややかな視線と冷淡な言葉を投げつける。
「わたしの辞書の最前列が“ありがとう”なのに?」
「どおりで“愛”がないわけですね」
「周りの大人たちが教えてくれなかったから……」
「嘘をおっしゃいなさい、甘やかされて育ったくせに」
事実、第三皇女という身分によるあれやこれやなどという差し障りは、この王国には存在しない。
もちろん一般家庭と同量の家族団らんがあるわけではないが、世界を統一する為政者が多忙なのは仕方のないことであろう。
裕福な家庭環境と愛らしい外見による国民的人気、それらによってすくすくと育ったのがリーズリット・リリラリルなのである。
「えへっ、欲しいものはエルフの鼻くそ以外手に入ったからねー」
「こら、そんな品のない言葉を使うものではないですよ」
街の子どもたちが使うようなスラングを、なぜかリーズリットはよく知っている。
エルフの鼻くそは、絶対に手に入らないもののたとえである。
「エルフ?」
「鼻ふにょの方に決まっているでしょうがっ」
「自分たちこそ高潔だと他者を見下すエルフに、品性について語る資格があるのかしら」
「鼻ふにょに敬意を示すことの方が、それこそ品位を疑いますけどね」
リーズリットは、文机につくルーシーのもとにとことこと歩き。
「ていっ、うりゅ、とりゃーっ」
「きゃぁっ、ばっちぃ!」
小指を自らの鼻の穴につっこみ、ねじり、ルーシーの顔に向けて突き出した。
椅子から転げ落ちるぐらいの勢いで、ルーシーはその小指から逃れる。
「……傷ついた」
宙に小指を伸ばした格好のまま、リーズリットは泣き出しそうな声音でつぶやく。
はたして泣きたいのはどっちなのかとも思うが、ルーシーには効果てきめんであった。
「ぁっ、申し訳ございません――って、私が悪いのですか?」
「エルフにとって、“この汚らわしいゴミクソめ”は罵りの言葉じゃないの?」
「そこまで言ってないですし、鼻の中につっこんだ指は汚いでしょう……」
「ほら、別になにもついていないでしょ? 皇女は鼻くそなんて出ないんだからね」
「いや、ついていようがいまいが、誰だって避けますよ」
「じゃあ、やって」
「はい?」
ルーシーの前に歩み寄り、リーズリットは腰に手を当てて胸をはる。
「わたしは避けないから、ルーシーも鼻ぐりぐりてりゃー、やって」
「なっ、そんなみっともないこと、するわけないでしょう!」
純粋無垢であることがアイデンティティのエルフは、不浄なものをなによりも嫌う。
俗世に出てきて久しいとはいえ、そういうものに対するルーシーの耐性は低いままであった。
「鼻くそをほじろうとして指をつっこむのはみっともないことかもしれないけど、綺麗だったらよくない? なに、鼻の中めちゃくちゃくそが詰まってるの?」
「綺麗に決まっています! エルフの鼻の中には鼻くそ……鼻ふにょなんて存在しませんっ!」
「そこまで言うならば証明してみなさい、ルーシー・グリット」
自分が汚い言葉を発した事実をもみ消すように、わざわざ言い直すルーシー。
そんな専属メイドに、リーズリットは鼻をほじるように強要した。
「うぅ、ずるい、リズ様のばかぁ……ぅえっ、ぅっ……」
強権を持つ主人の命を、ただの従者が断ることなどできるはずもない。
ルーシーはぎゅっと目を閉じて、立てた小指をおそるおそる鼻の中に入れていく。
なぜか口が半開きになっているが、こういうところは人間と同じなようだ。
「ほら、さっきのわたしみたいに、とりゃーってやるのよ」
「と、とりゃー……」
「ぅわっ、きたねえーっ!」
鼻につっこんだあとの自分の指なんか見られないのだろう、ルーシーは目を閉じたまま、リーズリットの声がした方向に小指を差し出す。
そして、リーズリットは後方に転がりながら、それを勢いよく避けた。
「……ぅうう、ぅぐっ、ぅうーーーっぅ……!」
さめざめと、穢れてしまったエルフは静かに泣き続ける。
さすがに、不憫であった。
「ぁあーはっはっはっ! これに懲りたら、主人を疑わずに素直に感謝を受け取ることねっ」
高らかに、悪童が過ぎる第三皇女はふてぶてしくも笑い続ける。
この皇女は、裕福な家庭環境と愛らしい外見による国民的人気によって、すくすくとひねくれながら育ってしまったのだった。