5.それは■をも殺す
『4月10日。第91局。
先手、機霊番号32521皐月。
後手、機霊番号06632朧。
持ち時間10秒』
時は移り翌日。
皐月と向き合っているのは先日「ヘボ」呼ばわりをかましてくれた例の機霊だ。
ニヤニヤとした表情が実に憎らしい。
対局は三戦のマッチ方式だと聞いたのは昨日の事だが、正に渡りに船とはこの事だ。
吠え面かかせてやれ。皐月。
『対局コード。2356041000014AC2
対局開始。』
昨日と変わらぬアナウンスを皮切りに、盤面の駒が動き出す。
正に昨日のリプレイといえるだろう。
▲7六歩
△3四歩
『ここまで』は
▲7五歩
三手目の歩突きを受けての応手がピタリと止まった。
昨日の感じでは、序盤の指し手はかかっても精々コンマ5秒、平均すればコンマ2秒と、ほぼ間断無しの指し返しだったはずだ。
それがコンマ5秒を超え、コンマ7秒を超えても次の手が指されない。
ついに1秒に届くかという頃になり、ようやく次の手が指された。
△8五歩
しかしそれに対する皐月の応手に時間はかからない。
▲7七角
そして再度止まる対戦相手の手。
廊下で観戦している他の機霊も唖然とした表情で、ディスプレイに表示される盤面を見ている。
彼らにとって全く想定外の序盤なのだろう。
それもそのはず、居飛車を指す将棋に於いて、この序盤は凡そ「ありえない」。
居飛車は全体的に玉を盤面左に囲う。
8五歩と歩を伸ばしておきながら、飛車先を突く手に対しては7七角と受ける。
それは後手からしてみれば「悪手」以外の何物にも見えないはずだ。
次に3四歩と角道を空けて角交換を迫れば、それが先手後手どちらによるものであったとしても、先手は伸ばした8五歩の活用がやりにくくなる。
いや、最早「現時点ですら」活用し辛くなってしまっている。
△3四歩
そう、つまりここでの3四歩は当然の一手。
そして
▲7八飛
これこそが「用意の」一手。
20世紀末と言う遥かな昔に時の九段、米長邦雄が考案した奇襲戦法。
遠い過去に廃れた奇襲戦法
その名も"新鬼殺し"である。
-時は遡り昨晩の事-
幸平はドックから出てきた皐月に対し、自分の構想を話していた。
自分の知っている序盤定跡で、将棋の序盤を指してみないか、と。
『新鬼殺し…ですか?』
「うん。俗にハメ手と呼ばれる戦法の一つで、相手が受け方を間違えれば自分にとって有利になる戦法だ。
居飛車ばっかり指されてるのなら想定の外を突けるからいいんじゃないかと思うんだけど…。
…こういうのはやっぱりあまり評価よくないのかな?」
『いえ…受け方を間違えるのは「読みが足りないから」ですし、居飛車に対して有効な対抗策を検討するのは予習の一種とされているので、授業の評価としては何の問題もないですけど…。
あの…マスターはどこからその戦法を?』
「えーと…その…夢で…」
『…はぁ、夢で…』
ジト…といかにも擬音が聞こえてきそうな、訝しげな半目で幸平を見る皐月。
幸平もその目が意味する事は察しているのか、視線を逸らしている。
それもそうだろう。
唐突に対局へのアドバイスを言い出したかと思えば、それの出所が「夢で見た」である。
まともな神経をしていれば正気を疑って然るべきだ。
「と、とりあえずまずは聞いてみないか?
…皐月も負けっぱなしと言うのは腹が煮えるだろ。」
『むぅ…まぁそれはそうですが…。』
先程まで目を赤く腫らしていた少女はぷくりと頬を膨らませる。
理屈では理解できているも、直感的には受け入れがたいのだろう。
元が人工知能だとはとても思えない人間らしさだと思う。
「まず新鬼殺しの基本的な駒組みは▲7六歩、△3四歩に▲7五歩と歩を伸ばすところだ。」
『はぁ…はい?
ちょ、ちょっと待ってくださいね。』
皐月が手をかざすと、何も無い所に空中に浮かぶ真っ白な半透明の壁が現れる。
日頃勉強を教えてもらったり相談をするときによく使っている、一般的な汎用ホログラムディスプレイだ。
その壁へ縦横に線が走ったかと思うと、瞬く間に40枚の駒が配置され、平手の開始局面となった。
『▲7六歩、△3四歩に▲7五歩って事は…こういう事ですか?』
スッスッスと淀み無く駒が動き、7筋の歩が伸びた特徴的な戦形が作られる。
「そうそう。その形。」
『…これ、普通に△8五歩とされたらどう受けるんですか?』
その質問と同時に駒が動くが、幸平からの返答は速い。
「▲7七角」
『…△3四歩で角道空けてきたら』
「待ってましたと言うところかな。▲7八飛。」
『…△な、7七角成』
「▲同桂」
質問と応手、そしてそれに対応するように盤面が動く。
お互いに角を持ちあったこの局面が、新鬼殺しにとっての分水嶺だ。
パッと見で後手にとって得になりそうな手がいくつもある。
例えば△8六歩
これは角交換で8六に対する効きが無くなった急所をつく一手。
△8六歩、▲同歩、△同飛で飛車先の歩が切れ、飛車の自由度が目に見えて増す。
例えば△4五角打ち
2七と6七の両成りを受ける手段が先手には無い。
馬作りを確定せしめる手だ。
例えば△5四角打ち
これは2七と8七の両成りにプラスして6五への桂跳ねを先受けした手。
いわゆる一つの攻防手と言える。
どれもこれも好手に見え、後手から見て先手陣は隙だらけである。『一見は』
しかし実の所、先に示した三つの応手は全て先手有利となる。
『…△8六歩』
「▲同歩」
『△同飛です』
「▲7四歩」
『…え?ど、△同歩』
「いいの?▲9五角打が王手飛車だけど。」
『え…あ!!』
▲7四歩は△同歩とは取れない。
何故なら取ると玉に直通する角道が開き、▲9五角の王手飛車という目から火の出る強烈な一手が待っているからだ。
こんな序盤で飛車がタダ取りされてしまうようでは、最早将棋というゲームとして立ち行かないだろう。
『…すみません…盤面を巻き戻させて頂いてもいいでしょうか。』
「もちろん、どこまで戻す?」
『えーと…、△同歩に代えて△6二銀とさせてください。』
スルスルと駒の位置が巻き戻り、6二に銀が動いたところで止まる。
「それなら▲7三歩成」
『どうけ…いえ、△同銀です。』
もしこれを△同桂と来るなら再度▲7四歩で桂頭を叩く。
先手が▲7七桂と上がっているので、桂馬は逃げ場が無い。
桂馬を逃げずに△8九飛成と成り込んできても、▲7三歩成と桂馬を取りつつと金を作られては後手厳しい。
その流れは皐月にも予測できたのだろう。
しかし同銀であっても先手の手は緩まない。
「んじゃ6五桂」
『ん…ぐ…。ろ、△6二銀…です。』
もしこれに釣られて△6四銀とでも来ればさっきの▲9五角が炸裂し、あわれゲームエンドだ。
流石にそれには感づいたのだろう。
皐月は苦悶の表情で銀を戻す手を選んだ。
しかしこの局面、既に後手の形勢は相当に悪い。
それを示すのが次の一手である。
「▲5三桂不成」
『…………あ。』
▲5三桂不成を△同銀とでも取ろうものなら再三言っている▲9五角で後手の目玉が丸焦げになる。
つまりこの桂馬を銀で取る事は出来ない。
しかも▲5三桂不成は金の両取りにかかっている。
ここで単純に△8九飛車成とでもしようものなら、▲6一桂成、△同玉に▲7二金打と一気に玉が危険に晒される。
これらの応手は全て△8六同飛によって王手飛車の筋が生じた為に発生したものである。
そして△8六同飛と出来ないのであれば、そもそも△8六歩とする意味も無い。
「…と言う事で△8六歩は悪手って事。おーけー?」
『…。』
ここまでの応手全てを間断なく返す刀で切り飛ばされた皐月は、若干青褪めた顔でこくりと頷く。
しかし鬼殺しの序盤定跡はまだまだ入り口。
その晩の説明は日を跨ぎ、更に数時間に渡って行われた。