4.ヒトとモノと。
日が沈み、暗闇に包まれた幸平の部屋。
その一角にある、寝具の形をした機霊の休息用ドック。
そこからは絶え間なく悲壮な嗚咽が漏れ続けていた
『うぅ…ひっく…ぇぐ…うえぇぇぇ…』
恥ずかしい…
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!
今日こそは勝ちたかった。
いっそこの先、二度と勝てなくてもよかった。
それでも「今日だけは」勝ちたかった。
いくら勉強しても勝てない。
いくら練習しても勝てない。
機霊用の将棋データベースは数え切れないほど見た。
仮想対局も何度もやった。
それ以外のものはどれも人並みに出来た。
でも「それだけが」どうしても人並みになれない。
「負けました」と告げる度に訪れる無力感に、私は毎回胸を掻き毟りたくなる。
それは最早「悔しい」などという域には留まらない、拷問にすら匹敵する苦行だった。
…それでも、一人ならまだ耐えられた…。
今日の対局後、廊下にいたマスターに報告する時。
自分を見るマスターの辛そうな顔を見て。
視界の隅で自らのマスターと喜びあう対戦相手の姿を見て。
どうしても、涙が堪えられなかった。
私だって彼みたいに勝ちを喜びたい。
彼みたいにマスターに褒められたい。
私の姿は…マスターにどう映っただろう…。
存外に無能な奴だとでも思われてしまったのだろうか…。
今日こそは人並みに勝ちを掴みたかった。
人並みに勝って「マスターが心配するような事は無い」と胸を張って言いたかった。
人と機霊は同じ学区で学ばなければならない。
そして第二学区で将棋は機霊の必修ノルマだ。
勝敗は重視されないが、修了までにはまだ何局も指さなければならない。
マスターが第二学区にいる限り、私は将棋から逃げられない。
『もう嫌だ…恥ずかしい…怖い…消えたい…。』
そう口を突いて言葉が出たその時。
ドックの外から声が聞こえた。
「皐月…。話が、あるんだけど。」
私には、その声が死の宣告に聞こえた
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将棋なんか機霊がやるものだと思っていた。
将棋なんか人類ができる物では無いと思っていた。
それなのに…。
あの時自分の頭を巡った知識は告げていた。
《なんであんな将棋を皐月は指しているのだろう?》
と。
確かに機霊の演算速度は凡そ人間の及ぶところでは無い。
そして産まれながら世界を覆うネットの海に浸る彼らの知識量は膨大だ。
そんな彼らの指す将棋が、たかが人間の、それもふって涌いた出所不明の知識で理解出来なくても不思議では無い。
だがそれを加味しても尚、自分は違和感をぬぐえずにいる。
俺には未だ、自分の頭にこびりついたこの知識の正体がわからない。
しかしそれでも、何か皐月の為に出来る事があるのでは無いか。
対局後、苦笑しながら教室から出てきた皐月は、俺の顔を見るなりボロボロと泣き出した。
止めようとする本人の意に反して目から溢れる涙は止まらず。
最終的には逃げるように俺の前から去った。
学区に入学してから初めて体験する一人の帰路。
頭の中では今日見た対局が突発的に涌いて出た知識と一緒にリフレインしていた。
皐月の対局もさる事ながら、その後行われた他の機霊による対局の戦形は全て「居飛車矢倉」に統一されていた。
最初は学区の暗黙の了解か何かかと思っていたが、弥生さんに聞いた所では、そう言うわけでは無いらしい。
原因は解らないが、機霊にとっては「居飛車矢倉」こそが「将棋と言うゲームの定跡」なのだそうだ。
それ以外の戦形に手を出すものもいるそうだが、その殆どは結果的に現行の定跡を上回るまでの戦果を上げられず、結果居飛車矢倉へ回帰するのだとか。
(一般的に居飛車矢倉は振り飛車に対して不利と言われてるはずだ…。
にもかかわらずこの矢倉一強環境は一体…。)
ただしこの状況はある意味では僥倖と言える。
相手の戦形が一択しか無いのだ、これほど読み易いメタゲームは無いだろう。
将棋というのは勝敗の解り易いゲームだ。
麻雀やカードゲームは往々にして幸運、不運に責任転嫁できる。
「配牌が悪かったから」「手札が悪かったから」
自分のプレイングに問題があったとしても、多くの場合はそれに目を瞑り「運の所為」にしてしまえる。
しかし将棋に運の介在する余地は無い。
負けの原因は全て自分の采配に帰着する。
それはともすれば無能の宣告にも等しい。
それを幾度と無く突きつけられた結果がどうなるか。
皐月の泣き顔が、それを如実に語っていた。
悔しくないはずが無い。
勝ちたくないはずが無い。
…勝たせて、あげたい。
この知識が正しく、そして意味あるものならば、俺には出来るはずだ。
皐月を『勝たせる』事が。
家に着いた俺は、部屋の隅に鎮座する「休憩中」と淡い文字が灯る機霊のドックに向けて声を掛けた。