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震えは小刻みになるが、膝に力を込めれば体を支える事は出来そうだ
さすられたままの背中、脇、そして頭からじっとりとした汗が滲んでいる
喉が渇く
「…すいません…水を……」
「水だね、少し待ってなさい、暖炉にも火を入れるからそこにいなさい」
ランディはさする手を止めて共用スペースの暖炉に薪を一束と、木の皮を叩いて薄くした物だろうか木の表面の名残を残している、枯草代わりの火付け用なのだろう
火付け石の音が静かな部屋に響く、四度目のカチッカチッという音がすると暖炉に火の明かりが宿る、ランディは「おいで」とは口にこそしないが、暖炉前に手を指す
のそのそと暖炉の前に向かい火に当たる、まだ薪の部分部分にしか火は入っていないが、部屋で当たらせてもらった七輪ストーブよりも遥かに暖かい
「私にはね、年の離れた弟がいるんだ、まぁ君達からしたら今はもうあいつも大人なんだが」
枝に油を染み込ませた布を巻いた物か、暖炉から火を拾うと、カウンター側の小さな釜戸にも火を落とした
「おかげで料理や掃除なんかもしばらく二人分をしていた事もあるんだよ」
種火を拾った枝の火を吹き消し、大きな鍋から柄杓でヤカンに水を三杯移し、その釜戸にかけた
この世界は水は飲むならば煮沸させるのだろうか、思えばクラーナも体を拭く水と別で飲み水を持ってきてくれていたのだと思う
それにそもそも会議場と屋敷の間にある井戸を使っていない、あちらは飲食用で、生活水は川なのだろう、文化圏というか時代の違いが手間の一つ一つでわかる
「水が沸くまで少しかかりそうだ、先に髪を洗おうか」
ランディの様子を見ていた内に震えは止まっていた、幸平も甥や姪の面倒を見るとき、癇癪を起こすと物で釣ったり、アニメをつけたりして関心を反らした記憶があった
差し出された手を、素直に繋ぐ、少し不快な気持ちにもなる、この男の子供に対しての慣れた対応がよもや四十手前の自分にここまで効果を出された事は少なくないショックであった。
ともに外へ出て、屋敷の裏手に回れば、馬用の飲み桶をそのまま深くした細長く深い桶があった。
その下部のコルクのような栓を抜き流れ出した水を手桶に溜める
「そこに座って、服はそのまま洗ってしまおう」
その場所だけは小さな石が敷き詰められ丸太がいくつか並べられている
「はい…」
正直にこの状況でどういう風に頭を洗うのか、わからない
昔の外釜式のガス給湯器ですら、シャワーや張った湯からバシャバシャかぶり、シャンプーでガシガシ洗う、そしてバシャバシャ流す、「地肌をちゃんと洗う」とかそんな事は手間から考えたらまずあり得ない。
首を下に向けると、ゆっくりと水を少しずつかけられる
反射的に自分の手でワシャワシャとしてしまう
「なつかしいね、昔はこうやって弟の頭や背中を流していたんだ」
髪を洗うのは自分でよかったようだ、確かに一人だと片手で流し、片手で洗うにしても、先に髪に水を含ませてから洗うにしても水は相当に無駄になるからであろう、川ならば頭をつっこんで洗う事が出来るから、川に行くのが一番だったという事だろう。
何度もしている内に指に絡む脂も地肌についた砂のジャリジャリした感触もなくなってきた。
「あらあら!ここで洗ってんなら、さっきあたしが体拭いた意味ないじゃないか!」
大きな声が聞こえるクラーナが布の包みを手にして来たようだ
「クラーナさん、すみませんでした、今、中で湯を沸かしてます、そちらを見て頂いていいですか?」
「いま中はジョンがいるよ、火の番を誰がすんのかもわかんないなら、もう二発ぐらい殴らないとね!」
大きな声だ、中にいるジョンにも聞こえただろう、というか彼は殴られたのか、現代日本でなく、力で意思表示が許されるなら彼は誰かに殴られて当然だと思う
「そしたらちゃっちゃっと洗っちまうよ!」
クラーナも加わり着ていた服を脱がされ、髪や体を拭き洗われる
ランディよりも遥かに手際がいい、この際の手際は一度の手桶を流し終えるまでに、濯ぎながら拭く範囲が広い、ランディに流して貰ったのも加わり三度で髪も、会議場で落とし切れていなかった部分も流して貰えた
ブルリと体を震わせる、体調自体が不調であった上に衛生の為とはいえ冷や水を暖かい季節でもないのにかけられれば、子供の体にはかなりの負担だ
「そんじゃこの服でいいね!」
今度の服は最初のチュニックともも引きのセットだけでなくズボンも付いていた。
絞った手拭いで露を落とし、さっと着る、腰ひもはクラーナに結ばれる、縛らずに何度もよりあわせて巻き込むようにして絞められた。
なんともなしにランディと幸平はやりきった、と達成感のある顔になっていた、臭いが無くなったのもさることながら、二人からしてみると扱いが難しい子供と腹を探ってくる大人
彼の部下の失敗が予期せぬ形で共同の「子供を身綺麗にする」という作業を通して、多少距離感が縮まった実感があったのだろう
屋敷に戻ると、その原因の男がいた
「お湯沸いてます…」
元気がない、失態のリカバリーは幸平が気にしないで下さいと許し、更に周りもそれを認めたときに初めて「許され始める」のだ、しかしジョンの顔である
ボクシングで勝ち目の薄い試合、数回のダウンに加え、何度も叩き込まれる顔への一撃、そんな状況でも根性だけで8Rまで持ってる選手
その顔だった、口の端は切れ、左目は腫れたまぶたで潰れ、頬骨も赤く歪に腫れている
「「………」」
クラーナの拳の制裁なのだろう、子供の傷を抉ってしまった事を説明した事でこれほどに怒ったのだろう、怒られて当然も当然なのだろう
それにしても女性の諸行ではない、と感じる。ランディも思う所は同じのようだ。
「ちょっと早いが簡単に飯作るから、ランディはあの子を呼んできな!」
そう指示を出す、本来なら、ランディがするまでもなくジョンの仕事なのだろうが、信用は無くなり、ましてやあの顔だ
ランディは軽く手を上げ、共用スペースの側にある階段を上がる
ここに来てあの子を思い出す、ジョンのおかげで、てんやわんやしていて失念していた、ランディの尋問を切り上げる為に、あの子に会いたいとまで言っていたにも関わらず。
(………な、なにを話せば………いいんだ………!?)
クラーナから渡されたコップから湯を飲み干し、上からランディと小さな足音が聞こえる、心の準備が出来ていなかった。