HPという概念について検証
小説内でもゲームなどで扱われる概念が、「分かりやすい」や「伝わりやすい」という理由で数多く取り入れられています。
先の話でも話題にしておりましたが、そういったいわゆるテンプレを用いた場合には注意が必要であると認識しておくべきだと思います。
そして今回、HPという概念について考えてみます。
元々はテーブルトークRPGで数値化された概念の一つであり、プレイヤーや敵の状態を表す数値の一つでした。日本では「ドラゴンクエスト」で採用されたことで多くの方に認知が進み、今では一般的にゲームで利用されています。
では、HPとは実際に何を指し示す数値であるのか?
HPとは一般的にはヒットポイントと訳され、数値が0となると死亡。もしくは戦闘不能という感覚的に把握できる数値です。これは誰に対してでも分かりやすく、現在の状況を示す数値として非常に有効だと思います。
例えば、「HP 5/100」という状況を考えてみます。
この表現方法で読み取れる内容としては、危険な状態であるということ。
HP0=死亡であるとすれば、既に全体の95%のHPが失われており死に瀕しているのは間違いない状況でしょう。ただ、HP0=戦闘不能(気絶)扱いもあるので、死とは言い切れないですね。
では、実際の戦い(喧嘩でも良い)では、ゲームのようになるのでしょうか。
一般的なRPGでは、敵味方の攻撃が高い確率で命中します。盾や鎧とは、ほぼ攻撃が命中しHPを削りあう戦いであったとき、攻撃自体を妨害するという機能より全身を覆うベールのようにダメージを阻害します。
生死を掛けた戦いで、回避という概念があまりなく(たまにミス)お互いの攻撃が命中しまくる……。
この時点でリアリティからは程遠くなります。
RPGゲームの中ではこんな感じでも良いのです。
視点を変えて見ましょう。
HPという数値が0となれば死。
とすると、死までのカウントダウン数値として考えてみます。
基本的に敵の攻撃は避けたり防ごうとし、こちらの攻撃は避けようともされるもの。
そして、攻撃が直撃しなくてもHPは減るものという考え方。
つまり、疲労でもHPは減るという事になります。そうすると攻撃でも減りそうですが……。
HPという数値には回避するという行動も含めた、死までの期待値であるという考え方です。
冒険開始時や召喚、転生したばかりのときはHPは100でも、冒険終盤にはHP7000となった生身である人間の勇者。
要するに70倍頑強になったということになります。
この回避による期待値を込めた数値がHPだとすると、70倍死ににくくなった事の説明も付くのではないか。
ちなみにこのHPという概念は、武器防具を外しても変動はしないキャラクター固有数値だと考えると……。
勇者は風呂に入っていてもHPは7000であり、完全防備していてもHPは同じ7000。油断とは無縁でどんな場所でもそうそう死なないキャラクターとなります。
防具と共にHPが変動するのであれば、理解は出来ますがHPという認識からは少しそれたようなイメージになります。
では、最初の考え方に戻り単純に肉体が70倍強化されたとしましょう。
恐らく、既に人という枠には収まりきれていないはずです。
人の形でとどめておく前提で考えれば、肌は金属のように堅く堅牢で、体躯も巨大化。
四肢も太く欠損などもせず、一撃で死ぬような急所も無い。
これ既に人間ではなくなっていますよね……。
何となくですが、漫画ベルセルクに登場したモズグスを思い出しています。まあ、彼は最初から人間としての容姿を持ち合わせてはおりませんでしたが……。
そうではないとすると、見えない力が飛来する矢を退けたり刃を弾くいたり? 見えない力が攻撃が吸収する? 魔法の力や、神の加護というような力が働いているとでもいうのでしょうか。
要するに、HPとはゲームの中で便宜上に設定された数値であり、至極扱いが難しいのではないかと思うのです。心肺停止という概念も、HPという概念がある世界では表現しずらくなります。
重箱の隅をつついて参りましたが、要するにテンプレには大きな落とし穴が存在すると認識しておく必要がある。と、いう事をこちらで記したかったのです。
そして、こういった部分の整合性を説明したくない場合、これらの事実は物語の中で一切触れずタブー化することをおすすめします。
静かに蓋をして、物語の中では触れない……と。
物語の後半で矛盾が出る可能性があるのであれば、当初から触れないか理由を執筆前にしっかり考えてから執筆開始するのが良いでしょう。
テンプレは便利な文明の利器なのかもしれませんが、そこに転がる様々な設定にも注意してみる事で、より世界観を広く深く構築するきっかけになるのではないでしょうか。
最後になりますが、本エッセイは悪意を持って書いていたり、特定の作品を攻撃や批判する目的で書いてはおりません。
執筆者の誰かが何かを感じ、より良い作品を執筆していただける一つの切欠となれれば、記した意味もあるのではと感じます。