3『大家さん、プロポーズする』
異世界人がこちらの世界でも暮らすようになってから、異世界人たちの暮らしをサポートするために、ある職業が生まれた。
異世界監理官――。
名前こそ聞けば、なにやら仰々しさが纏わりつき、どこか近寄りがたい香りが漂ってくる。
けど、俺が知っている異世界監理官に訊くところ、そんな閉鎖的な職業でないらしい。
異世界人がこちらの世界で暮らすに当たって、問題ごとを円滑にこなしていくために、生まれた職業とのことだ。
あくまで、本人曰くだが。
たしかに年々異世界人たちがこちらの世界に来訪する人数が増えては、今や官民一体の事業もあるので、異世界監理官も比例して増えている。
ただ、そうは言っても世界と世界を管理する立場だ。
そう簡単に異世界監理官という職業になれるわけではない。
依然、ちょっと異世界監理官について調べた事があるが、異世界監理官という職に就くためには、いくつかの条件を満たさないといけないらしい。
その中でも、もっともネックと言われているのが、異世界での滞在歴だろう。
異世界で三年以上の滞在歴。
その資格が無ければ、異世界監理官は務まらない。
異世界での長期滞在など、向こうでなんらかの職を得なければ実質不可能なことであって、だいたいは向こうの世界を監視する軍人やら政府関係者がほとんどだ。
民間企業出身もいるだろうが、こちらの世界に慣れた者ほど、勝手が効かない異世界へと好き好んで住む人は少ない。
が、少なくとも、その資格を得ているからこそ、俺の部屋へと侵入してきた女性。
四々瀬・エイスフィン・雪子も、こうして異世界監理官として、ぐらなたすを担当しているのだろう。
「そっうじぃくぅん? あれほど、さっき注意したよね? 異世界人との婚前交渉はダメだって。まあ、若さゆえのリビドーもあるのかもしれないわ。それも相手が、あのエルフなんだから」
少しばかり赤色が混じった黒髪は軽くウェーブがかかり、まるで火の揺らめき(37)。
剣呑そうな鋭いまなじりはこちらを睨み、黒い瞳の中で熱く燃え滾っているのは異世界監理官としての揺るぎない使命感(37)。
タイトなスカートから覗かせる素足が健康的な膨らみを持っては、肉感的な魅力をたっぷりと惹かせる(37)。
なにかと、頑張る(37)。
なにかと、焦る(37)。
「あのさ、べつに俺たちはそんな関係じゃないし。というか住人に手を出したら、それこそ大家代理として失格だから――で、なんで俺の部屋にいるの、雪子おばさん?」
「いや、なんか妙にいらつくラブコメの波動を感じたから、フラグを圧し折りに来た。てか、宗司君、しれっと私のこと『おばさん』って言わなかった?」
「うん、それでどうして俺の部屋にいるのかな」
「あはは、無視しやがって、このやろうめ……んで、私がここにいる理由は、たまたまカメラ――隣の部屋のよからぬ物音に気付いてね。さっそうとエルフちゃんのピンチに駆け付けたわけ!」
「おい、聞き捨てならない言葉が聞こえたんだが」
異世界監理官が共に住んでいれば、その対象はなにも異世界人だけではない。
彼らと共に生活の場を営む、こちら側の人間も対象になる。
監視と言っても、盗撮まがいなプライバシーの侵害も甚だしいことはしないと思っていた。
そうした契約のもとで、俺たちの生活は成り立っている。
それなのに……いつだって、ぐらなたすの住人達は、そんな契約のことなどすっかり忘れている。
雪子さんにしても、他の住人してもだ。
「けど、どうせ私の手を借りるつもりだったんでしょ?」
「話が……まあ、それは後でいいとして。その通り、これどうにかしてくれない雪子さん」
当のエルフさんを見れば、先ほどから俺に抱き着いたままいっこうに離れない。
俺の名前を連呼しては、感涙は一体どうして感激したのか分からないままだ。
「ソウジ、ソウジ……」
ぎゅっとしがみ付いては、彼女のふっくらとした胸の重みが伝わってくる。
男として正直な気持ちを吐き出せば、こんな美人に抱き着かれるなど夢見心地な気分だ。
雪子さんがいなければ、甘い香りに誘われて意識を保つのも難しかったかもしれない。
「なに、解放されたいの?」
「そうじゃないと、困るのはアンタも一緒だろ。もし、俺がエルフさんに手を出したらどうすんだよ」
「え、手を出す勇気あったの?」
「……な、ないけどさ。万が一だよ!」
異世界人がこっちに暮らすという事は、それだけこちら側の世界の事件に巻き込まれる可能性も秘めている。
そのために異世界監理官がいては、恒常的な監視は可能性を秘めるだけで終わらせていた。
とはいえ、おいそれと異世界人たちに手を出す者はそんなにいないだろう。
もし、そんな奴がいるとしたら、そいつは命知らずの馬鹿か、知識を得ようとしない愚か者だ。
彼ら異世界の文化レベルや技術体系は俺たちの世界と違い、全く異なった進化の遂げ方をしている。
それは人体の肉体的構造に始まり、ひいては物質世界の在り方を根本から崩すような事を平気でしでかす。
まず、命が惜しいなら異世界人には手を出さない。
それを知っていて、異世界で上位の存在であるとされるエルフ様に何かしようものなら、塵一つ無くなる自信が俺にはある。
「ま、分かったわ。それで、宗司君は彼女に抱き着かれる前に、何か彼女にした?」
「……ちょっと危険な言葉を連呼していたから、使っちゃいけないって説明してた」
と、そう言えば、エルフさん。俺に抱き着いてから、『くっころ』を言わなくなった気がする。
おそらく俺の行動が彼女になにか心理的な要因となったのは間違いないと思う。
そして、それ以上に不味い状況になったのは確実だろうな。
「ふぅん、どうやって?」
「そりゃあ、身振り手振りのボディランゲージで。こうして腕をクロスして、ダメだよって教えてだな……」
「あ、うん、それだわ。あちゃー、宗司君――キミ、とんでもないことやっちゃったね」
瞬間、雪子さんの顔が一気に真面目な面へと変わっては、心底残念そうにこちらへとため息を吹っ掛けた。
思考めぐらすようにして少し口を結べば、次には携帯端末を取り出してどこかにかけ始めた。
『あ、もしもし道村君、いま異世界交流局にいる? ああ、うん。ならさ、種族間交渉部の新橋さんいる? 四々瀬から重要なお知らせがあるって伝えてくんないかな?』
異世界交流局とは、雪子さんたち異世界監理官が所属する組織だ。
異世界監理官を統率しては、ぐらなたすのような異世界人向けの住宅の管理も行っている。
一度、兄貴の付き添いで交流局に行ったことがあるが、なんかもう……戦場だった。
様々な未知の言語が電話越しに飛び交っては、まるで喧嘩と変わらないのではないかと思うぐらい。
それにひときわ目立っていた、赤く塗りつぶされた異世界地図がなにを示しているのかは分からなかったが、どう考えても良くない事だけは分かる。
そんな机上で繰り広げられる戦場だった。
『――新橋さん、居留守は駄目だよー。思いっきりスピーカーを通して聞こえているからね』
雪子さんが電話主を追い詰めている。
話は長くなるのだろうか。
額から汗がたらりと流れ出ては、からからと喉が渇いてきた。
今日は真夏真っ盛りの太陽が燦々と降り注いでいる。
いちおうはエアコンを稼働させて過ごしやすい室温を保っていたが、エルフさんに抱き着かれたせいもあってか、彼女のひんやりとした体温とは違い、俺の体温はずっと上がりっ放しだ。
『うん、それでねエルフの件なんだけど……ごっめん、さっそくやらかしちゃった、てへ』
誠意の欠片も無い謝罪は猫なで声。
当然ながらスピーカーから聞こえてくるのは怒声一択だった。
それだけに自身がどれだけやばいことをしてしまったのかも察しがついた。
異世界交流局がそれほど怒っているというだけで、エルフという存在の重要性を思い知らされる。
そして、エルフに向かって俺はいったい何をしたのだろうか。
もしや、奴隷にしちまうぞとか。
キル―、ユーだったりするのか。
どちらにせよ、エルフさんの状態から見ていい方向には進まないだろう。
『怒んないでよ、だってしょうがないじゃん。民間人が何も知らずに告げちゃったんだもん――愛の告白』
ア――うん?
『だーかーら、愛の告白したんだって……ああん? エルフに結婚さき越されてやんのだってぇ? おい、新橋。てめぇこそバツ3のくせして女に見捨てられてるだろうが。そんな愛を育めていない奴に言う資格はねぇかんな』
エト――うん?
『という事でさ、あんたら交渉部はなんとかして取り繕ってよ。ちなみにエルフちゃんの出身は……あー、セルドア地区精霊樹だから頑張ってねー』
会話が終わらぬまま雪子さんが電話を切れば、さてさてとした面持ちで俺の方へと向いた。
聞きたい事は色々ある。山ほど聞きたい事はあった。
けど、どれもこれもすっ飛ばしては、いの一番に聞かなければならない事は一つしかない。
「あ、愛の告白って……なんなんすか、それ?!」
「そのまんまの意味だよ。宗司君が行った腕のクロス――あれはね、エルフにとってプロポーズと同じなの。それでキミはね、エルフちゃんに結婚の申し入れを行って、エルフちゃんはそれを快諾したの」
「それってつまり……」
「あはは、エルフの美人妻を手に入れるとか、呪い殺されちまえ」
冗談半分、笑いで済まそうかと思ったが、至って真面目な笑顔で雪子さんの口から飛び出すのは『外交問題』。
「ソウジ、ソウジ」
エルフさんが俺の服の袖をぐいぐいと引っ張ている。
その瞳から流れていた涙は止まって、代わりに赤く火照った頬を作っていた。
ようやくここで俺は理解した。
エルフさんの顔は、けっして悲しみに暮れていたのではなく、嬉し涙を零しているのだと。
こうして俺とエルフさんのファーストコンタクトは、俺からのプロボーズで始まった。