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三丁目の斉藤さん

作者: 餡子

 彼との出会いは、桜の咲く頃だった。公園の桜が満開で、薄桃色の花びらが風に舞う様を綺麗だな~と横目に見ながら、私は叔父夫婦の稼業の手伝いの真っ最中だった。そんな時、彼を見かけた。ベンチに座り、桜を見上げるどこにでもいそうなサラリーマン風の男。目についてしまったのはきっと、彼が普通のサラリーマンにしては、やけに高級そうな身なりをしていたからだ。人の顔をまじまじと見るのは気が引けて、顔はよく見ていないけれど、歳は……40代といったところか。この町で、こんな立派な格好をしている人はあまりいないから、きっと、どこかから来た営業の人だろう。そんなことを思ったか、思わなかったか。今となってはどうでもいいけれど、その時は、特に挨拶をするでもなく彼の座るベンチの前を通り過ぎた。


 二回目の出会いは、初めて出会った日から1週間後くらいだった。



「菜穂ちゃん、ちょっとお願いしてもいい?」

「どこですか~?」

「三丁目のアパート」

「はーい、今行きますー」




 私、春野菜穂子はこの春、この町に戻ってきた。


 幼い頃に両親を亡くした私は、子供のいない叔父夫婦に引き取られ、高校まで卒業させてもらった。進学なんて考えてもいなかったのに、叔父夫婦は、私に大学進学を強く薦めてくれ、東京の大学にまで進学させてくれた。そして大学を卒業し、東京で就職をした。だが、大学はなんとか卒業したものの、都会での生活は長くは続かずに、入社して一年で退職し、この海と山がある町に戻ってきた。そして、叔父夫婦の稼業のお手伝いをしながら、空いた時間は趣味の風景画を描くことに没頭する。そんな生活をしている。


 雑貨店を営む叔父夫婦は、宅配便の孫請けもしている。配達した分だけお金が貰えるというやつだ。歳をとった叔父夫婦には少し負担になるだろうこの仕事を私が毎日手伝っている。


 その日も、叔母に頼まれて配達に出かけた。時間は夜の8時、不在票を見た受取人が連絡を入れたのだろう。目的地は叔父夫婦の家から車で5分ほど走ったところにあるアパートだ。

 アパートやコーポといった所は表札を付けない人が多い。書かれている号室に届けに行ったはいいが、それが過去に住んでいた人物だということもたまにある。だが、連絡を入れてきたのだから、その点は安心だ。


『斉藤伸二郎』と宛名書きされた送り状から察するに、きっと年配の方で次男なんだろうなということが何となく想像できた。 が、インターホンを鳴らして、出てきた男性は年配と言うには少し申し訳ない気がした。それに、この人……


「あぁ、持って来てくれたんだ。ありがとう」

「いえ、仕事ですから。ここにサインをお願いします。ではこれで」


 そう言って別れたその人は、先日公園のベンチで見かけた人だった。あの時と違って、ずいぶんとラフないでたちではあるが、間違いない、あの人だ。その時は、「あの人、ここに住んでるんだ」くらいにしか思わなかった。



 それから二日後、また叔母に頼まれて斉藤さん宅へ配達に行った。それからまた二日後、そのまた二日後も。だから、自然と一日おきに斉藤さんと行き会う時間ができた。最初は必要最低限の会話しかなかったが、3回目の配達で名前を聞かれた。そして4回目の配達で、少しだけ話をした。


「いつもありがとう。荷物、多くてごめんね。雨降ってたでしょ?」

「いいですよ。それに、にわか雨ですし、すぐに止みますよ。それにしても、一日おきに何か届くって、斉藤さんお買い物しすぎですよ」

「アハハ、ちょっとね、今はあまり外に出たくないんだ」


『どうして?』とは聞かなかった。誰にでもそういうことってあるから。私自身も東京で働いていた時、そういうことがあったから。雨の日は特に。


 斉藤さんは、あまり自分のことを語らない人だった。その代わり、私のことはよく聞いてきた。名前だったり、趣味だったり、どうしてこの仕事をしているかとか。別に話すことは苦ではなかったから、私もいろいろ話をしたが、やっぱり斉藤さんは自分のことは何も言わなかった。知ってることと言えば、名前と住所と電話番号と、穏やかで、ちょっとだらしなくて、ふにゃ~っと笑って、笑うと目がなくなるおじさんというくらい。


 でも、そう思っていたのは最初だけで、この二日に一度の配達を繰り返すたびに、私は斉藤さんという人が知りたくなった。聞いたところで上手くはぐらかされて何も分からずじまいだけど、でもそんな斉藤さんが気になり始めたのもごくごく自然の流れだった。


「菜穂ちゃん、これ」

「え?」


 ある日、斉藤さんは届けた荷物をその場で開封し、中に入っていたものを私に手渡してきた。チョコレートだ。有名なメーカーのものだ。


「いつも……というか、二日に一度はお世話になっているからね。せめてものお礼だよ」

「でも、そんなつもりで……」

「いいから。受け取ってよ。ね?」

「じ、じゃぁ……」


 受け取った。受け取ってしまった。

 気をよくした斉藤さんは、その後も私が配達に行くたびにその荷物の封をその場で開け、私にくれた。どんなに断っても、斉藤さんも譲る気がないらしく、いけないと思いながらも私はそれを受け取っていた。チョコレートからはじまり、斉藤さんおすすめの珈琲、それからテディベアまで。



 ……なんだか、違う。


 斉藤さんと仲良くなりたかったのは本当だけど、これは違う。次第にそう思うようになって、だんだん知りたかったはずの斉藤さんが少し怖くなった。でも逆に、そうしてまで私とのこの変わった関係を保とうとする斉藤さんが、救いを求めているような、「たすけて」と言っているような、そんな気もして複雑な日々を過ごした。けれど、会ってしまえばやっぱりいつもの斉藤さんで、戸惑いはあるものの、家族以外の人と話をするのが楽しくて、ただ、斉藤さんと過ごす時間が楽しくて、そんなことを考えていたことも忘れて、それを楽しみにしてしまっていた。


 でも、私は知らない。斉藤さんが何者なのか。



 始まりがあれば終わりがあるように、私と斉藤さんの関係はある日、ぶつりと途切れた。

 澄んだ青空が目に眩しい土曜の午後、絵を描きがてら、海辺の公園にあるカフェでのんびりと珈琲とスイーツを楽しんでいる時だった。


「だから、その話はもう聞きたくないと言っただろう」

「ですがっ、奥様が気にされております」

「いいんだよ、放っておけばいいんだ。あの人の言いなりにはならない。だから僕を連れ戻そうとしても無駄だよ」

「副社長ッ!」

「うんざりなんだよ。肩書きも、家族のことも。兄さんに任せておけばいいじゃないか。だから放っておいてくれ」


 背後から聞こえた声は斉藤さんのものだった。いつになく、粗ぶったような声。マスターとの会話も頭に入ってこないくらい、私は斉藤さんともう一人の会話に聞き耳を立てていた。


ふくしゃちょう? おくさま? なにそれ?


 知りたかった。でも、知りたくなかった。斉藤さんは私が荷物をお届けしたら、ふにゃ~っと笑う、そんな人だと思ってた。そんな人でいてほしかった。でも、知ってしまった現実。彼には彼の生活があるということ。

 馬鹿じゃないの。何を期待してたんだろう。私は、一体どうしたかったのだろう。こんな……こんなの、まるで斉藤さんが好きみたいじゃない。


 一人、自宅まで帰る足取りは重い。降り出した雨はだんだんと粒が大きくなって、音を立て、遠くの空から稲光と、ゴロゴロと音がする。酷くなる前に帰らなきゃ。ふと見れば、道路の脇に咲いた大きな花が重たく頭を下げる。もうすぐ夏が終わる。



 それから私は、配達を休みがちになった。斉藤さんのお家にも行っていない。斉藤さんは知らなくても、私は知ってしまった。部分的だけど。彼にはやるべきことがあるのだろう。ずっとここにいて、配達に行くたびに暢気に世間話ができる人ではない。


 ハッキリ聞けばいいのに。と心の中の私が言う。

 ずっといる人じゃないならもう近寄らない方がいい。と心の中の私が言う。私はどっちにしたいのだろう。


 そんなどっちつかずの毎日を送っていたある日、私は久しぶりに斉藤さんのお家へ配達に行った。出迎えた斉藤さんは私を見るなり、悲しそうに微笑んだ。



「最近、来てくれなかったね。何かあった?」

「な、何にもないです。ただ、ちょっと体調崩しちゃって」


 視線を合わせたらこの気持ちを見抜かれてしまう気がして、目を合わせなかった。でも、私よりもずっと年上な斉藤さんにはお見通しだったのかもしれない。


「ハハ、菜穂ちゃんは嘘が下手だね。そうだ、ちょっと外へ出ようか。ちょうど珈琲が飲みたくなったからそこの喫茶店まで付き合ってよ」



 斉藤さんを意識し始めてから、配達は斉藤さんのお家が最後になるようにしていたから、この後はフリーだ。もちろん、それも分かってのことなんだろう。


「……はい」


 まるで怒られるみたいに、私は身を縮めて斉藤さんの草履の音を聞きながら後を歩いた。



 チェーン展開されている珈琲店の一番奥の席に座り、二人分のアイスコーヒーを頼んだ斉藤さんは大きく息を吐いた。ジャズが静かに流れる店内で、その音がやけに大きく聞こえて、私はビクリとした。


「もしかして、この間、カフェにいた?」

「……はい」

「そっか。聞いちゃったんだ」


 そんな他人事みたいに……


「斉藤さんは……一体何者なんですか?」


 全く知らない人が聞いたら、なんて滑稽な質問だっただろう。言った傍から恥ずかしくなってしまい、私は俯いた。


「これが僕の正体」


 斉藤さんは落ち着いた声でそう言ってお財布から一枚の名刺をさっと取り出し、テーブルの上に置いた。


『●●ホールディングス株式会社 代表取締役副社長 斉藤伸二郎』


 それは叔父夫婦が孫請けしている運輸会社の本社、ではなく、そのグループ会社全てを統括する会社。一番の親会社だ。自分とは全く接点もなく行き会うこともないであろう会社の副社長の名刺、名刺一つとっても自分との差を感じてしまう。


「そんな人がどうして……?」

「嫌いなったんだ。何もかも。だから逃げた。華やかで自由に見える世界かも知れないけど、実際はガチガチに固められて、自由なんてなくて、自分の考えを言えば、潰されて、兄を立てろと散々言われてね。窮屈なんだよ。あぁ、菜穂ちゃんが聞いた『奥様』ってのは僕の母親だ。もう40にもなる男に結婚しろだの何だのって」

「だからって、逃げるなんて……」


 そこまで言って思った。自分もそうだったのではないか? 辛くなって逃げてきたのではなかったか。


「ごめんなさい。私も人のこと言えない……」


 私はそれ以上、何も言えずに、ただ黙り込んでしまった。何を言ったらいいのだろう? 何を言ったら……



「菜穂ちゃんの手は、働いている人の手だね」


 斉藤さんは優しく微笑み、そう言った。じっと手を見られて、ただ恥ずかしかった。同じくらいの歳の女の子なら、手だってしっかりケアしてるだろうし、爪だって綺麗なネイルアートを施しているだろう。でも、私の手は違う。何枚も伝票を切り離したり、書きこんだりして指先はカーボンで真っ黒。ガサガサとまでは言わないけれど、手だって黒ずんで見える、爪だって、作業に支障をきたさないために短く切り揃えて、それも爪切りで切っただけでやすりもかけていない。


「あ、あまり見ないでください。まったくケアとかしてないし」

「うん。でも、頑張って働いてる人の手だ。ね、触ってもいい?」


 私はただ、だまって頷いて右手を差し出した。斉藤さんの大きな手が、私の手を包み、大切に撫でる。それだけのことなのに、こんな自分でも認められている。そんな気がして、少し嬉しくて、でもやっぱり恥ずかしかった。


「僕、もう一度頑張ってみようと思う」


 聞き逃してしまうくらいに小さく呟いた声を、私は聞き逃さなかった。ハッとして顔を上げると、いつになく真剣な顔をしていた斉藤さんは、くしゃりとその顔を緩めて、いつもの笑顔で笑った。


「君を見ていたらね、頑張ろうって思えたんだ。菜穂ちゃん、これからも絵を描いてよ。たくさん描いて。それでいつか、それを僕に見せて?」

「でも、私の絵なんて、趣味ですし……」

「でも、見せて。君の目に映ったものが見たいから」



 別れ際に、斉藤さんは私にキスをした。初めてのキス。突然のことに驚いたけれど、嫌ではなかった。斉藤さんは「こんなおじさんでごめんね」と困ったように笑っていた。そして、「ありがとう」と。


 自宅へ帰って、一人になって、私は夏と共に過ぎ去ってゆく秘めた淡い想いに泣いた。



 あれから、秋が来て冬が来て、また桜の咲く春。

 私は相変わらず、叔父夫婦のお手伝いをしながら、空いた時間は風景画を描く。そんな一年前とは変わらない生活を送っていた。


 あの日を最後に、斉藤さんには会っていない。斉藤さん宛ての荷物も届かない。一度だけ、気になって斉藤さんのアパートを訪ねてみたけれど、三丁目のアパートの斉藤さんがいた部屋は入居者募集の五文字と、管理会社の名前と電話番号が書かれたプレートがベランダに貼られていた。


 斉藤さんは自分の戻るべき場所に戻ったんだ。それでいい。それでよかったんだ。あの日々は、大切な宝物としてとっておこう。そう決めて、私は今までより多く、絵を描くようになった。斉藤さんとの大事な約束だから。忙しい暮らしの中で、斉藤さんは忘れてしまうかも知れないけれど、私は忘れない。だから、描く。


 そんな地道な活動がどこかで認められ、私は個展を開かせてもらえることになった。プロでなければ、それなりの教育を受けたものでもないから、売って生活のたしにしようなんて思わない。あくまでも趣味でやっていること。それに、個展と言っても市民会館のフリースペースに置かせてもらうだけだ。通り過ぎる人が、「あ、これはどこどこからの景色だね」とか「この場所知ってる」とか、そういうちょっとした言葉が聞こえるだけで、嬉しくなって、描いてよかった。って思えた。その声を聞きながら、またひたすらスケッチブックに鉛筆を走らせる。


「いい絵ですね。個展が開かれると聞いて、急いで新幹線に乗ってしまいました」

「ありがとうございま……」


 頭上から聞こえた声に顔をあげる。そしてお礼を言おうと口から出た言葉は途中で止まる。だって、そこにいたのは……


「久しぶりに配達を頼みたいんだ。この中で、君が一番に気に入っている絵を今夜アパートに届けてくれる?」

「え……でも、あのアパートは……」

「うん。ちょっと無理言って借りたんだ。だから、来て」

「わ、わかりました……」


 その夜、私は一番気に入っている絵をもって、数ヶ月ぶりに三丁目のアパートを訪れた。インターホンを押して出てきたのはあの日と変わらない斉藤さん。私は何が何だか分からずに、入って。と促されるままに、リビングに足を踏み入れた。ダイニングテーブルには二人分のグラスと一本のワイン。


「え、ちょっと……その、いろいろ分からないんですが……」


 恐縮しながら言うと、斉藤さんはいつもの笑顔で言った。そして斉藤さんの言葉にさらに私は恐縮してしまった。


「個展のお祝いだよ」

「いえ、そんなたいしたものじゃ……」

「僕がお祝いしたいんだ」

「じ、じゃぁ遠慮なく……」


 決して広いとは言えない筑年数の経っているアパートに、グラスを合わせる音はやけに不釣合いで、どちらともなしにクスリと笑ってしまった。


「そうだ、その絵、いくらで売ってくれる? 買いたいんだ」


 突然の申し出に私は困惑してしまう。だって、売ろうと思って描いたものではないし、それに私が一番楽しかった時を描いたものだ。買ってくれるのが斉藤さんであるなら、嬉しいけれど、でもやっぱり私にとっては大事なもの。


「あ、ありがとうございます。でも、この絵は売らないって……」

「じゃぁ、こうしよう。これと交換でどう?」


 差し出されたのは小さい箱。


「ずっと君が好きだったよ。あの時の僕は、あんな状態だったし、君にこんなこと言えなかった。でも、気持ちを伝えたくて二日おきに配達を頼んでは、君に会う口実を作った。配達してもらった物だって、君へプレゼントしたいと思って買った物だったんだ。ちょっと迷惑だったかな? でも、君がいたから僕は変われたのかも知れない。だからこれからも君が傍にいてくれたら、もっと頑張れると思うんだ」


 斉藤さんが紡ぐ言葉はまっすぐで、一言一言が胸の奥に深く刺さって涙が零れた。


「でも……斉藤さんはまったく違う世界の人で、私なんかが……」

「菜穂子がいい。一生懸命な菜穂子がいいんだ」


 私を抱きしめるその手、その腕は暖かい。


「僕みたいなおじさんじゃだめかな?」


 私は首を横に振る。


「ダメじゃないです……」

「よかったぁ……」


 斉藤さんの肩から力が抜けていくのが分かる。そして、斉藤さんのふにゃ~っとした笑顔を見たら、何だか私まで力が抜けてしまって、私もきっとふにゃ~っと笑っていたと思う。




 青空と海、その向こうに浮かぶ小島それからみかん畑。私の一番のお気に入りの絵は新しい持ち主によって、新しい家に飾られた。三丁目ではないけれど。

 そして、毎日それを見ては、あの頃の思い出話や、これからの話をするのだ。ずっと二人で。







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