湖面に沈んだ月 05
お待たせしました。二話分あるのでちょっと長いですが。
「白石の家が典型的な亭主関白だってことは知ってた?」
「噂では。何度かパーティーで見かけたときもそういう印象は受けたけど」
ちょっと見かけただけだから、と言葉を濁す。
そんな紫を見て、女医は笑おうとして失敗したような変な表情をしてから、あそこはひどいの、と言った。
「姉妹はずっと幼稚舎からあの女学校に通わされて、放課後は毎日習い事。自由時間はないし、友人を自由に作ることすら許されていなかったようよ」
「ふぅん。それならなんで祖母にお茶を?」
「白石はそれなりの旧家とはいえど、あくまでそれなり。しかもあそこの当主は野心家でしょう?嘉納のお坊ちゃんともしかしたら懇意になれるかもしれないっていう打算もあったみたいよ」
なるほど、と紫は心の中で大きく頷いた。
そもそも、白石姉妹が祖母にお茶を習うことになったのは、祖母と白石家前当主夫人が昔からの友人で仲が良かったことに端を発する。祖母たちの間にどういう思惑があったのか知る由もないが、あの祖母が斎と同世代の女の子を家に入れることを許すという程度には、白石家の前当主夫人との仲は良好だったのだろう。それでも、決して斎と対面させようとしなかったところが祖母らしいが。
「で?」
とはいえ、紫が聞きたいのはなぜ白石姉妹が祖母にお茶を習うことになったのかということではない。父に命じられたのは、調査と後始末だ。余計なことにまで口を突っ込みたくはない。
「とにかく、あの姉妹はかなり抑圧された環境で育ったことに間違いはないわ。あと、もう一つ、あの姉妹は一卵性だったけど、似てない双子として有名だったようよ。この意味がわかるかしら?」
「外見的にそっくりではあったんだろ?」
「ええ。そりゃあ一卵性だからね。でも…」
「性格が全く違う?」
「それに近いかしら。妹ちゃんはお姉ちゃんにべったりで常に理不尽な両親に立ち向かうのはお姉ちゃんのほうだったそうよ。妹は姉が守っているけれど、姉は誰が守ってくれたのかしら?祖母や母親、使用人はみんな父親の言いなりで逆らったり、ましてや姉妹を庇ってくれたりはしない。そういった抑圧に抑圧を重ねた環境にいた彼女が嘉納斎という異性を見たとき、どう感じるかしら?」
紫はわかりやすく眉間にしわを寄せてみせた。
途中まではわかる。きっと白石姉はいろんなものを抑圧された環境下におり、何かのきっかけさえあれば爆発するような危うさを秘めていたのだろう。それがなぜ、自分の兄である斎と関係するのか。
斎とて、多少は自由が許されていたものの、祖母の監視下のもと抑圧された環境下で育っている。よく似た環境にいたといえなくもない。ただ、斎の場合にはおそらく両親からの抑圧というのはなかっただけで。
「ああ、紫くんから見たらわからないかもしれないわね」
女医は苦笑してみせた。
「あのね、月並みな表現で悪いけど、あなたのお兄さん、輝いて見えたんだと思う。実際、どこか違う世界の人間なんじゃないかとびっくりした、って」
あのね、きらきらしてたんです。と白石茜はどこか遠くを見て言った。
事件の解明と後始末のために精神科医でカウンセラーでもある彼女は白石姉妹が隔離されている病院で、できうる限り話を聞いた。もちろん、姉妹の部屋はお互いにわからないように隠してある。
その中で、茜はどうして竜崎を刺したのかは言わなかったけれど、斎を初めて見たときや、竜崎も交えて交流するようになったことなどは時々、女医にこぼすようになった。
―――斎くんは、王様みたい。だけど、ひとりでは王様だって立てないでしょ?
横にね、竜崎くんがいるんです。
あの二人は、二人だからきっとあそこにいられるの。
―――斎くんが好きなの?
―――あはは。違います。確かにきらきらしてて、目を引くのは確かに斎くんだけど。
「彼女、自分が竜崎くんを刺したこと、覚えてなかったり、思い出したりを行ったり来たりしてるの。覚えてないときはそれなりに言葉を交わせるんだけど、思い出したときはまだ駄目ね。半狂乱になるし、自殺しようとするからそれを防ぐので手一杯。妹ちゃんも何が起こったのかよくわかってなくって支離滅裂な言葉を繰り返すだけだから、ここから話すことは竜崎君の言葉を聞いて私が想像したものだから鵜呑みにはしないでね」
――あの日も四人で遊ぶ予定だった。嘉納の前当主夫人が亡くなってからは、斎くんが白石姉妹と会うのに何の障害もなくなっていたから気兼ねなく遊びの予定を入れたのでしょう。白石の当主も嘉納や竜崎とのつながりができるのならば反対はしないだろうし。
いつもと同じような一日になるはずだった。何が原因だったのかはわからない。もしかしたらずっと前から決めていたのかもしれないわ。
白石茜は折り畳み式の果物ナイフをスカートのポケットに入れていた。ずっと持ち歩いていたみたい。どうやって入手したのかは不明だけど調べてるからそのうち、わかると思うわ。ともかく、ナイフを彼女は持っていた。彼女の腕にはリストカットの痕も残ってたわ。そのことからすると彼女はおそらく限界だったんでしょう。
いつも通り、斎くんの部屋で斎くんは誰かに呼ばれて部屋を出ていた。今までだって同じようなことは何度もあったから三人で気兼ねなく話をしていたそうよ。
その途中で妹ちゃんがお姉ちゃんに耳元で何かを囁いたと竜崎君は言っていたわ。その途端、茜ちゃんの顔が強張り、震えだした、と。
茜ちゃんの様子があんまりにもおかしいから竜崎くんは彼女に近寄ろうと座っていたソファーから立ち上がった途端、茜ちゃんが「来ないで」と叫んだそうよ。茜ちゃんがそんな大声を出すことなど今までなかったからますます驚いてしまってなんとか宥めようとした途端、ナイフでいきなり切り付けられた、と。
さらに間の悪いことに、ちょうどその瞬間、斎くんが自室に戻ってきてしまったのよ。
茜ちゃんは竜崎君にナイフで切り付けた後、近くにいた妹を「なんで」と言いながら突き飛ばしたそうよ。ナイフじゃなかったのは、とっさに竜崎君がナイフを奪い取ったから。
これが話の全貌。
補足するなら、斎くんが部屋を出る前、楓ちゃんはいい奥さんになるだろうって話をしていたみたい。
紫はしばらく茫然とした後、眉をしかめた。
まったくわからない。
だいたい、茜は竜崎に恋をしていたのではないのか。なのになぜ、竜崎を刺し、妹を突き飛ばすのか。
いや、妹を突き飛ばしたのは妹である楓を守ることに疲れてしまったと言われればそれは納得できる。
できる、が。
竜崎を刺す必要性を感じない。
「うん、まったくわからないって顔してるわね。あははは。うーん、なんていえばいいのかな。あのね、茜ちゃんは竜崎くんに恋をしていたというより、竜崎くんになりたかったんじゃないかと思うの」
「竜崎になりたかった…?」
「そう。王様の隣にたってお互いに支えあう二人。自分と妹ではどうしたってなれない関係性。だからこそ茜ちゃんは竜崎くんに憧れたのだろうし、その憧れを恋だと勘違いしちゃったのね」
抑圧された環境下で育ち、耳に入ってくる情報も制限されたものに違いなかった彼女には自分の抱いている感情が何かすらよくわかっていなかったのだろう。それを恋だと勘違いしていたとしても無理はないし、それは確かに恋だったのかもしれなかった。
「白石茜が勘違いしていたとして。それがなんで竜崎を刺すこととつながるのかわからなんだけど」
「そうねぇ、なんと言ったらいいかしら。一言で表すなら嫉妬、かな」
―――楓ちゃんは斎くんの奥さんになるかもしれない。だとすれば、「妻」として茜ちゃんが斎くんの隣に立つことは日本では無理よね?でも、片腕としてなら?親友としてのポジションなら立てるかもしれない。だけど、すでにそのポジションは竜崎くんで埋まっている。
さて、八方塞がりの彼女はどういう行動が取れたかしら?
「だからといって刺すのは…」
「うん、短絡的だし、それで斎くんの片腕ポジションにつけるわけでもないわ。冷静に考えればそんなことわかる。けれどきっと理屈じゃないんでしょう」
―――これが私の考える事実よ。
そう言って女医はにっこりと笑った。
これが紫の知るあの事件の真相だ。
女医のところから帰るとき、女医は「きっとあなたにはわからないわね」とさみしげに笑った。
当然だ。紫は彼らのように抑圧された環境には置かれていなかったし、自分が普通とは違う生き物であることを幼いころから漠然とわかっていた。いわゆる「天才」と呼ばれる類であると知ったのはもう少し後になってからだったが。
他人に共感できないというのはひょっとすると淋しいことなのかもしれない。きっとあの女医は茜の気持ちがなんとなくではあったも想像がつくのだろう。それが正しいかどうかは別にして。しかし、紫にはさっぱりわからない。女医の説明が筋が通っているような気もするし、そうでない気もする。冷静に考えれば、竜崎を刺したところで何も現実はかわらず、むしろ悪くなる可能性だってあったのだ。
だけど、そんなこと茜は考えたりしなかったのだろう。そうでなければ誰かを刺すなんてこと善良な彼女にはできなかったはずだ。
これだから、感情というやつは恐ろしい。
特に他人に共感することが難しい紫にとっては特に。
というようなことを彩月に話せば、にっこりと笑って「だからこそ面白いでしょ」と言った。
「感情というのは『正しい』とか『正しくない』とかそういうのとはまた別の枠組みなのよね。理性ではわかっていても、感情はおさまらない、ってやつよ。恋愛があれだけドラマになるのは、それだけ感情に振り回されやすくなるのが恋愛だからじゃないかしら?今回のことだって、斎さんもわたしと結婚するのがベターなんだってことはわかってたんじゃないかしら?それを投げ出したのはあの人に覚悟がなかったし、現実が見えてなかったからでしょう。それが悪いかどうかはわからないし、そのことにあなたが共感できなかったとしてもそういうものよ」
わたしは共感できることが必ずしも素晴らしいことだとは思えない。
そう言って紫をまっすぐ見抜く彩月だからこそ紫は彩月が欲しいと思ったし、敵わないと思ったのだ。
ああ、自分の選択に間違いはなかった、と紫は心からの笑みを彩月に送った。
ひとまずここで一区切り。詳しくは活動報告にて。