湖面に揺れる月 01
世界はわからないもので満ちていた。
紫は嘉納家次男としてこの世に生を受けた。
彼は幼いころ、体の弱い子だった。何か持病があるとかいうことではなく、しょっちゅう風邪を引き、熱を出し、挙句の果てにインフルエンザには予防接種をしていたとしてもかかるというなんとも面倒なお子様だった。
しかも厄介なことに幼稚園で風邪が流行っていようともまったくうつらなかった斎が、なぜか紫の風邪はすぐうつる。接触しないように気をつけていても子どもの好奇心というのは際限ないもので隙を見つけては斎は弟に会いに行き、風邪を引く。そんな悪循環に参った大人たちは斎と紫を隔離することにした。
ゆえに斎と紫は幼少時、ほぼ顔を合わせることなくすごしたのだ。
しかしなぜそんな考えに至ったたのか紫には果てしなく疑問であるが、斎は紫が半分しか地のつながらない弟であるが故の措置だったと思い込んでしまっていた。紫と斎が異母兄弟だと勘違いしたことについては智のせいでもあるが、親戚のお節介な告げ口にもあったのだろう。弟の紫から見て大丈夫だろうかと思わずにはいられない程度には、斎は素直だった。本人に自覚はないようだが。
さて、そんなわけでなぜか斎は勘違いしているが、斎と紫は正真正銘、同腹の兄弟だ。順当にいけば兄たる斎が嘉納を継ぐのだろう。それに何の不満もないし、むしろ嘉納なんて面倒なものを背負い込みたくない紫は中学生になったらさくっと海外に逃げることにした。
ヨーロッパでの生活は楽しかった。
斎が秀才タイプならば、紫は天才タイプなのだろう。型に縛られるのが嫌いな彼にとって必要以上に団体行動を強制されない生活は気軽で息がしやすい。コンビニがないのは不便だけれど、それも慣れてしまえば何の問題もない。紫は大いにヨーロッパでの生活を満喫していた。
そんな折に、日本から留学生がやってきた。彼女は時任美月と名乗った。
彼女は頭の回転がおそろしく速くて、好奇心旺盛なせいか、話していてとても面白かった。他人に対し興味が薄い紫がはじめて興味をもった相手だった。
彼女と過ごす日々は面白くて心躍った。他人にここまで心を揺さぶられるなんて知りもしなかった。この気持ちをなんと呼ぶか知らない。恋と呼ぶには深すぎ、愛と呼ぶには澱みすぎていた。
彼女を手に入れたいという執着心がぱんぱんに膨らんで爆発しそうになる寸前、彼女はあっさり紫の前から姿を消した。
これには紫もさすがに驚いた。まさかいきなりいなくなるとは予想していなかったのだ。しかし、予想外の出来事はそれだけに終わらなかった。
並々ならぬ執着心を彼女に対し抱いていた紫は、当然いきなり姿を消した彼女の姿を探した。名前はわかっているのだしすぐに見つかるという希望はすぐに砕かれた。偽名だったのだ。
八方に手を尽くし、それでも無理だとわかってからは、嫌々ながらも嘉納の仕事を一部請け負うのと引き換えに嘉納の力を借り受ける約束すらした。
今思えば、父は薄々斎が使い物にならなくなる可能性に気づいていたに違いない。父のもとに持ち込まれる縁をのらりくらりと交わしていた父が斎の婚約者に宮園の令嬢を選んだのもちょうどそのころだ。宮園の令嬢の力でなんとかなれば良いけれどならない場合に備えて紫を嘉納の当主に据えるという考えもあったのだろう。
父の思惑なんぞ道端に落ちている小石よりも興味ないが、消えてしまった彼女を見つけるには父の持つ力は魅力的で、条件を突き付け、いざというときは嘉納を率いることを約束した。
そうして、宮園との婚約が整う少し前、とうとう時任美月と名乗った彼女が宮園家次女であることを突き止めた。ここで誤算だったのは、紫は彼女を探してはいたけれど、日本に帰国してはいなかったことだ。父との約束は当然秘密であったのと口うるさい親戚に痛くない腹を探られるのが嫌でよっぽどのことがなければそのまま海外で仕事していたため、報告は受け取っていたものの、彼女本人を確認したことはなかったのだ。
そうして、正式に宮園との結婚が決まったとの連絡を受け、帰国してみれば兄の隣に座っているのは、彼女だった。
「まさかまだひっかけがあったとは気づかなかったよ」
「まぁ、それはそうでしょうね。時任を名乗るだけでも十分だとは思っていたけれど、念には念をいれて、ね。それにたとえ期間が決まっていたとしても宮園の直系長子たるわたしが海外に留学するなんてことそう簡単に許されるわけがないわ。それで妹の名前を借りることでお互い妥協したの」
「あのときばかりは日本の社交界にも顔を出しておくべきだったと心底後悔しているよ。そうすれば少なくとも宮園がどういう一族かわかったはずなのにね」
ふふふ、と笑う彼女は本当に綺麗だ。誰よりも執着している相手が兄の妻になったと知ったときは絶望のあまり身を投げ出したくなってしまったが、こうして今は隣にいてくれるのだから、あの時あきらめなくて本当に良かったと思う。この普段は淡白なくせに、一度執着した相手にはとことん執着する性質は父譲りで嫌になるが、それでも彼女を手に入れられたのだから文句はない。
もちろん、うっかり身投げする前にどうすれば彼女を手に入れられるか考えて、巧妙な罠をしかけるのを忘れたりはしなかったが。
どのくらい長くなるのか自分でもわかりませんが、お付き合いよろしくお願いします。