その一
幾年もの時を経て、なお、古びることなく愛され、語り伝えられてきた物語がある。
たとえば古謡には、曰く。
かつて世界は嵐の中の麻畑のごとく、戦いに乱れていたのだそうだ。
焼き討ちの炎に焦がされ、その小さな城砦都市の夜は明るくなり、またその昼は騎竜の翼の陰に暗くなったのだそうだ。
多勢に無勢、応援は望めない。とうとう守りの城壁が落ち、街が蛮族に蹂躙されんとした、まさに、その時のことだ。
切れ味鋭き大剣を手にし、立ち上がった若者があったのだ。
若者の名を、ヴェレイラと言う。
たった一人で蛮族を相手取り、都市を守った彼の名こそは、ヴェレイラ・ヴァン・デ・クリーフ。
吟遊詩人がその業績を、現代まで歌い伝える彼は、すなわち―――王家剣術指南役として世に名高い、ヴァン・デ・クリーフ家の始祖である、のだとか。
そんないきさつがある以上、だ。
「……やっぱりあの歌は外せないよなぁ……」
なにをどう考えてみても、結論はここへたどりつく。
若い吟遊詩人はため息をつくと、琥珀色の瞳を客間のマントルピースの上へと向けた。
見るからに高価そうなガラス張りのケースに飾られているのが『伝・ヴェレイラの大剣』なのである。
ひょんとしためぐりあわせで招かれた、ヴァン家跡取り息子の十才の誕生日。祝いの席で歌うには、やはり、『ヴェレイラの勲』の他に歌はないだろう。
しかし、本来この歌は、男女二人の混声で歌うべきものだ。
一人でも演れないことはないけれど、さすがに二十才を過ぎると高音部は歌いづらい。かと言って、生半可な音楽家の技量では、彼についてこられまい。せっかくの歌が台無しになってしまう。いや、こちとら仮にも吟遊詩人なのだ。それっくらいの自画自賛は許してもらいたいところ。
しかしさてさて、どうしたものだろう。
ダメもとで、いっそ今から妹に連絡を取ってみるかなどと思いつつ、詩人は難しい顔をして、ジタールを形ばかり構えると、『ヴェレイラの勲』の主旋律だけをぽろんぽろんとつま弾いていた。
と。
「……あのう。やっぱり、『ソレ』を演るの?」
おずおずとかけられた声があった。吟遊詩人は顔を上げる。
声の主は、客間の扉を細めに開けて、中を―――彼を ―――そっと覗き込んでいた。
きちんと櫛の入った髪に、糊のきいたシャツ。こざっぱりした身なりのその少年は、固唾をのんで詩人の出方をうかがっているようである。
「そのつもりですが―――それがなにか?」
「だって僕、その歌大嫌いなんだもん」
吟遊詩人の眉が、片方だけあげられた。
「これはまた異なことを。栄えあるあなたの御先祖の歌ですよ?」
「嫌いなモノはきらいなんだ」
本日の祝いの主役、十三代目のヴェレイラ少年は、むきになって言い張った。
「僕の誕生日なんだから、僕の嫌いな歌は歌ってほしくない」
ぎゅっと拳を握りしめ、言い放って唇をかんだその様子。
少年は真剣だ。
詩人はふむ、と頷くといずまいを正し、少年を手招きした。
「なにやら子細がありそうですね。詳しくお聞かせ願えないでしょうか?」
「そしたら歌うのやめてくれる?」
「それを検討するために、理由をお聞きしたいのです」
ちぇ、と舌打ち一つして、少年は客間に足を踏み入れた。扉を閉め、声が外に届かぬように、うんと声を低くして、彼は話しだす。
「だってさあ。何かにつけて、初代は、初代だったら、って言われるんだよ? 初代は初代、僕は僕だもん。なのに初代が有名な騎士だったから、僕もおんなじように騎士か、それか王室付き騎士団の剣術指南役になんないといけないなんて、そんなのおかしいよ」
琥珀の瞳は少年にまっすぐつけ、詩人は黙って耳を傾けている。その様子に後押しされて、次第に少年は熱弁を振るいだした。
「同じ名前をつけられただけでも、もういい加減うんざりなのに……今は昔と違って平和で戦なんか起こらないのにさ、騎士なんて時代遅れだよ。もっとこう、世の中のためになって、お金も稼げる仕事がいいよ。訓練とか嫌だしさ。痛いし、疲れるし、めんどくさい」
傀魔や化け物だって、もう、よーーっぽどの辺境でないと出ないんでしょ? と聞かれて、詩人はうなずいた。街道あたりはすっかり整備され、魔法の護りも固められている。非力な彼や妹が、普通に一人旅が出来る程度には安全だ。
「でしょ? だったらさ」
少年は、我が意を得たりと身をのりだした。
「僕、ご先祖や初代とは、違うことをしたいんだ。僕にしかできないことをしたいんだ。騎士になんかなりたくない。剣なんて、ヒトゴロシの技術、極めたってなんにもなんないよ」
「……なるほど、そういう理由でしたか」
感慨深げに呟いた詩人の指先が、ふと、抱えたジタールの弦に触れた。ぽろん、とこぼれる音にひかれてか、しなやかな指が気まぐれに、和音を二つ三つ弾きだす。
と。
なにを思いあたったものだろう。詩人の頬に、いたずらっこめいた笑みがのぼる。そして。
「ひとつ、面白い話をしましょうか」
「話? 面白いの?」
「ええ。私の生家に代々伝わる――あの大剣のように――ジタールにまつわる話、なんですけれど。あ、ところで『ナヴィガトーレ・サガ』はご存じですよね? これを知らないと始まらない」
ご存じもなにも、この物語を知らない者など、この世界にはいないのではあるまいか。
ナヴィガトーレ。
伝説の歌姫。<風の民>がその末裔を自称し、一族の誇りとする少女の名前である。
トリニティ三美神の一柱、風と踊りを司る女神と同じ名を持つ少女と、その業績を歌う様々の歌物語はどこの人々にも愛され、親しまれているものだった。
英雄ヴェレイラの伝説を抱くこの都市も、その例外ではありえない。
「知ってるか、って? 僕大好き! 歌えるんだよ。そら」
少年は顔を輝かせると、息を吸い込み、歌物語の出だしを歌いだした。
『ぬばたまの……朋友の別れより黒き髪、
月の顔、波打つしなやかの瑞枝の胴。
そのまなざしは文人詩人の夢を醸し、
その完美の姿は工匠らを惑わしぬ。
見よ! かくも軽き妖精の足取りを持って歩み来る、
かのひとの名を告げよ!』
澄んだ声に導かれるように、詩人が手にしたジタールも歌いだす。
『かの人の名は――ナヴィガトーレ』
そして、詩人は語りだした。
門外不出というわけではないが、めったなことでは歌わぬその歌を。